筑波大学名誉教授 伊藤益
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煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)。大乗仏法(マハーヤーナ)の根本主張です。生死即涅槃(生死即涅槃)と置き代えても大過はないでしょう。本来人がもつべきではないさまざまな情欲や欲動、ことに「三毒の煩悩」と呼ばれる、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)、すなわち、むさぼり、いかり、おろかしさを心の底にかかえこんでいること自体が、そのまま寂静(じゃくじょう)なる覚りの境地に通ずる、という考えかたを示しています。汚辱まみれの現生(げんしょう)を、生死皮膜、つまり、生と死とが薄皮一枚でつながる情況のなかで生きて在ることが、そのままただちに究極の覚りたりうる、ということでもあります。
明治以後の日本において思考上の常識となっている欧米型の理性に基いて解釈をこころみるとすれば、煩悩即菩提は、どうにも理解しようのない「逆理」(パラドクス)ということになるでしょう。煩悩は菩提と、生死は涅槃と、それぞれ真っ向から相反し、相容れない概念であり、両者を直截的一性を示す「即」という言辞をもってつなげることは、理性の許容範囲を完全に逸脱していると言わなければならないからです。煩悩即菩提と主張することは、欧米由来の理性を重視する観点からすれば、思考の破綻以外の何ものでもないと考えられます。
人間の現実的生、すなわち日常生活には、さまざまな矛盾が付きまといます。自己の生命を捨てることすら厭わない無償の愛ならばともかくも、たとえば、いとおしいと切に想う異性への通常の愛恋には、不思議なことに、微かな厭わしさが伴われるもので、その心情的矛盾を経験しない人は、おそらくだれ一人としていないで思われます。弁証法論者たちは、そのような矛盾を、「定立―反定立―綜合」、あるいは、「即自―対自―即かつ対自」といった思考の図式をもって解消しようとこころみてきました。もし、弁証法論者たちが煩悩即菩提という言明に向き合えば、彼ら、彼女らは、煩悩即菩提の「即」とは「等号」(イコール)の意ではなく、転換媒介の意ではないか、と言うかもしれません。弁証法的に考えれば、煩悩(生死)が、何らかの媒介者によって逆方向へと転ぜられ、菩提(涅槃)へと変容する、という見かたをとることも、あながち不可能ではないということです。ですが、そうした見かたは、「即」の本来の意味を精確にとらえるものではありません。「即」を「転換媒介」の謂いと解することには、実は字義上の明確な根拠がないのです。大乗仏法においては、「即」は、「そのままただちに」という意であり、したがって、煩悩即菩提、生死即涅槃は、「煩悩はそのまま菩提である」、「生死流転の世界はただちに寂静なる涅槃界である」と断言されている、と解するのが自然(じねん)なのです。であるならば、煩悩即菩提、生死即涅槃という言明は、欧米流に編み上げられたわたしたち現代人のごく普通の論理、すなわち現代的な日常論理から乖離している、と考えざるをえないことになるでしょう。

それが幸いなことなのか、それとも不幸な宿命なのか、何とも評しようのないところですが、わたしたち日本人は、明治以後の欧米化の波にさらわれて、日常を欧米風の論脈のもとで考えかつ生きることを是としてきました。ことに、先の大戦での惨敗以後は、軍国主義的国粋主義の温床と見られた神祇信仰や、封建制の思想的基盤と目された儒教などはもとよりのこと、その内質から見て東洋的普遍性を形造りうる仏法思想すらもが、時代遅れの遺物として、弊履のごとくに捨て去られてしまったと言っても、けっして過言ではないでしょう。西洋では、アリストテレス以来、同一律(自同律)と矛盾律とが思考の論理の基軸に据えられ、「AはAであって、同時に非Aであることはありえない」と説かれてきました。この、アリストテレスに由来する形式論理は、一見するとヘーゲルの弁証法論理によって打破されたかのように見えるかもしれません。たしかに、ヘーゲルの弁証法は、現実世界に現に生起している矛盾をとらえることから出発します。しかしながら、それは、矛盾をそのままの姿で容認するわけではありません。ヘーゲルの弁証法は、現実世界のただなかに事象や事態等の矛盾が生ずることを認めながらも、同時に、それらの矛盾を絶対知(絶対精神)の発出論的自己展開の過程のなかへと、無矛盾的に回収することをめざすものなのです。すなわち、ヘーゲルの弁証法は、アリストテレスの形式論理の根幹を切り崩すものではなく、むしろ、それに沿って展開されてゆくものなのだ、と申せましょう。要するに。アリストテレスであれ、ヘーゲルであれ、あるいはマルクスであっても、西洋の哲学者や思想家たちは、矛盾を矛盾であるがままに定立させるような論理を、けっして真っ当なものととらえることがないのです。ですから、西洋的論脈に則して思惟するかぎり、大乗仏法に言う煩悩即菩提、生死即涅槃は、逸脱の論理、もしくは無論理ということになります。
明治以後の日本人は、それが西洋由来の論理から乖離しているという理由で、煩悩即菩提、生死即涅槃を、日常的な次元での有意味性をもたない主張ととらえてきたようです。煩悩は菩提と、そして、生死は涅槃と、それぞれ全面的に相反する心の情態であり、このような決定的なまでの相反性を無視する大乗仏法は、論理的にまともな解釈を施すべきものではない、ということなのでしょう。哲学や思想のあるべき姿を西洋に求めるなら、当然そういうことになるのかもしれません。しかし、大乗仏法の二千年にもわたる伝統を、それが西洋の伝統にそぐわないという理由でないがしろにしてしまうとすれば、大乗仏法によってその根底から支えられてきた東洋の思想や文化が担う深甚なる意義が見失われることにもなりかねません。新たに移入された異なる地域の思想や文化を、在来の思想や文化よりも高く評価するあまり、固有の伝統を破れ草履のごとくに撃ち捨てるとすれば、それは、土と血に根ざす民族精神についての、無思慮な自己否定につながるのではないでしょうか。
