第16回  2015年11月1日   東京工芸大学名誉教授 加藤智見

【連載・世界の三大宗教を学ぶ (5)ムハンマドの生涯】


 イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は、西暦570年頃、アラビア半島の町メッカに生まれます。クライシュ族のハーシム家に生まれましたが、幼児のときに孤児となり、叔父のもとで養育されました。

 留意しておきたい点は、普通の両親から普通の子として生まれた点です。イエスのように聖霊によって処女マリアから神の子として生まれたというのではありません。この点では、仏教の開祖釈迦と共通します。のちにムハンマドはキリスト教がイエスを神の子としたことを非難することになります。

 やがて成長した彼は、隊商に加わり、25歳の頃にはメッカの裕福な女性商人ハディージャと結婚し、生活の安定を得ます。この頃からメッカの郊外にあるヒラー山の洞窟の中で、折にふれ瞑想にふけるようになりました。

神奈川県内のモスクにて
神奈川県内のモスクにて

 610年、40歳の頃、突然彼はアッラーの啓示を受けることになりました。「起きて、警告せよ」(『コーラン』74章2)という神の命令を聞いたのです。このとき、自分が神の使徒であるという自覚をもちました。啓示の内容は、堕落した社会に終末が迫っていること、偶像崇拝をやめアッラーのみを信ずべきこと、利己主義をやめ弱者や貧者を助けるべきことなどが中心でした。

 最初、妻のハディージャが、続いて彼のいとこや友人たちがこの教えに帰依します。主として若者たちがこの教えに共感し、信じることになったのです。

 しかし当時のメッカを考えてみますと、ここにはすでにカーバ神殿があり、アラブ人たちの祖先伝来の神々をまつり、メッカの有力部族クライシュ族がその祭祀権をもっていました。血縁によって結びついた部族はそれぞれの神をもち、クライシュ族にはクライシュ族の神がいました。このような中でムハンマドは唯一の神アッラーの教えを説いたのです。現世の繁栄をもたらす部族の神に対し、部族の枠を超え終末と来世の救いを強調する神を説くことは、当然のことながらきびしい対立を生むことになります。クライシュ族の保守的な人々は彼をはげしく迫害しました。

 615年には、彼は83人の信徒を一時アビシニアというところに避難させました。

 619年、彼のよき理解者であった妻のハディージャと叔父アブー・ターリブが相次いで亡くなりました。ムハンマドは次第にメッカの町で孤立し、迫害はいよいよはげしさを増しました。

 ついに622年、彼らはメッカ北方480 キロのヤスリブ(のちのメディナ)に移住することになりました。この移住をヒジュラといいます。この苦難の年をイスラム暦の元年とすることにしたのです。この町で彼らはイスラム教団国家(ウンマ)の建設を準備することになります。移住した当時は70余人の信徒とその家族だけの集まりでしたが、彼の死までの11年ほどの間にメディナのアラブ人はほぼ全員が信徒になりました。

 この間、3度にわたってメッカのクライシュ族と戦い、ついに630年、メッカを征服することになりました。カーバ神殿の偶像をすべて否定し、イスラム教の聖所とし、メッカを聖地とすることになったのです。

 メッカのクライシュ族の人々は、これを契機にイスラム教徒になります。またアラビア半島のほぼ全体にイスラム教の影響力が浸透し、遊牧民族たちもムハンマドと盟約を結び、教えを受け入れていきました。

  現世に執着することをよしとしなかったムハンマドは、最後まで清貧の生活に甘んじ、632年、彼としては最後のメッカ巡礼をし、メディナに帰ってまもなく亡くなりました。復活したというイエスとは違って、ムハンマドは普通の人として亡くなったのです。預言者ではあったのですが、神の子という特別の存在ではありませんでした。ここにキリスト教とイスラム教の決定的な違いの一つがあります。

  また普通の人間として亡くなったという点では釈迦と共通するのですが、ムハンマドは預言者として神の啓示を受け、それを説いたのに対し、釈迦は啓示ではなく、みずから瞑想することによって悟った真理を人に説いたのです。

  このように三大宗教にはそれぞれ立場の違いがあるのですが、ではイスラム教の教えはどのようなところに特徴があるのでしょうか、この点については次回に述べてみたいと思いますが、ここで少し触れておきたいことがあります。日本人はこのイスラム教について誤解をしていることが多いので、その二、三について確認しておきます。

 まず男は4人まで妻をもつということについての誤解ですが、たしかに『コーラン』には「二人なり三人なり、あるいは四人なり娶(めと)れ」(4章3)とは記されていますが、これは男の勝手な欲望のためではありません。当時戦争のために孤児が沢山生じ、その生活を保護するため、孤児たちの母親つまり未亡人たちとの結婚を勧めたことが根本的な理由なのです。つまり一夫多妻は慈善的な意図のもとに生まれたのです。ですから「妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、一人だけを」(同)娶れとも記されているのです。


 次にヴェールについてですが、女性の美しい体を夫や子ども以外には見せないよう、つつましく生きなさいという意味の上に立つものでした。男女が同様に振る舞うのが平等であるという男女観と違い、男と女は別のものであるから別の良さを守ろうとするものでもあるのです。そのほうが男のためにも女のためにも良いという判断に基づいているわけです。さらに、もともとヴェールには砂漠の砂やほこりを防ぐ役目もあったということを忘れてはなりません。砂嵐の猛威は想像を絶するものがあります。女性の肌を守るには、どうしても必要なものでもあったのです。

 またイスラム教徒は聖戦(ジハード)を主張し、好戦的であるという誤解についてですが、『コーラン』には次のような記述があります。「神の道のために、おまえたちに敵する者と戦え。しかし、度を越して挑(いど)んではならない。神は度を越す者を愛したまわない。……迫害がなくなるまで、彼らと戦え。しかし、彼らがやめたならば、無法者にたいしては別として、敵意は無用である」(2章190~193)。 いたずらに殺戮を命じているのではないし、このような記述はイスラム教に対する迫害のはげしい頃のものです。のちに安定期に入ると人命尊重が強く主張されるようになりました。当時よく行われた女の赤ん坊の間引きなどもきびしく禁じられました。「正当な理由がないかぎり、人を殺してはならない。それは神が禁じたもうたこと」(17章33)であるとされています。好戦的だとか野蛮だというイメージは、多分に中世になって誹謗中傷のために流されたデマによって植えつけられたものです。それがそのまま明治になって日本に伝わり、無批判に受け入れた結果、そう受け取られるようになってしまったのです。


このような先入観を払拭しながら、次回はイスラム教の教えについて学んでみます。

日本最大のモスク東京ジャーミイ(東京モスク)
日本最大のモスク東京ジャーミイ(東京モスク)

新型肺炎感染予防のため、「春の永代経法要」は、非公開で勤行することになりました。御迷惑をおかけしますことを深くお詫びするとともに、皆さまのご健康を心から祈念しておりす。   

   (2020年3月24日)

 

「夏の市民大学講座」7月18日・19日の予定です。詳細は、左端下部の公開講座・Seminar のご案内をご覧ください。

   

冬期(11月中旬~3月下旬)の開門時間は8:30~16:00です。

 

4月以降も暫定的に上記の開門時間を続けます。ご自宅待機にお疲れになったためでしょうか御参拝の方が増えつつありますが、ご体調には十分にご注意ください。状況によっては閉門することも検討中です。       (3月30日)

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

 庵田米の新米が入荷しました。宿坊にてお買い求めください。お電話でのご注文も承っています(郵送には送料がかかります)。詳細は、左側の「庵田米の販売について」をご覧ください。(2019年10月7日)

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。