第1回 2013年5月1日    東京工芸大学名誉教授 加藤智見

 本年3月10日、スプリングセミナーで講義をさせていただきました加藤智見です。
 このたび西念寺様のHPに、私の連載コーナーを設けていただくことになりました。親鸞を研究する私にとって、西念寺様のHPに執筆させていただけることは、この上なくありがたいことでございます。
 私は宗教学や哲学の立場から、長年親鸞の思想と信仰を中心に研究してまいりましたが、この連載では、二か月に一度のペースで、現代を生きるわれわれが遭遇している諸問題を、「親鸞と現代の諸問題」というタイトルのもとに、親鸞にたずねていきたいと思います。これによって親鸞の思想と信仰を、現代的な視野から生き生きとした形で学び、追究していけるのではないかと思います。ご一読たまわれば、幸甚に存じます。


【連載・親鸞と現代の諸問題(1)】
  ―高齢化社会の問題と親鸞の信仰―

 現代の日本人は、さまざまな問題を抱えているが、その根底に深い孤独感が横たわっていると思えてならない。世代別に見てみると、たとえば子どもたちはいじめられることによる孤独感、いじめざるを得なくしている孤独感を、若者たちは就活や婚活の挫折感からくる孤独感、壮年の人々は社会や職場、さらには家庭からの疎外感からくる孤独感、そして高齢者は若い人から避けられる孤独感、やがて死を迎えなければならないという不安感からくる孤独感などを抱いている。
 もしこのような孤独感に悩む現代のわれわれが、稲田に滞在される親鸞をたずね、その孤独感を離れるべく真剣に問うことができるとしたならば、彼はどのように答えてくれるのだろうか。もちろん阿弥陀仏を信じ、念仏することが勧められるだろうが、阿弥陀仏がいかなる存在であり、なぜ、どのように信じるのか、念仏は何なのか、孤独はどのようにして癒されるのか、などを懇々と説いてくれるだろう。比叡山で、越後で、死ぬような孤独感と戦った彼にとって、さらに九十歳という当時では考えられないような高齢を生き抜いた彼にとって、われわれの悩みなぞどんなに浅いものかを見抜きつつ、それでもやさしく親身に話し相手となり、その孤独感こそ救いへの契機になるのだと説いてくれるだろう。


 今回は、まず現代日本の高齢者の孤独感を取り上げ、やや詳しく分析しておき、次回、親鸞にこの孤独感から解放される方法を教えてもらうことにしよう。
 高齢者が孤独感に追いやられている理由を、ひとまず四つの面から見ておきたい。
 まず第一に、医学等の発達により平均年齢は飛躍的に伸び、「若いのに死んでいかねばならない」という苦しみからは解放された反面、逆に「身心が衰え、そろそろお迎えにきてほしい」と思っても死ねないという苦しみが生じてきた。身体のみが無理やり生かされ、ほとほどのところで死を迎えられないという苦しみが生まれてきたのである。さらにこのまま生きていると認知症などにとりつかれ、人間的で主体的な生き方もできなくなってしまうのではないか、長期間病院や施設に入った場合、高額な費用がかかるのではないかと考えざるを得なくなり、絶望的な孤独感が身を責めるようにもなった。
 第二に、家族形態の変化からくる孤独感が考えられる。昔は大家族の家庭が多かったが、次第に核家族になり、やがては「孤族」という言葉で表現されているように老人のみ、さらに伴侶を失えばまったくひとりで生きていかねばならなくなった。そして最近では、ひとりで暮せなくなった高齢者が、病院にも居られず、介護施設にも入れず、行き場を失って居場所を転々とする状態を指す「老人漂流社会」という言葉まで生まれた。もはや自分のために親身になってくれる人もなく、自分は社会や家族のお荷物になっているだけであり、存在価値もなく、ただこの世を無意味に漂っているにすぎないという実感からくる孤独感に襲われるようになった。
 第三に、社会学の分野でいわれる「無境界現象」がいよいよ高齢者を悩ませるようになっている。この言葉は、従来の価値観が急速に崩壊していることを表わす言葉である。たとえば一昔前には、正常と異常、公と私、真面目と不真面目といった価値観の間には一定の境界、つまり区切りがあったのであるが、急速にその境界が崩れ、変化するようになった。その変化に高齢者が対応し切れなくなっているのだ。人は年齢を重ねるにつれ、新しいものに適応できず、古いものに固執するようになる。親切心から若い人に世話をやいても、価値観の違う彼らからは逆にうるさがられ、避けられるようになる。勢い高齢者は、裏切られたような気持になり、自分はこの家庭や社会にはいないほうがよいのではないかと思いこむようになる。ひたすら自分の心の扉を閉ざし、孤独な世界に閉じこもってしまう傾向が、最近顕著になってきているのである。
 第四に、高齢者として当然のことであるが、いよいよ死が近づいてくる。昔のように医療があまり発達していない時代には、死に対して心の準備をしなければならなかった。そして死への覚悟と死後に行くべき世界を信じ、信仰や信念を形成することが高齢になる者の常であり、自宅で死を迎えるに当たって家人に恥ずかしくない死に方をしなければならなかった。しかし現代では、死は、もしかするとずっと先のことかも知れないと思えるようになり、死に対する覚悟と心構えを怠るようにもなった。おまけに科学主義の時代に生きてきた現代人は、死の心構えをすることは生に対して敗北を意味し、死後の世界を信じることは非科学的だとしか考えられなくなってきてもいる。かといって無神論的な生き方もむずかしい。ただ何となく死を先送りし、宙ぶらりんの状態で目の前の一時的な楽しみで自分を紛らわせようとし、挙句の果てにはこのことに気づき、自己を偽っているように感じて自分の中に本当の自分がいないような孤独感に襲われる。このような情況の中にいる高齢者も多いのではないだろうか。
 ここでは、以上四つの面からのみ高齢者の孤独感について考えてみたが、では、この孤独感を抱いてわれわれ現代人が稲田の親鸞のもとを訪ね、問うた場合、彼はどのように説いてくれるのだろうか。どのように信心や念仏を勧め、いかように生きよといってくれるのだろうか。この点については次回に言及したい。