たとえ、大乗仏法の論理を無意味と見て、煩悩即菩提、生死即涅槃という考えかたをまったく顧みない態度が、大衆的次元で一般化したとしても、大乗仏法の系譜を継ぐ仏法者たちが、そのような態度に対して一線を画していたならば、大乗仏法の本質が問題にもされないという思想情況が出来することはなかったはずです。ところが、明治以後の日本の仏法者たちは、大乗仏法はおろか、釈尊やそれを継承する部派の仏法をすら、西洋由来のキリスト教の論脈に即して「宗教」化してしまいました。西洋の優れた文明を支えて立つキリスト教を範型として、仏法を換骨奪胎しようという姿勢が、明治以後の日本の仏法界において通常化したのです。「正見」、すなわち、物事の真態を冷静に見究めようという志向性に根ざして、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の「三法印」(さんぼういん)を追尋する仏法は、本来、「覚」(めざめ、さとり)の「哲学」たることを本質としていました。仏法は、キリスト教のような「救済」の宗教ではなかった、ということです。にもかかわらず、明治以後の日本の仏法者たちは、仏法を、ブッダ(仏)による衆生の救いをめざす「宗教」と解し、そうすることをとおして、「覚」を追い求める姿勢を、いちじるしく弱めてしまったのです。そうなると、当然ながら、煩悩や生死をそのまま菩提、涅槃ととらえる哲学的態度が斥けられることになります。キリスト教は、煩瑣を極めた中世のスコラ哲学によって体系化されましたが、もともとは哲学的に素朴な教説であり、そこには、生死流転の世界を煩悩まみれに生きることがそのままただちに「めざめ」や「さとり」につながるといったような逆説の思考が育つ余地はありませんでした。仏法、ことに大乗のそれが示す逆説の論理は、キリスト教的な観点から見れば、単に、非常識なる逸脱の思考でしかありませんでした。日本の仏法者たちが、キリスト教を規範として、仏法を「宗教」ととらえようとしたとき、仏法はその哲学的生命性をいちじるしく傷つけられてしまった、と申せましょう。

キリスト教においては、全知全能にして最善なる神、すなわち、「在りて有るもの」(まさに存在そのもの)として万事万象を創り出し、それらすべての事物を隅々まで統御する超越的絶対有が想定されます。一見するかぎり、大乗仏法がその存在を仮想する仏、たとえば阿弥陀如来や大日如来は、キリスト教の神(超越的絶対有)と同質の存在のように見えるかもしれません。しかしながら、如来とは、おのずからにしかく成りゆく「如」性、言いかえれば自然(じねん)から来する「何ごと」かであって、キリスト教の神のごとくに、単純に実体化される「もの」ではありません。如来は、自然(じねん)なる宇宙の意思のごとき「こと」なのであって、それは、何ものをも創造せず、何ものをも直截に統御したりはしません。その如来を、キリスト教の神になぞらえて、弱き人々、貧しき人々に「愛」を与え、彼らを救う救済者と解したとき、日本の仏法者たちは、仏法、とりわけ大乗仏法の何たるかを見失ってしまった、と言わざるをえません。その挙げ句、仏僧たちが、信徒たちにむかって、人間には霊魂というものがあり、死後にそれがお浄土に往くと説くにおよんで、日本の仏法は、「キリスト教仏法派」とでも称するべき地方的宗教へと劣化した、と申せましょう。仏法においては、元来、「愛」とは執着や妄執の意にすぎず、けっして肯定的にとらえられるものではありません。仏法は、「愛」ではなく、慈悲を説きます。それも、高みに立つ者が劣位に在る者を慈しむという意味ではなく、人々が、互いに共悲し、共苦するという事態を指し示しています。このような共悲、共苦という考えかたは、キリスト教的な「愛」の観念とはまったく異質なものです。また、諸法無我を説き、一刹那に生成・消滅をくりかえしつづける人間には主体我などないとする仏法は、霊魂なる存在を認めるはずもありません。大乗仏法は、ヒンドゥー教から輪廻説を取り入れていますが、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六趣に輪廻するのは霊魂ではなく、識体、すなわち非実体的な意識である、と仏法はとらえています。こうした仏法の根本思想を顧みることもなく、「愛」や霊魂を強調してやまない明治以後の日本の仏僧たちは、真の仏徒ではい、彼らは僧衣を纏った神父、牧師にほかならないと言っても、あながち失当ではないでしょう。霊魂が幽霊となって実体化されるとか、あるいは、弥陀如来が「絶対他力」の実体的基点として厳存するとかといった考えかたは、仏法からの完全なる逸脱であることを、わたしたちは、けっして見逃すべきではありません。
仏法、わけても大乗のそれは、AならばB、BならばCという形で推し進められる推論能力としての理性に基づく西洋型の論理とはまったく異質な、独得の論理によって貫かれています。したがって、煩悩即菩提、生死即涅槃と言われることの真の意味は、西洋的な理性主義の立場からは、けっしてあきらかにすることができません。重々留意すべきは、論理の型とその態様は、西洋のそれだけには限定されえないということです。東洋には、西洋のそれとはまったく異質な論理があります。煩悩即菩提、生死即涅槃という大乗仏法特有の言明は、実は、東洋において普遍的な仏法に固有の論理に根ざして発せられている、と見るべきです。にもかかわらず、明治以後の日本の思想界は、論理を西洋のそれのみに限定してとらえてきました。そのことは、哲学が、わけても東洋のそれが危殆に瀕することを意味しています。なぜなら、哲学とは、さまざまな思想や思潮が、それぞれに独得の論理を付与されることによって、はじめて成り立ちうるものであり、たとえば、東洋の思想、思潮に西洋の論理を当てはめるとすれば、それは東洋哲学の成立基盤が根底から切り崩されることを意味しているからです。哲学は多様であるべきです。論理の西洋的一元化は、哲学の多様性と豊潤を無(な)みする愚行として、厳に戒められなければならない、と思われます。
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上にも述べたように、理性とは、AならばB、BならばC・・・、と推(すい)してゆく人間の推論能力の謂いと解してよいでしょう。そこには、当然、筋道立ったことわり、理路があります。言うまでもないことでしょうが、人間の心の能力は、理性のそれにのみ限局されるものではありません。人間には理性のほかに情性があり、それが、心の在りようを方向づけるはたらきを担っています。ただ理性ばかりがはたらき、そこにいっさいの情性が関与しないという事態など、人間的現実のなかにはとうてい生起すべくもないのです。その意味において、すべての情性を排し、純然たる理性の権能のもとに人間の生きかたを統御し尽くそうとする、キティオンのゼノン以下ストア学派の「アパテイア」(無感不動)の理念は、非人間的であるがゆえに実現可能性を有しえない空理だと言えます。ストア学派は、情性のヒステリックな奔逸が人間の冷静な認識を阻害することを怖れたのでしょうが、喜怒哀楽の情を徹底的に抑え込むことは不自然であるばかりか、結果的に認識の成立根拠を崩壊させることにもなりかねません。
