第12回 2015年3月1日    東京工芸大学名誉教授 加藤智見

 先回まで、まず5回にわたり「親鸞と現代の諸問題」について、次に6回にわたって「親鸞とルター」について、合計11回連載させていただきました。

 今回から、新しく「世界の三大宗教を学ぶ」というテーマで6回にわたって連載を始めさせていただきます。

 現代の世界情勢を見ますと宗教の関係した紛争、戦争が各地でおこっています。したがって世界の動きを読み解くためには、どうしても宗教についての知識が必要になります。そこで二か月に一度のペースで、世界の三大宗教といわれる仏教・キリスト教・イスラム教の勉強をしたいと思います。具体的には、 (1)釈迦の生涯、 (2)仏教の教えとその特徴、 (3)イエスの生涯、 (4)キリスト教の教えとその特徴、 (5)ムハンマドの生涯、 (6)イスラム教の教えとその特徴、の順に解説させていただきます。ご愛読いただけますよう、お願い申し上げます。


【連載・世界の三大宗教を学ぶ (1)釈迦の生涯

 仏教の開祖となった釈迦(B.C.463~383頃、同566~486頃などの説がある)は、インド・ネパール国境沿いの釈迦族の小さな国の王子として生まれました。釈迦族は政治的にも経済的にも強い存在ではありませんでしたが、ラージャ(王)と呼ばれる最高統率者を中心に、共和制を維持していました。このラージャであったシュッドーダナ(浄飯王/じょうぼんのう)を父に、妃マーヤー(摩耶/まや)を母として生まれます。ゴータマが姓、シッダールタが名でした。

 この釈迦生誕について、少し注意しておきたいことがあります。それは彼が普通の男性と女性の間に生まれたということです。キリスト教の開祖イエスは聖霊により処女マリアがみごもって生んだとされますが、釈迦は人間から人間の子として生まれたのです。たしかに白い象が体内に入った夢を見てマーヤーがみごもったとか、お産のための里帰り途中、ルンビニーの園で彼女の右わきから生まれ、ただちに七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と言ったとされていますが、それらは後世の人々の尊敬の念から出た伝説です。仏教の考え方によれば、そのようなことは認められないからです。しかしイエスの母が聖霊によってみごもったとされることは、超自然的なキリスト教の考え方と深く関係します。仏教は奇跡的なこと、非科学的なことは認めません。このことをまず留意しておくことが必要です。

 マーヤーは釈迦を生んだ七日後に、産褥熱(さんじょくねつ)ためにこの世を去りました。このことは後に釈迦の心に深い影響を与えたことと思われますが、王は彼を王にするため、大切に育て、学問も武芸も身につけさせます。何不自由なく育てたつもりでいたのですが、敏感で繊細な心の持ち主であった釈迦は、やがて現実世界の苦悩に気づきはじめます。「四門出遊(しもんしゅつゆう)」というエピソードが残っています。これによると、ある時、城の東門から出ると老人に出会い、次に南門から出ると病人に、そして西門から出ると死者の葬列に出会い、人生の無常の姿に心を動かされたと言われています。さらに北門を出ると出家者に出会い、その姿を見て、自分の進むべき道を見出したというのです。当時の釈迦の心境を象徴的に表していると言えましょう。老病死に苦しむ人々を救うためには、王ではなく求道者、出家者となるほかない、そんな思いが次第に強くなっていきます。

 しかし父の意志も尊重しなければなりませんでした。当時の風習にしたがって、彼は16歳でヤショーダラーと結婚し、のちに男子ラーフラ(羅睺羅/らごら)をもうけます。しかし求道の思いは断ちがたく、29歳の時、ついに出家を断行します。

