第15回 2015年9月1日   東京工芸大学名誉教授 加藤智見

【連載・世界の三大宗教を学ぶ (4)キリスト教の教えとその特徴】


 先回はキリスト教の開祖イエスの生涯について学びましたので、今回は彼が説いた教えのうち、(1)神、(2)神の国、(3)神の愛を学び、キリスト教の特徴について考えてみます。


  まず、右の写真を見ていただきたいと思います。この写真は東京都内の墓地で撮影させていただいたクリスチャンのお墓です。表面に「わたしは信じる」としるされている点にご注意ください。日本の伝統的なお墓の表面なら、「○○家の墓」「南無阿弥陀仏」「倶会一処」などの文字が刻まれているのが一般的です。しかしこのお墓には「私は信じる」という個人の意志表示が刻まれているのです。普通の日本人なら、なぜ墓石にまでこんな言葉を刻むのかと不思議に思う人が多いでしょうが、これがキリスト教なのです。

 キリスト教では、当事者個人が、ただ一人の神を選び、その神と強い信仰関係を結び、この関係の中で自分の生活を律し、最終的にはすべてを神にゆだね、人生を終わって神のもとに行くのです。たとえばスポーツの世界でも、選手がホームランを打ったり、ゴールにシュートを決めたりすると、まず神に感謝する姿が見られます。人間に感謝するより、まず神に感謝するのです。神と自己との関係が濃厚で、神の意志と自分の意志の結合を非常に大切にして生きているのです。日本人は血のつながりを大切にしますが、キリスト教徒はそれ以上に神の意志との結合を重んじるのです。したがって神といってもキリスト教の神と日本の神々とは、非常に異なった存在となります。

 ではこのような強力なキリスト教の神とキリスト教徒の結合を可能にしている根拠を考えることによって、キリスト教の教えとその特徴について考えてみます。


(1)神

 最初にキリスト教の神について考えてみますが、あるとき、イエスの前にユダヤ教の律法学者や律法を厳格に守ろうとするパリサイ派の人々が、姦淫をした一人の女を連れてきました。ユダヤ教の律法によれば姦淫した女は石で打つべしと定められているが、どうすべきかといって彼を試そうとしました。なぜ試そうとしたかといいますと、実はイエスが説法する内容が、従来のユダヤ教の教えと違うようなところがあると、ユダヤ教の人々が気づきはじめていたからです。イエス自身は一生懸命にユダヤ教の核心について説法していると信じていたのですが、説法すればするほど伝統的なユダヤ教の教えと違う点が出てきていたのです。この違いがのちにユダヤ教からキリスト教が生まれる原動力になったのですが……。イエスの答えたことと、このときの様子が聖書には、次のようにしるされています。「『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。……これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。……イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』」(ヨハネ福音書8・7~11)

 イエスによれば、神の愛は罪人こそを救おうとする愛でした。従来のユダヤ教では律法を守る者を神は救ったのですが、イエスはこれを守れない者こそが神によって救われると考えたのです。律法を守れない自分の罪を正直に告白し、悔いる罪人こそが神に救われるのです。自分が罪深いと気づく者のほうが、神の愛を深く感じることができるのです。律法を守っていると自信をもつ者は、とかく自分にうぬぼれ、神の愛に気づけない。イエスは徹底して神の意志を追求していたのです。神の強い意志と人間の神への意志が結合するところに信仰の意味を求めていったのです。ですからイエスにおいては、律法を守ることよりも罪を反省して神の意志を信じることのほうが大切だということになったのです。このような信仰によれば、信仰のないユダヤ人よりも信仰のある異邦人のほうが神の意志に合うことにもなります。ここにやがてイエスの教えがユダヤ人の枠を超えて世界宗教としてのキリスト教になっていく根拠が見つかりますし、信じることが最も重要だとするキリスト教の特徴が理解されます。