西洋哲学、たとえばドイツ観念論において、情性は、感覚、感性といった概念によって括られています。古代ギリシア以来、西洋哲学は、人間をホモ・サピエンス、すなわち、知ある生きものとして規定してきました。理性の権能を駆使して事物の態様をとらえ、それらの事物の本質について考えるのが、人間の人間たるゆえんだということです。しかし、西洋哲学は、ただ理性にのみ基づいて人間の事物認識が可能になるとは考えていません。一例として、カントの主著『純粋理性批判』において披瀝される認識論を取り上げてみましょう。そこでは、人間の認識作用が、理性を主軸とする心のはたらきととらえられつつも、その初源的基点は、感覚や感性が外界のもの・ことによって触発されることにある、と解されています。ありていに言えば、眼前のもの・ことに接して、「知りたい」という心の傾きが起こってこそ、人はみずからを知へと差し向ける、ということです。言いかえれば、情性が動かされなければ、理性が十全にはたらくことはありえず、それゆえ、認識は成立しないということでもあります。ただし、カントの認識論においては、認識の成立過程で主たる機能を果たすとされるのは、あくまでも理性であり、情性は、認識活動の発端としての一契機とされるにすぎません。カントにおいても、理性を情性の上位に位置づける発想は、微動だにしていない、と申せましょう。
このような、西洋において伝統的な理性主義の観点から情性がとらえられるとき、それは、被統制的で非自律的なもの、したがって、能動性のない受容的能力にとどまるものと解せられます。すると、情性の発出を基点とし、それに導かれて成る諸々の芸術、たとえば、文芸や音楽、美術などは、理性の学たる哲学の下位に位置づけられることになるでしょう。しかし、こうした位置づけは、正当にして精確なものなのでしょうか。ここでは、文芸を例にとって考えてみましょう。

文芸をめぐる哲学研究者たちの論述によれば、しばしば、文芸は情を語り、情に即する文章の技芸だと言われます。そして、文芸における文章表現が美的であれば、その文芸は、美を具現するものでありうる、とされます。文芸を情性に関わるものとし、他方哲学を理性の学とするこうした定義は、ある意味では短絡を疑わせるのですが、しかし、これは、かならずしも事の真態を逸しているとは言いきれません。文章表現における美とは、艶やかに彩なされる技巧、ないし知巧でしょう。技巧性や知巧性と疎遠な文芸、すなわち、平板で素朴の域を出ない文章表現は、文の芸たるにあたいしない、と言ってもよいと思われます。ましてや、何らの思慮にも基づくことなく、衝動のままに発出されるヒステリックな情性の叫びや、あるいは、盲目的な憤りに根ざす、場合によっては恫喝にもなりかねない激情などが、文芸を生み出す原基となることなど、どう考えてもありえないでしょう。情性の美的整序こそが、文芸の「成立場」であることは、だれにとっても論をまたないところです。留意すべきは、情性を美的に整序するには、情性そのものの理的な意味での脈絡づけが不可欠だということです。情性とは、実のところ、在るがままに無作意に漂い流れる感情などではないのです。それは、「かく在れば、しか成る」といった形の、それ自体において独得の筋道を有しています。そのような、感情の理的な筋道が情性の基礎的機制を成している姿を、本論考は、「情理」と呼びたいと思います。文芸とは、より厳密に言うなら、このような情理によって艶やかに彩なされることをとおして、はじめて美的なものとなりうるのです。しかも、その場合の、美の原点と言うべき情理は、それ自体のうちに明確な「ことわり」をもつわけですから、文芸は、情的でありつつも理詰めに解釈されうることになります。つまり、文芸は、情理に貫かれるゆえに文の学、すなわち文学ともなりうるということです。逆に言えば、情理に支えられることのない文芸は、文学たる資格をもたないと申せましょう。わたしたちは、文芸の理を追尋し、情理を精緻に解析してきた文学の長い伝統を、けっして軽視してはなりません。もとは、日常生活のなかの問答的対話の形をとっていた哲学も、文章をもって表現されるようになって以後は、文章表現の美的性格を無視することができなかったはずです。なるほど、哲学を人生の本質をめぐる知を愛し求める学たらしめる原拠は理性でしょうが、そこにもまた情理が関与していることは疑いえないと思われます。

プラトンは、中期対話篇『国家』において、自身が想い描く理想国、すなわち、真の哲学者が君主となって統治する国家から、詩人たちを追放しなければならない、と語りました。詩情の奔逸が、人々の冷静で緻密な思索を阻害するのを怖れるがゆえの主張ではないか、と思われます。この主張が、原初の理性主義者プラトンに、情性が情理という名のロゴスを内在させていることについての的確な認識が欠けていたことを指し示していることは、疑いのないところではあります。が、しかし、そのプラトンも、国家の正義の原拠となる「美のイデア」(これは「善のイデア」と同義です)を論ずる際には、無意識のうちにかもしれませんが、情性の洗練ということに触れています。「美のイデア」とは、現実世界に立ち現われる個々の具体的な美を、真の意味で美たらしめる観念的範型のことです。現実世界に存する個々の美しいもの・ことは、かならず瑕疵を孕み、それゆえ不完全です。時間的にも限局されています。たとえば、だれが見ても美しいとされる女性の美貌も、どこかに歪さを孕み、しかも、年月を経れば、かならず衰微し、やがて醜さの影に蔽われるようになります。一方、「美のイデア」は、どこにも欠陥のない美そのもの、永遠に尽き果てることのない完全なる美にほかなりません。プラトンは、瑕疵のある不完全な美から完全なる美への階梯ということを考えていたはずです。彼の美をめぐる思考のうちには、情理に基づく美の洗練と完整という発想が定位されていたにちがいありません。また、カントが『判断力批判』において披瀝する「美学」も、情理を念頭に置かずしては成り立ちようもなかったはずです。美とは、情性をもって感得され、情の理をとおして明確に意識化されるものだからです。美を、単なる理性の限界内に措定するにとどまったのでは、それが多くの人々によって享受されるという事態は起こりようもないでしょう。情理に衝き動かされた人間が、理性が呈示する美の観念に同意するとき、美学ははじめて成立を見るのです。このことは、人間的思惟が統体として確定されるには、理性とともに情理がはたらかなければならないことを、如実に示しています。情理は、単に人間の認識能力の端緒としてのみ作用するにとどまるものではなく、理性と並立し、理性とともにはたらくことによって、人間知をその根底から支えて立っている、と考えるべきなのです。