 城を出た釈迦は、さまざまな師に会い、学び、修行しますが、どうしても納得できる結果が出ません。そこで彼はガンジスの支流ナイランジャナー河(尼連禅河/にれんぜんが)河畔のマガダ国セーナーニ村で苦行をはじめます。そこにはあらゆる難行苦行を重ね、いわば超能力や神通力を得ようとする人々がいましたが、その中に身を投じ、肋骨が浮き上がるほどの断食もしました。しかし苦行は疲労と苦痛を与えるだけで心の平安は得られませんでした。遂に彼は苦行を放棄します。

釈迦が悟りを開いた地に立つブッダガヤの大塔
釈迦が悟りを開いた地に立つブッダガヤの大塔

 気を取り戻した彼は、河で身を浄め、肉体を回復させ、今度はブッダガヤの菩提樹の下に座り、瞑想し、思索にふけりました。そして妄想や疑惑と戦いながら、やがて35歳の時、悟りに到達します。これを成道(じょうどう)と言います。この時はじめて彼は仏陀(ブッダ、仏、覚者)になったのですが、イエスやムハンマドのように啓示を受けるのではなく、みずから瞑想し思索して真理を見出したのです。つまり神から真理を啓示されるのではなく、悟り、体得したのです。ここに仏

教の重要なポイントがあります。その

内容については次回に述べます。

 さて悟りを得て仏陀となった釈迦は、人々に説法するため旅に出ます。最初の説法は初転法輪(しょてんほうりん)言われ、サールナートというところで行われました。そののち、請われるままに説法をします。やがて当時マガダ国で尊敬されていた拝火バラモンのカーシャパ(迦葉/かしょう)三兄弟とその弟子1000人、懐疑論者サンジャヤの高弟シャーリプトラ(舎利弗/しゃりほ)やマウドガリヤーヤナ(目連/もくれん)たちを教化します。さらに故国から従兄のアーナンダ(阿難)、息子ラーフラなどが弟子として加わります。男の出家者のいわゆる比丘のほか女性の比丘尼、在家の男女信者としての優婆塞・(うばそく)・優婆夷(うばい)の集団もできました。

 ガンジス中・下流で説法していた仏陀は、マガダ国のビンビサーラ(頻婆娑羅/びんびしゃら)王の帰依を受け、首都ラージャグリハ(王舎城)郊外に竹林精舎、さらにはコーサラ国の豪商スダッタ(給孤独長者/きっこどくちょうじゃ)の帰依を受け、シラーヴァスティー(舎衛城)に有名な祇園精舎を寄進されました。この両精舎は、夏の雨期に仏陀と弟子たちがとどまって修行する場所でした。

 45年間、炎熱のインドを遍歴した仏陀の肉体はさすがに衰えてきました。仏陀自身も死の近いことを自覚しますが、説法の旅をやめようとはしませんでした。ある時、アーナンダに向かって「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と語りました。仏陀の教えは、あくまでもよりどころとするのは自分であり、その自分を導くのは法(教え)でした。どこまでも冷静に、理論的に考えられた法にしたがって、迷いから解脱しようとするのが仏教の特徴です。キリスト教のヤハウェやイスラム教のアッラーという強力な神の救済を願う宗教とは根本的に違います。よくキリスト教圏で、仏教は宗教ではなく哲学だと言われることがありますが、根拠のないことではありません。

入滅の地クシナガラの涅槃堂
入滅の地クシナガラの涅槃堂

 旅の途中、クシナガラの郊外で食中毒のため生涯を閉じることになりました。激しい苦痛の中で仏陀が言った最後の言葉は、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。努力して修行を完成しなさい」というものでした。激痛と戦いながらも、仏陀は静かな入滅を迎えます。近くに住む人々によって火葬にふされますが、何らの奇跡もおこりませんでした。死後復活をしたイエスのような存在とは違います。最後まで人間として生き、最大限の努力をし、人間として亡くなったのです。イエスを「神の子」としてとらえるキリスト教と

