第5回 2014年1月1日   東京工芸大学名誉教授 加藤智見

【連載・親鸞と現代の諸問題(5)】
  ―現代の子どもの悩みに、聖人はどう答えてくださるか―

 

 先回は、現代の日本の若者たちの悩みについて聖人にたずねてみた。今回は子どもたちの悩みについて聖人にたずねてみたい。
 子どもたちの最も深刻な悩みが「いじめ」にあるということは、誰しもが認めることであり、異論はないであろう。いじめは根絶されなければならないとよく言われるが、これは人類はじまって以来執拗に人間につきまとってきたものであり、容易にはなくならないだろう。しかし人間の心の病巣を徹底して追究された親鸞聖人にその本質を問い、解明し、なくしていく指針を得ることは、われわれ聖人に教えをいただく者には、絶対にしなければならないことであると私は強く思う。
 ところで聖人といじめの問題を関連づけて考えるとき、いつも私の脳裏に浮かぶのは、越後から関東への移動の際の、そして稲田定住の頃の聖人のお子さま方の姿である。
 建保2(1214)年、聖人は恵信尼とお子さま方を連れ越後を発たれたが、留意すべきは、その道すがらご家族一行に向けた沿道の人々の目である。当時、僧が妻や子どもをつれて旅をするなどといったことは信じられないことであった。独身を保ち、修行に専念しているからこそ僧は尊敬されていたのである。ところが聖人は半僧半俗のような姿で妻子をともなっておられた。破戒者がぞろぞろ歩いているとしか人々の目には映らなかったであろう。聖人には非僧非俗の姿で生きていこうという信念があった。しかしお子さま方には、人々の向ける蔑みの目は刺すような痛みを与えたはずだ。
 さらには聖人が稲田に定住されはじめた頃、庵の近くで遊ぶお子さま方に当地の子どもたちはどのような態度をとったのだろうか。当時、常陸は既成の宗派の支配のもとにあったから家族をもつ僧はいなかったはずだ。もともと子どもたちはよそ者や異質なものをいじめたがるものだ。「坊主の子、坊主のせがれ!」などとはやし立て、いじめたにちがいない。子どもだからといって軽視してはならない。子どもの行動には人間の煩悩がむき出しになることが多い。では聖人はこのようないじめとなって現われる人間の煩悩をどう感じられ、考えられたのだろうか。
 もちろん聖人は「いじめ」について直接語ってはおられないので、あくまで私の推察にすぎないが、聖人はいじめる子の中にも、いじめられる子の中にもそのような行動に走らせる煩悩の姿を凝視されていたにちがいない。 
 いじめる子を単に叱ったり、あるいはいじめられる子にただ同情したりするのではなく、「今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたき」(『歎異抄』)ことを思い、「凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、わるきものとおもうべし」(『末燈鈔』)との人間洞察から、いじめの本質を煩悩の深みにおいて徹底的に考えておられたはずである。
 では煩悩とは、いじめとはどのような本質をもつものだろうか。
 聖人は煩悩の根源に「三毒」を見ておられた。三毒とは、貪欲・瞋恚・愚癡すなわち貪・・瞋・癡(とん・じん・ち)であり、人を毒する煩悩の根源である。この三毒をふまえ、聖人なら次のように語ってくださるだろう。

 