しかしながら、ともすれば理性万能主義へと傾きがちな西洋哲学においては、論理の位相に理性のみならず情理もまた深く関与することについての精確な見定めが行われることは、ほとんどありませんでした。西洋哲学は、みずから論理を構築し、かつはそれを展開する際、情理を排して、純然たる理性の体系を構築することをめざしました。「AはAであり、同時に非Aであることはありえない」と断定するアリストテレスの形式論理は、理性主義的志向の、いわば極点にあると言えるでしょう。ソクラテス以来、人間の情性は、精確な事物認識を阻害する一種の障害物と解されてきました。たしかに、情性の主軸をなす感覚は、しばしば事実を裏切ります。感覚の不確かさは蔽うべくもありません。その不確かさは、情性が理的に整序されることによって、つまり、情理が確定されることをとおして解消されるのですが、西洋哲学は、そのことに気づかなかったと申せましょう。形式論理は、日常の人間的思考法を常識に即して跡づける論理としては、おそらく、決定的なまでに正しい、と言えます。しかし、形式論理は、純粋に理性的な思考の範囲を超える地点に定位される人間的情性には、けっして触れえないものです。言いかえれば、形式論理とは、いわば「頭のなかで組み立てられた論理」にとどまるのです。

人間は、頭だけで生きる存在者ではありません。内臓をもち、皮膚に蔽われ、肉体をとおして肌感覚をはたらかせながら生きるのが人間です。形式論理は、人間の、そうした体感、体認の領域に関わりえないという意味において、人間性の実態を組み尽くすことができないのです。これに対して、仏法、わけても大乗の論理は、体感、体認を前提としつつ、同時に身体を貫き流れる情性のはたらきを、つねに意識化しています。むろん、大乗の論理も、理性的思考法とまったく無縁であるわけではありません。AならばB、BならばC・・・、という推論の筋道は、大乗の論理においても、当然ながら尊重されます。もし、そうでなければ、「因明」という仏法に特有の論理学など、どこにも成立する余地がなかったことでしょう。しかしながら、大乗の論理は、西洋哲学の形式論理とは異なり、みずからのうちに、理性の論理のみならず、情性を整序的に筋道立ててとらえる情理をも包摂しています。それゆえに、大乗の論理においては、煩悩を抱えているがゆえに菩提にいたりうるということ、すなわち、生死流転の世界に在るからこそ人は寂静なる覚りの境位に到達しうるという、西洋哲学の形式論理から見れば、逆説(パラドクス)、もしくは逆倒でしかありえない言明が、独得の整序性のもとで確定されることになります。
大乗の論理の典型を経典のうちに求めるなら、それは、『金剛般若経』の論理ということになる、と思われます。明治末から大正期、そして昭和中期にかけて、欧米への仏法の伝道者として大きな役割を果たした禅者鈴木大拙は、その「金剛般若の論理」を、「即非の論理」と呼び、定式化しています。その定式は、つぎのようなものです。
AはAでない、ゆえにAである。
これは、形式論理はもとより、弁証法論理ともまったく異質なもので、要するに、西洋哲学の論理をもってしては、およそ把捉不能なものです。この即非の論理の意味するところは、理性の権能にのみ拠るかぎり、おそらくは永遠に理解不能となることでしょう。即非の論理は、理性の位相においてではなく、むしろ情理に即することによって、その内質を明確にしうるものです。理性の権能を完全に無視するわけにはまいりませんが、それよりもさらにいっそう情理のはたらきを重視し、そこに身を委ねることによって、わたしたちは、煩悩即菩提、生死即涅槃の意味するところに近迫することができます。そこに近づき、その真相をとらえることは、本論考の筆者のような、親鸞の浄土思想をみずからが生きて在ることの規範とする者にとって、きわめて重要な意義を担っています。
親鸞の主著『教行信証』行巻の掉尾には、「正信念仏偈」という偈頌が据えられています。弥陀如来の誓願の意義から説き起こし、念仏と信心の真義を鮮明にしたのちに、浄土教の高僧たちの教説を簡潔に説示するこの偈頌を、浄土真宗に帰向する人々は、今日なお大切にしています。そのなかの「曇鸞讃」において、親鸞はこう誦しています。
惑染凡夫信心発
證知生死即涅槃
訓読すれば、「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと證知せしむ」ということになるでしょうか。親鸞は、曇鸞に仮託する形で、「惑い、かつ煩悩に染まった凡夫であっても、信心が発起しさえすれば、生死がそのまま涅槃たりうる境位に参ずることができる」と断言しているのです。この一節は、親鸞が、龍樹以来の大乗の系譜に立つ仏法者以外の何ものでもなかったことを、雄弁に物語っています。ところが、浄土真宗(真宗)の従来の教義学にあっては、なぜかこの一節に対してあまり注意が払われていませんでした。浄土真宗は、宗祖親鸞が「非僧非俗」を自認していたわけですから、本来在家仏法であって、そこには「僧」などという者は存在するはずもありません。にもかかわらず、敢えて「僧」とみずからを称する宗門の教義学者たちは、「正信念仏偈」を、自身が日々を生き切るための精神的な拠り所としなければならないはずです。彼ら、彼女らは、すくなくとも、「浄土七高僧」と呼ばれる大乗の祖師たちが、親鸞にとっていかに重要な人々であったかを、知らぬはずはない、と思われます。にもかかわらず、彼ら、彼女らが「曇鸞讃」の当面の一節にあまり注目してこなかったのは、不可解なことと言わざるをえません。浄土真宗(真宗)の教義学は、親鸞を浄土真宗立教開宗の祖師として位置づけることに意を用いるあまり、その祖師の思想的系譜の意義を虚心にとらえることを怠ってしまったということなのでしょうか。だとすれば、親鸞の思想の、キリスト教を範型とする「宗教」化が試みられるのも、致し方のない成り行きと言えるでしょう。仏法の師資相承とは、釈尊以来の「哲学」的伝統の確定をめざすものであり、仏法をキリスト教的な意味での「宗教」ととらえてしまえば、師資相承には形式的な意味しかないことになってしまうのですから。しかし、わたしたちは、この一節をめぐって、重要な事実を確認しておかなくてはなりません。すなわち、親鸞は、彼の先蹤をなす七高僧たちと同じく、生死即涅槃という論理に立ってみずからの浄土思想を構築している、という事実を、わたしたちは、けっして見すごしてはならないのです。「證知生死即涅槃」とは、「正見」に基づく哲学的「覚り」の境地を端的に開示する言説であり、この言説の重みを知れば、親鸞の教説「浄土真宗」をキリスト教的な意味での「宗教」ととらえることがいかに虚妄かが、はっきりしてくるにちがいありません。