は、したがってまったく違う発想に

立っていると言えるでしょう。

 以上、釈迦の生涯を見てきましたが、他の宗教の開祖と言われる存在と比較した場合、その特徴は、偉大ではあってもやはり一般の人間として生きた点にあります。イエスやムハンマドのように神から一方的に啓示を受けるのではなく、自分で瞑想、思索した結果得た真理を人々に説いた点にあり、また最期も仏陀として非常に高い境地に立ってはいたが、人間として世を去った点にその特徴があるのです。きわめて自然な生涯であり、奇跡もなく、超自然法的、非科学的な発想にも基づかない存在でした。

 次回は、この釈迦が見出し、説いた仏教の内容について述べてみたいと思っております。

3月31日に行われました当山27世「葬儀およびお別れの法会」にご参列を賜りました皆さま、またお心遣いを賜りました皆さま、ご厚情に深く感謝申し上げます。皆さまのお力をお借りして、法会を無事に終えることができました。ありがとうございました。法会の様子は、左端「ご報告の部屋」をご覧ください。また、当日は一般のご参拝の方々に多大なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。(4月1日)

 

  

 「春の市民大学講座」(3月24日)は無事に終了しました。特に西洋哲学(デカルト)につきましては予想を超えるご来場者があり、関心の高さを感じました。ご参加の皆さま、お疲れ様でした。次の市民大学講座は7月20・21日です。ご参加を心よりお待ち申し上げています。(3月24日)

 

 

 

 

 会うことに意義があったと信じたい。再会は3度目の逢瀬?^_^;に繋がる。

 

 思い起こしてほしい…あの米ソ冷戦が激化していった時代、米英仏ソの4大国首脳がジュネーヴに参会して笑顔で写真に収まり(1955)、フルシチョフが訪米してアイゼンハウアーと会談したこと(59)が、(米大統領はケネディ代わったが)キューバ危機(62)の解決に繋がっていったのは間違いない。

 

 それにしても、「世界を俯瞰する外交」はどうした? これが「制裁・圧力」と言い続けて他人頼みの強硬外交を繰り返してきた結果なのか? 自らが位置する東アジアが大きく地盤変動しつつある時に、全く‘蚊帳の外’に置かれているのは噴飯物でしかない。

 

 再び思い越して欲しい…欧州に多大な惨禍をもたらした第一次世界大戦(1914~18)が終わった100年前、ウィルソン米大統領の唱えた「新外交new diplomacy」  が流行語となって、パリ講和会議(19.1-6)で恒久的平和に向けて熱い議論が繰り返されていた時代を。その時に日本は、「五大国  Big5」(米英仏伊日)の一員として講和会議に加わりながら、経験と語学力の不足そして何よりも平和に向けた ‘理念’ の欠如から、会議では孤立した挙げ句に沈黙を続けて「silent partner」と密かに軽蔑されたのだった。

 

 さらに「民族自決」という国際的潮流を見誤った日本は、朝鮮半島では「三・一独立運動」(19.3)を徹底的に弾圧し、大陸部では権益拡大を強引に追い求めて「五・四運動」(19.5)を引き起こした。…そして日露戦争の勝利でアジアの希望の星と思われていた日本は、アジアの民衆から失望され孤立していく。

 

 知る人によれば、友人を大切にする ‘良い人’ だそうだ。落ち着いた住宅街にあるお坊ちゃま大学を出た(少し単純な思考回路を持つ)男が、したたかな思惑を持った人々に操られて暴走した結果が、孤立した今の状況なのだろう。戦争への道を決定づけた上で内閣を投げ出した近衛文麿と酷似していると思うのは、私だけではないだろう。

 

 しかしながら、個人を批判しても仕方あるまい。二人とも、世論の支持を頼りに暴走していったのだから。あの時代に近衛内閣と大陸への強硬策を熱く支持した日本国民たちも、今の時代に(住民投票に示された)地方の民意を完全に無視し、かつ無形の圧力をかけて公文書や統計数字の偽装を官僚に強いる内閣に高い支持を寄せ続ける国民たち(特に若年層男性)も、時代を超えて共にその責任は重い。

 

 すべては、私たち国民のせいなのだ。(2019.3.4)

 

 

 

 

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