(2)神の国

 人間ではなく、神が支配し統治する国を「神の国」というのですが、イエスはこの神の国を独自にとらえました。当時のユダヤ教では、地上的なユダヤ国家の再興こそが神の国の実現であると考え、剣をとって戦う者も多かったのです。そのような彼らに「剣をとるものはみな、剣で滅びる」とイエスは説きました。彼によれば、神の国は人の目に見えるような自然的な発想に立つものではなく、信仰によって神と結びつく心の中に現われる超自然的な発想に立つものでした。つまり人間の願望によって求められるような国ではなく、神が信仰をもつ人間のために築いてくださる超自然的な発想に基く国なのです。だから信仰のない者には見えない国であり、信仰のある者の心の中に見られるものだというのです。次のような記述があります。「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』」。(ルカ福音書17・20~21)

 つまり誰もが見得る自然的発想に立つものではなく、信じる者の心の中に生まれる、自然的発想を超えたものなのです。ということは、一人ひとりの信じる心・精神が問題にされていることであって、信仰をもつかどうかの意志決定が求められているのです。


(3)神の愛

 このように精神的に神の国をとらえる考え方は、一人ひとりの内面を問題にすることに

なります。マタイ福音書のいわゆる山上の垂訓にしるされているように、きびしい倫理的反省と決断が必要となり、形式主義にこだわりすぎたパリサイ派の人々の考えと真っ向から対立することになりました。イエスは次のようにいいました。「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。……もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」(マタイ福音書5・29~30)。また「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(同5・43~44)ともいいました。

 隣人を愛しなければならないという教えは必ずしもキリスト教特有のものではありませんし、人間の自然な発想から生まれるものでもあります。しかし敵を愛し、迫害する者のために祈れというのは、独自であって、超自然的、神的な愛です。神に愛され、神とともにいなければ生まれない発想でありましょう。ということは、常にただ一人の神に全関心を集約し、ひたすら信じ、その神にしたがう意志を表明し、その意志を鮮烈にしていかなければなりません。そうでなければ到底敵を愛することなどできません。こうして自分の信じる意識を強めていくところに信仰の純粋さ、強さを求めるキリスト教の特徴がうかがえます。

 さて、ここで右の写真をご覧ください。この写真は日本のあるところで撮影したものですが、薬師如来と浅間神社が隣り合って祀られています。浅間神社は神道の神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る神社です。キリスト教からすれば、どうしてこのように違う宗教の崇拝対象を同時に祀り、信じることができるのかという疑問が生まれるでしょう。紙数の関係で、今は詳しくは説明できませんが、仏教と神道の二つの宗教は、信じようとする意識を消していくことにその意義を見ようとするところがあるのです。日本の宗教には、信じる対象に固執することをむしろ否定する傾向があるのです。仏教の薬師如来を信じることができるようになれば、おのずから神道の神も信じられるようになる、逆もしかりというあり方なのです。個人の意識を消去していくところに宗教的な理想を置く特徴があるのです。

 これに対し、キリスト教においてはただ一人の神を信じ、他の崇拝対象を認めず、常にその神とともに生き、神への信仰を表明しなければなりません。この点をよく表しているのが、実は冒頭の写真であり、ここにキリスト教の特徴があるのです。

 もっとも、日本人の宗教の中でも、仏教の浄土教などにはこのキリスト教と似た面もありますが、これについては別の機会に触れてみたいと思います。


 ご年配の受講者が多い状況を勘案して、「夏の市民大学講座」中止することに致しました。

 経済活性化を優先する crazyな政府の方針に反しますが、コロナ再拡大が進んでいる現状では市民大学講座を開催するべきではないと考えた次第です。ご迷惑をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。どうぞ皆さまお元気でお過ごしください。再びお目にかかれる日を楽しみにしております。

          (2020年7月5日)

 

   

夏期(3月下旬~11月中旬)の開門時間は8:30~16:30です。

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

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