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生死即涅槃は、そのまま煩悩即菩提に置き代えることができます。生死の世界を流転することは煩悩にまみれることであり、また、そうした情態がそのままただちに(即)涅槃だとすることは、煩悩が即覚り、すなわち菩提だと考えることにほかならないからです。ですから、以下、煩悩即菩提に大乗の論理を集約させて、その意味するところを追尋してみましょう。煩悩即菩提を、上掲の即非の論理の定式に当てはめれば、つぎのようになるでしょう。
煩悩は菩提にあらず、ゆえに、煩悩は菩提である。
西洋型の理性の論理に基づいて考えるならば、情動の惑いは覚りと相反するもので、したがって、「煩悩は菩提にあらず」ということになります。貪り、瞋り、愚かしさを極めれば、人というものは、覚りの境地とはまったく無縁になるはずです。形式論理的には、煩悩はあくまでも煩悩であって、覚りの対極にある、と考えるしかありません。しかしながら、よくよく考えてみると、人は、煩悩渦巻く己の心をじっと見据えるさなかに、その煩悩とまったく逆の心の在りようを見つめることができます。貪りや怒り、そして愚かしさにとらわれているからこそ、それらが打ち鎮められた情態を理想として希求することができるのです。そういう意味で、「ゆえに、煩悩は菩提である」ということになります。理づめの思考に徹するなら、そのような言明は成り立つはずもありません。けれども、情性の現実を筋道立てて、それを情理となし、その情理に即して思惟するならば、煩悩の自覚がそのまま菩提への希求につながることが歴然としてくるのです。ただし、留意すべきは、大乗仏法は、煩悩にまみれている「にもかかわらず」わたしたち凡夫は覚ることができる、などとは主張していない点です。煩悩と菩提は逆接をもってつながるわけではないのです。両者のつながりは、順接にほかなりません。すなわち、大乗仏法は、煩悩にまみれているが「ゆえに」私たち凡夫は覚りにいたりうる、と説くのです。その「ゆえに」とは、よりいっそう具体的にはどのような事柄を意味しているのか。仏法史上の具体例に即して、それを考えてみましょう。
本願寺第八世法主蓮如とほぼ同時代を生きた(互いに面識があったとする伝承もあります)臨済禅の僧に、一休宗純という人物がおりました。頓知話の一休、と言えば、ああ、あの人かと思われるかたも少なくないでしょう。「この橋、渡るべからず」という御触れが出れば、橋の端ではなく真ん中を渡ったとか、あるいは絵のなかの虎を捕らえよと命ぜられれば、「この虎を絵の外に出してください、そうすれば捕らえて見せましょう」と言ったとか、さまざまな逸話に事欠かない一休ですが、実は、室町期を代表する破壊僧という一面をもっていました。もっとも、いわゆる「破戒」は、禅や浄土真宗ではさしたる問題ではなかったとも言えます。たとえば、臨済禅の祖臨済義玄には、つぎのような一見異常とも言える言明があります。
仏に遇ふては仏を殺し
祖に遇ふては祖を殺す
臨済禅にかぎらず、釈尊の教説を継承する人々の特徴なのかもしれませんが、仏法には、道徳や倫理の規範を踏み超える側面があります。道徳とは、人間の内面的な行為規範のことで、倫理とは社会から人間に課せられる行為規範のことだ、と解してよいでしょう。むろん、仏法はそのような規範性を完全に無視して、アナーキズムを志向するものではありません。生活者として日常を生きる際に必要な道義的決まりごとは守らなければならない、というのが仏法の基本姿勢であることを否定するわけにはまいりません。しかしながら、仏法はみずからが窮極の目標とする「覚り」を損なうものは、何であれ、けっして認めはしません。もし、仏や祖が覚るための障りとなるとすれば、本来尊重すべきそれらの存在をも排除せざるをえない、という考えかたが仏法にはあると見てもよいでしょう。破戒僧一休は、覚りの邪魔になる戒律を破ること、たとえば「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」という七仏通戒偈に故意に違背することをもって「覚り」を得ようとした、と見ることができます。形ばかりの戒律遵守は、仏法の達成のためには、実はあまり意味のないことなのかもしれません。

一休宗純は、齢(よわい)70を超えて、盲目の美女、森女(しんじょ)を愛人としていました。しかも、一休の森女への愛執は、尋常なものではありませんでした。彼は、漢詩をもって森女との肌の交わりを赤裸々に描き、その際、女性器の描写をすらためらいませんでした。現実社会を教科書的思考に即して生きている人々は、一般に、老い人は性的情動を失い、枯淡の境地にいたる、すくなくとも僧や学者などの知的な老い人は性欲などもたない、と想い込んでいるものです。しかし、それは、おそらく決定的なまでの誤りでしょう。谷崎潤一郎に『瘋癲老人日記』という作品があります。息子の妻(嫁)に対する老人の性欲を克明に描いた、見かたによっては陰湿な小説です。すべての老人が、そのように息子の妻に愛欲のほむらを燃やすものだ、と説くのは短絡の誹りを免れないでしょうが、老い果てて死の訪れを体感するがゆえに、逆に生命性の根源とも言うべき性的情動に拘泥するという人間の偽らざる姿に谷崎は言及している、と言っても大過はないのではないでしょうか。一休も、老残の身となったがゆえに、若い女性の肉体性、すなわち「にょしょう」に生命性の源泉を見、それを求めたと言えるかもしれません。その意味で、一休の愛執は、けっして不自然ではないのです。しかしながら、一休は仏僧です。森女の柔肌に老残の炎を燃やす彼の姿は、「不邪淫戒」を犯すものですから、その意味ではけっして褒められるべきものではないでしょう。