3月31日に行われました当山27世「葬儀およびお別れの法会」にご参列を賜りました皆さま、またお心遣いを賜りました皆さま、ご厚情に深く感謝申し上げます。皆さまのお力をお借りして、法会を無事に終えることができました。ありがとうございました。法会の様子は、左端「ご報告の部屋」をご覧ください。また、当日は一般のご参拝の方々に多大なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。(4月1日)

 

  

 「春の市民大学講座」(3月24日)は無事に終了しました。特に西洋哲学(デカルト)につきましては予想を超えるご来場者があり、関心の高さを感じました。ご参加の皆さま、お疲れ様でした。次の市民大学講座は7月20・21日です。ご参加を心よりお待ち申し上げています。(3月24日)

 

 

 

 

 会うことに意義があったと信じたい。再会は3度目の逢瀬?^_^;に繋がる。

 

 思い起こしてほしい…あの米ソ冷戦が激化していった時代、米英仏ソの4大国首脳がジュネーヴに参会して笑顔で写真に収まり(1955)、フルシチョフが訪米してアイゼンハウアーと会談したこと(59)が、(米大統領はケネディ代わったが)キューバ危機(62)の解決に繋がっていったのは間違いない。

 

 それにしても、「世界を俯瞰する外交」はどうした? これが「制裁・圧力」と言い続けて他人頼みの強硬外交を繰り返してきた結果なのか? 自らが位置する東アジアが大きく地盤変動しつつある時に、全く‘蚊帳の外’に置かれているのは噴飯物でしかない。

 

 再び思い越して欲しい…欧州に多大な惨禍をもたらした第一次世界大戦(1914~18)が終わった100年前、ウィルソン米大統領の唱えた「新外交new diplomacy」  が流行語となって、パリ講和会議(19.1-6)で恒久的平和に向けて熱い議論が繰り返されていた時代を。その時に日本は、「五大国  Big5」(米英仏伊日)の一員として講和会議に加わりながら、経験と語学力の不足そして何よりも平和に向けた ‘理念’ の欠如から、会議では孤立した挙げ句に沈黙を続けて「silent partner」と密かに軽蔑されたのだった。

 

 さらに「民族自決」という国際的潮流を見誤った日本は、朝鮮半島では「三・一独立運動」(19.3)を徹底的に弾圧し、大陸部では権益拡大を強引に追い求めて「五・四運動」(19.5)を引き起こした。…そして日露戦争の勝利でアジアの希望の星と思われていた日本は、アジアの民衆から失望され孤立していく。

 

 知る人によれば、友人を大切にする ‘良い人’ だそうだ。落ち着いた住宅街にあるお坊ちゃま大学を出た(少し単純な思考回路を持つ)男が、したたかな思惑を持った人々に操られて暴走した結果が、孤立した今の状況なのだろう。戦争への道を決定づけた上で内閣を投げ出した近衛文麿と酷似していると思うのは、私だけではないだろう。

 

 しかしながら、個人を批判しても仕方あるまい。二人とも、世論の支持を頼りに暴走していったのだから。あの時代に近衛内閣と大陸への強硬策を熱く支持した日本国民たちも、今の時代に(住民投票に示された)地方の民意を完全に無視し、かつ無形の圧力をかけて公文書や統計数字の偽装を官僚に強いる内閣に高い支持を寄せ続ける国民たち(特に若年層男性)も、時代を超えて共にその責任は重い。

 

 すべては、私たち国民のせいなのだ。(2019.3.4)

 

 

 

 

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