 「まず貪とはむさぼりであり、何でも自分に都合よくあって欲しいという欲望です。いじめる子においては、何でも手に入れたい、周囲の子を自分に都合よく動かし、支配したい、だからそうしない子どもを排除したり支配しようとする行動になったりするのです。いじめられる子においては、排除されたくないから意に反して従い、支配されていることを人に知られたくないからひたすら隠そうとし、自分だけの世界に閉じこもるような行動をとるようになるのです。
 次に瞋とは怒りのことですが、いじめる側の子は、従わせようとしても従わない子には激しい怒りをぶつけ、執拗にいじめ続け、ますますこれをエスカレートさせます。いじめられる側の子は、それに抵抗できない場合、親に当たったり、弱い子に怒りをぶつけるのです。しかしそれができないとその怒りを自分に抱え込んだり抑え込んでいじめる子を呪ったり、あるいは我慢できずに怒りを爆発させ、思わぬ行動に走ったりするものです。
 最後に癡とは、物事の道理がわからないことで、そのためむやみに人を憎んだり怨んだりすることですが、いじめる子は怒った上にさらに自分の欲望が満たされない原因をいじめられる子のせいにして憎み、恨み、妬んだりしながら、さらにいじめを強めます。いじめられる側の子は、憎まれ、恨まれたりする原因をいじめる子のせいにしたいのですが、それを行動に表わせばさらにいじめられることになります。だから自分を生んだ親を憎んだり、助けてくれない教師、さらには社会が悪いのだと責任を転嫁したくなります。しかしそれを的確に表現したり行動に移せないため、ますます苦しむようになるケースが多いのです。
 もちろんいじめの問題はさまざまな要素が絡んで起こります。簡単に図式化できるようなものではありませんが、今お話しした三要素が根本にあることは、おそらく否定できないでしょう。
 このような三毒に犯された心の動きは、私の子どもをいじめる子どもたちの中にも、また私や私の子どもを蔑む大人の中にもあるのです。私の子どもたちはひたすらいじめに耐えているのでしょうが、それを見るたびに煩悩の悲しさが私の心を痛めます。
 しかしながらいじめとそれを引き起こす煩悩を見つめつつ、阿弥陀さまに目を向けるとき、いよいよ「罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願」(『歎異抄』)を深く実感させていただけるのです。いじめてしまう煩悩に苦しむ者も、いじめられて苦しみを背負う者も、ともに救ってくださるのが阿弥陀さまの悲願なのです。一緒に悲しみ泣いてくださっているのです。
 親も教師も誰もが、人間の煩悩の根底にまで降りて行っていじめを考え、まずわが身を反省し、いじめる子、いじめられる子の苦しみを理解し、阿弥陀さまの悲願の次元からその救済を考えることが、いじめをなくしていく第一歩となるはずです」

 さて、今回で「親鸞と現代の諸問題」の連載を終わりにし、次回からは「親鸞とルター」というテーマで連載させていただきます。親鸞を世界的な視野から見、仏教とキリスト教を比較しながら、同時に日本思想と西洋思想の根底を読み解いていきたいと思います。
 また、3月9日(日)に開催されます西念寺さまでのスプリングセミナーでは、「親鸞とルター―世界から見た親鸞像―」と題して講義をさせていただきます。ご来聴いただければ、ありがたく思います。

 

 

 

「春の市民大学講座」(3月11日)は、ほぼ席が埋まっている状態でした。ご参加の皆さまのご声援、さらに多額のご寄付、ともにありがとうございました。

(3月12日)

 

夏の市民大学講座」(7月21~22日)の詳細は、近日中に決定します。もう少々お待ちください。

(5月14日)



公開講座「解釈改憲の果てに」齊藤和夫先生は、自衛隊の追認と海外派遣を巡り憲法解釈の変更が積み上げられてきた過程を、解り易くお話くださいました。そのクライマックスが、あの集団的自衛権容認だった訳です。時間切れで「緊急事態条項」のお話を伺うことができなかったのが残念です(次の機会ですね)。

 

受講者アンケートを拝見させていただきましたが、皆さまの改憲問題への関心の高さを実感いたしました。知識を再確認して問題点を整理した上で、「なんとなく賛成or反対層」へ的を射た議論を広げていく必要があるように思いました。巧みなプロパガンダを行う政府の言うままにならない、賢い市民・国民でありたいものです。

セミナー「日本文化と仏教のかかわり―道元の教えを中心に―」では、皆川義孝先生が美しいスライドをお使いになりつつ、禅の思想が日本の食文化に大きく影響していることをお教えくださいました。公開講座の深刻さとは打って変わり、講義室はグッと和らいだ雰囲気です。終講後には「いやぁ~面白かった!」との声が…。永平寺で1年も修行された皆川先生ですので、お話に説得力がありました。また、立派な『英語対訳 典座教訓』を受講者の皆さまに頂戴しましたこと、駒澤女子大学さまに厚くお礼申し上げます。(3月12日)

 

次の「夏の市民大学講座」は、7月21~22日です。

詳細は左端下部の「公開講座・Spring & Summer Seminar のご案内」をご覧ください。皆さまのご参加をお待ちしています。

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。