一休については、後小松天皇御落胤説があります。単に巷間に流布した俗説にすぎないとの見かたもありますが、おそらくは真実を語っていると解してよいと思います。一休は、堂々と不邪淫戒を犯しながらもなお、名刹大徳寺の住持の地位に就き、かつは、同時代の文化人たちから篤い帰依を集めていました。いかに応仁の乱によって時代が乱れていたとはいえ、一休の出自が平凡以下のものであったなら、そのような事態はありえなかったでしょう。現代的視点から、親子以上に歳の離れた女性との性愛に惑溺する一休の老残の情炎と愛執を、僧にふさわしからぬ汚辱、もしくは乱行として非難することはたやすいと思います。しかし、留意すべきは、愛人森女が盲目であったことです。彼女にはたった1人の身寄りもなかったようです。応仁の大乱で荒廃を極め、道徳的秩序も崩壊した当時の京の都で、眼の見えない孤独な女が無事に生きてゆく途が、いったいどこにあったでしょうか。一休は彼女を愛人とすることで、その危うい命を救ったのだ、という見かたを採ることも、けっして不可能ではありません。一休は、敢えて戒を破ることで1人の寄る辺ない女を救った、とも言えるのではないでしょうか。いかにも清僧ぶって端然と澄ましていれば、人目には「覚り」に近づいている僧に見え、それなりに尊敬を集めるかもしれません。しかし、そのような戒律堅固な「清僧」は、真に「度衆生」の途を歩むことができないとも言えましょう。仏を殺し、祖を斬り捨てること、つまり、われ一人「願作仏」を追い求める姿勢を断ち切り、敢えて煩悩にまみれてこそ人を救い、覚りへともたらすことができる。すなわち、仏道を破ることによってこそ仏道が達成されるということ。一休は、そのことをはっきりと認識していたのだ、と言えるのではないでしょうか。要するに、一休は臨済義玄の「殺仏殺祖」の教えを、忠実に生き抜いた禅僧だったと言っても、それは失当ではないと思われます。
女体に溺れることが煩悩以外の何ものでもないことを、一休は自覚していたはずです。彼は、もとより煩悩まみれでありつづける自分を肯定して、開き直っていたわけではないでしょう。しかし、森女の柔肌に執すれば執するほどに、すなわち、心が煩悩に蔽われれば蔽われるほどに、逆に、一休には、煩悩の対極をなす「覚り」の境位が鮮明に見えていたはずです。俗情に取り籠められ、己の醜劣を意識するがゆえに、聖なるもの、美しいものが、意識のなかに鮮烈に現われるという精神の構造。それこそが、禅に言う見性悟道にほかならないことを、一休ははっきりと認識していたのではないでしょうか。女体に指1本触れることなく、己一人を清しとする、いわゆる「清僧」の心の在りようは、一見「覚り」に近いかのように見えて、実のところ、仏法が真に希求するところから遠く離れているのです。なぜなら、一片の汚れもなく、一切の濁りを知らない精神は、けっして何が真の清浄であるかを見極めることができないからです。煩悩にとらわれ、その何たるかをはっきりと自覚するがゆえに、人の心は「覚り」に向けて浄化される。一休は、それを熟知するがゆえに、敢えて自身の老残の情欲に従い、森女との交わりを求めたのだ、と推されます。
親鸞についても、ほぼ同じことが言えるでしょう。主著『教行信証』の信巻において、いわゆる「王舎城の悲劇」を『涅槃経』から大部にわたって引用する直前に、親鸞はみずから慚愧して、つぎのように述べています。
悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して・・・
『教行信証』信巻は、同書の綱格をなす教巻、行巻、証巻のいずれをも凌ぐ分量を誇り、しかも、独自の序文をもっています。この点から見て、親鸞が、信巻に格別な思い入れをしていることは疑いえないところです。『教行信証』は、現代の浄土真宗(真宗)の教義学が強調するような、「立教開宗宣言」の書などではありません。そもそも、「法然聖人のいらっしゃるところであれば、たとえそこが地獄であってもついてゆく」(『歎異抄』『恵信尼文書』など)と述懐する親鸞には、法然の浄土宗とは別途に、自身を開祖とする新たな宗派を打ち建てようという意図などありませんでした。彼はみずからが依拠する仏法を「浄土真宗」と称していますが、それは、浄土宗の真なる教えという意味にすぎません。『教行信証』を親鸞が書いた真の目的は、法相宗の貞慶や華厳宗の明恵たちの法然批判に対する反論を試みることにありました(拙著『親鸞―歎異抄を手がかりとして』春秋社)。貞慶は、法然の教説は師資相承を欠くがゆえに仏法にあらずと主張し、明恵は法然には菩提心がなく、ゆえに彼は畜生にも等しいとまで論難していました。これらの批判、あるいは非難に対して、親鸞は、法然の教えこそが釈尊直伝の正統にして正当なる仏法であることを反証として明示するために、『教行信証』を書いたのです。だからこそ、『教行信証』の正式な書名は、『顕浄土真実教行証文類』とされたのです。つまり、『教行信証』の中核をなすものは、仏法としての綱格を確示する教、行、証の3巻だったのです。ところが、現存の『教行信証』において、もっとも重視されている巻は、どう見ても信巻です。なぜでしょうか。それは、親鸞が、法然の仏法浄土宗の核心を、念仏よりもむしろ信心のうちに見いだしていたからだと考えられます。もちろん、念仏と信心とは切り離されるものではなく、「信行一体」こそが親鸞の真意ではあります。しかし、敢えて念仏か信心かを問うとすれば、信心の方に、より大きな重点があるというのが、親鸞の認識だったということです。信巻の執筆には、かなりの時間を要したことでしょう。通説によれば、『教行信証』は、親鸞52歳の折、常陸国笠間郡稲田郷の草庵(現、稲田禅房西念寺)で、その初稿本が完成を見たと考えられています。この通説は、おそらくまちがっていません。ですが、このことは、52歳の親鸞が『教行信証』を完成させたことを意味しているわけではありません。同書には、その後最晩年にいたるまで、補訂、改訂が施され、大部の加筆の跡も認められます。はたして、『教行信証』は完結しているのか、疑問であると言わざるをえないところです。同書を書写した弟子がわずかに数名にすぎないことを顧慮するなら、親鸞には同書が完成したという意識はなかった可能性すらあります。厳密には、同書は「未完の書」というべきなのかもしれません。だとすれば、同書の核をなす信巻についても、当然ながら未完成なのではないかという疑問が付きまといます。すると、「悲しきかな愚禿鸞・・・」という上述の述懐が、初稿本完成時にすでに書き記されていたのか、それとも、その後の補訂、改訂、加筆の段階で書き加えられたものなのか、いずれとも確言することが難しくなってまいります。となれば、親鸞が、ここで言う「愛欲の広海」とは何を意味するのかを特定することは至難となります。しかし、「愛欲の広海」の一断面が、恵信尼との肌の交わりを意味していることだけは確実である、と考えられます。

わたしたち現代人は、一夫一婦制という社会的かつ法的な規範を乱すことのない性行為には、何の問題もないと信じています。現代の社会情況のもとでは、夫婦間にも性的逸脱行為(レイプなどの性加害)はあると認識されていますから、夫婦間ではいかなる性行為も許されるということにはなりません。ですが、一夫一婦制の枠内での合意に基づく性行為には、罪悪につながるような問題性はどこにもない、というのがわたしたち現代人の通常の判断であることはたしかです。しかしながら、親鸞が生きたのは、一定の条件が整いさえすれば僧侶が妻や愛者をもち、性的交渉を求めても構わないとされるような時代ではありませんでした。たとえ、親鸞のように「非僧非俗」の立場に立ち、半ば在家の一般人として振舞っているにしても、かりにもかつて官僧(親鸞は、比叡山延暦寺の堂僧でした)として国家の庇護下にあった者が、異性と交わることは、破戒に近い行為と目されていたのです。親鸞の家族に関する現代の研究によれば、親鸞の妻は恵信尼一人であり、六人の子どもたちはすべて恵信尼が産んだとされています。異説、もしくは奇説を求める研究者のなかには、この、一人妻説を、第二次大戦後に確立を見た一夫一婦制を重大視する東西両本願寺による、時代迎合的な創作と見るむきもあります。恵信尼と結ばれる以前に、親鸞には別に妻がいたと言うのです。玉日姫伝説をそこに加上して考えれば、いちおうは筋が通るのかもしれません。しかし、玉日姫の実在を確示する史料はなく、また、親鸞に義絶された善鸞の、恵信尼を「まま母」と称する言説も、信憑性に欠けますので、複数妻説は、すくなくとも文献的には成立しえない、と言ってよいでしょう。親鸞は、おそらく、恵信尼以外の女性を知らなかったでしょう。けれども、このことは、かつて官僧だった親鸞が、恵信尼と肌を合わせることを正当化する根拠にはなりません。親鸞にとって恵信尼は、慈母観音のような格別の女性であり、親鸞は、彼女を敬愛していたことでしょう。妻を家事全般の担い手として使用人のごとくに見なす家父長制的な夫像を親鸞に見いだすことは、けっして妥当な見かたとは言えません。互いに敬愛し合い、精神的には対等な夫婦。それが、親鸞と恵信尼であったと見るべきです。ですが、そうであっても、なお、親鸞にとって恵信尼と肌の関係をもつことは、簡単に自己肯定できる振舞いではありませんでした。むろん、親鸞が情欲の虜となって恵信尼の肉体のみを求めたなどと考えるのは、失当以外の何ものでもありません。しかし、互いにいかに深くいつくしみ合い、敬愛しあっていたにせよ、やはり、体の関係をもつことは、親鸞にとって引け目であった、と推されます。親鸞は、恵信尼と肌を合わせたいと希う自分を、「愛欲の広海」に沈み、そこに溺れる煩悩の塊ととらえざるをえませんでした。しかしながら、親鸞は、その「愛欲の広海」のただなかで、愛欲を去るということがどういうことか、ひいては、「覚り」とは何かを知ったのです。むろん、性欲以外にも、そこから脱却すべき煩悩は数多くあります。「名利の太山」、すなわち、名誉や名声を得たいという気持ちも、親鸞にとっては大きな煩悩だったことでしょう。それらの煩悩に囚われるがゆえに、逆に「覚り」とは何かがはっきりと見えてくる。そういう構造が、親鸞の思想のなかには、厳然と定位されていたもの、と思われます。ただし、親鸞の発想では、煩悩まみれの人間は、自力で「覚り」を得ることなどできません。煩悩の虜囚となっている自分のような者がもし覚れるとするならば、それは、弥陀如来の摂取不捨の願に与かってのことである、と親鸞は考えていたのではないでしょうか。ならば、親鸞にとっての「覚」とは、他力の救済を経た後の「覚り」であった、と考えられます。もし、親鸞の思想が哲学の範囲から逸れて宗教の次元に接近するものだと仮定するならば、彼にとっての宗教とは、「救済を介しての覚」の宗教だった、と言うべきでしょう。

このような、一休や親鸞の事例が物語るのは、煩悩に溺れ、煩悩の何たるかを身をもって実感するがゆえに、かえって菩提の具相をとらえることができ、いわば、情理の機制を身をもって感得することが可能になるという、逆説的な人間の精神構造です。これを逆の方向から見れば、煩悩を知らず、煩悩に溺れた体験のない人間は、菩提の境位とはどこまでも無縁であるということになります。貪りも瞋りも愚かしさもなく、まさに清廉潔白そのものの人間。そのような人々が万が一この世に存在するとしても、彼ら、彼女らは、如来による救いに与かる契機をもたず、したがって、「覚り」にいたることはありえない、と言ってよいでしょう。なぜなら、煩悩という障りに遮られない彼ら、彼女らは、己の醜劣を知らず、それゆえに、その醜劣と対蹠的な精神的境位を身に沁みて実感することができないからです。要するに、煩悩に焼き尽くされる人、「煩悩熾盛」(歎異抄)なる「悲しい人」に対してこそ、救われて「覚り」にいたる途が展かれるということを端的に示すのが、煩悩即菩提の情理にほかならないということです。生死即涅槃と言いかえても、事情は変わりません。生き死にをくりかえす流転の世界のなかで足掻き苦しみ、悲痛のあまり正気を保ちえない哀れな人間は、容易には脱却しえない「苦」に沈み込んでいるがゆえに、逆に寂静の境位とはいかなるものかを知る。生死即涅槃という言明は、そういう事、すなわち「人間の真相」をわたしたちに向かって鮮明に告げているのです。
ここまで語れば、煩悩即菩提の論理(情理)が何ゆえに大乗仏法の根幹をなすのかが、はっきりと知られるでしょう。自身が醜悪な生きもの以外の何ものでもない、ということを自覚するがゆえの、いかにしても除きがたい悲しみ。それは、自己存在の救われがたさの自覚に直結しています。衆生が懐くそうした負の自覚を慰藉することにこそ、大乗の主たる眼目があります。むろん、大乗といえども、釈尊の思想的系譜に立つ仏法なのですから、己が「覚り」を得、仏となること、すなわち「作仏」を求めます。しかし、大乗は、「願作仏心」にも増して、「度衆生心」を、つまり、他者の迷いを救い、彼ら、彼女らを寂静の境地へと導きたいと願う、利他の心を重んじます。だからこそ、大乗にとって、煩悩即菩提の論理(情理)は、いかに非難を浴びても譲歩することのできない、思想的生命線となるのです。ただし、大乗のその論理(情理)を、自身の生きる指針となそうとする場合には、わたしたちは、つぎの一事によくよく注意を払わなければなりません。煩悩ゆえに如来に救われ、覚らしめられるということは、けっして煩悩を全面肯定することを意味しているわけではないという一事が、それです。

明治末から、大正、昭和にかけて真宗大谷派を代表する説法者として活躍した暁烏敏(あけがらす はや)という僧について考えてみましょう。暁烏は、明治の真宗改革運動の主たる担い手として著名な清沢満之(きよざわ まんし)の直弟子です。真宗大谷派は、清沢による改革運動を経て、「近代宗教」としての相貌を自己確定しました。その自己確定は、真宗の脱哲学化にほかならず、釈尊以来の仏法の真義からの逸脱を意味していると本論考は考えますが、それについて詳細に論ずることはここでは避けます。しかし、清沢が進めた脱哲学化とキリスト教をモデルとする近代宗教化とによって、真宗の教義が宗祖親鸞や、親鸞が絶対的な師と仰ぐ法然の教説からずれていったことだけは、ここで指摘しておかなければなりません。清沢は、私たち有限なる人間に対峙する「絶対無限者」として弥陀如来をとらえました。これは、弥陀如来を「真如」という「自然」(じねん)の、無的作用性ととらえる親鸞の教えから逸れて、それをキリスト教の唯一神と同様の「絶対有」(ぜったいう)と解しつつ実体化するものです。清沢の弥陀如来観が、親鸞のそれには適合しないことはたしかであり、清沢から曽我量深や金子大栄へという流れのなかで確立された真宗の近代教義学は、おのずと親鸞以来の思想的伝統とは異質な性格を示すことになりました。一般に伝統は、時代の変化に応じてその都度、新機軸によって鋳直されなければならないとも言えますから、清沢から曽我、金子へといたる真宗の近代化の試みがまちがっていたと断ずることはできないのかもしれません。ですが、親鸞と、清沢たちのあいだに横たわる異質さを、わたしたちは心得ておくべきであろう、と思われます。
近年は、宗門の内外で清沢が盛んに研究されており、それらの研究のなかには清沢に敬意を払うあまり、彼を神格化する傾向すら見うけられます。そのため、清沢の弟子たちまでが、その在りのままの姿を超えて、ともすれば聖化されてしまっています。暁烏敏という説法僧にもそうした聖化は及んでいます。暁烏は、清沢の意を受けて、蓮如以後宗門の内部に秘匿されていた『歎異抄』を巷間に広める役割を果たしました。『歎異抄』は、寸鉄人を刺す、簡素でありながらも逆説的な文言をもって、明治後半以後のこの国の知識人や真宗の門徒たちに多大な刺激を与えた書ですから、その意味で、暁烏の功績には無視しえないものがあります。また、暁烏は、先の大戦後に重大な危機に陥った大谷派の財政を、説法中心主義によって立て直した、その宗務の才を、今日なお宗門内で高く評価されています。しかしながら、こうしたいくつかの功績にもかかわらず、暁烏には、その僧としての生きかたに関して、看過できない重大な問題性があります。暁烏は、全国津々浦々を巡り、きわめて熱心に説法を行いました。そのあまたの説法が魅力溢れるものだったことは、けっして否定できません。彼の説法を「聞法」(もんぼう)する人々、ことに女性たちは、彼の虜となりました。聞法によって陶然となった女性たちのなかには、その「女性」(にょしょう)を激しく刺激され、暁烏と肌を合わせたいと希う者も数多くいたようです。暁烏は、そうした女性たちと性的交渉をもちました。ここでは、そのこと自体を暁烏の罪悪とのみとらえようとは思いません。説法に酔い痴れて説法者とのあいだに肌のつながりを求める「女性」(にょしょう)に「男性」(なんしょう)をもって応じることは、ある意味では一種の慈悲の発露とも受け止めることができるからです。真言立川派は、男女間の性的交わりの頂点、すなわち性的エクスタシーのうちに、「無我」の現前としての「覚り」を見いだしました。たしかに、性的エクスタシーのただなかでは主体我の「我」性が消え去るでしょう。それを、人間にとって稀有な「無我」の境地への到達ととらえることも、あながち不可能ではないかもしれません。男女の交わりのさなかに一時的に達成を見る「一」性は、人間の儚い幸福を保障するとも申せましょう。そのような意味において、暁烏は、近代日本の家父長的規制のなかで性的自由を圧殺された女性たちを、一時的にせよ肉体的にのみならず、精神的にも救った、と言えるのかもしれません。暁烏は、やがて妻以外のとある若い女性に愛恋をいだき、石川県の自坊に、その女性を妻と同居させるにいたります。いわゆる妻妾同居です。本論考は、それを道徳的かつ倫理的な悪行として非難するつもりはありません。暁烏は、師清沢に同じて真宗を「宗教」と見なしていたでしょうし、「宗教」ならば道徳や倫理の規範性を逸れるということもありうるからであり、また、暁烏の時代は、富裕層のあいだでの蓄妾はかならずしも許しがたい振舞いとはされない時代だったからです。

しかしながら、暁烏は、自身の振舞いを、親鸞思想、ひいては大乗の論脈のなかでやむをえざるものとして、正当化してしまっています。彼は、煩悩即菩提の論理(情理)を拡大解釈し、性的煩悩の横溢ゆえに、人は如来の摂取不捨の願によって救われる、それこそがみずから肉食妻帯した親鸞の教えに従うことである、と主張したのです。これは、「本願ぼこり」と言ってよいでしょう。ただし、『歎異抄』が説くように、本願ぼこりも煩悩の一種であり、本願に誇り、それに甘えれば往生できないというのは、親鸞の真意に反するとも言えます。ならば、暁烏の振舞いは、親鸞の浄土思想の論脈に則するものとして正当化されるのでしょうか。性的情動のままに行動し、「不邪淫戒」を犯しても何の問題もない、ということになるのでしょうか。そんなことはありえないはずです。親鸞によれば、人は煩悩に囚われて在ることの苦しみを、衆生を悲憐する如来の大悲によって救われます。だからと言って、煩悩のままに振舞って、他者に痛苦を与えてもよいということにはならないはずです。花から花へと移り行き、花の蜜を吸い尽くす蝶には何の憂いもないでしょう。蝶はただ充足感を得るのみです。しかし、ひとたび蜜を吸い取られれば、もはや二度と顧みられることのない花はどうでしょうか。楽しいでしょうか。嬉しいでしょうか。蝶のごとくに振舞う暁烏には、刹那の快楽(けらく)を与えられ、その後は放置される花の悲苦が何もわかっていません。愛妾との同居を余儀なくされた妻が、いかばかり苦悩を懐いていたか。生涯正式の妻となれない愛妾が、どれほどに辛い想いに沈んでいたか。暁烏は、そのような「女性」(にょしょう)の性(さが)への顧慮が一片だになかったと言ってよいように思われます。彼の振舞いは、女性たちの真情を踏みにじり、男の身勝手を露呈するという意味において、「放逸無慚」以外の何ものでもなかった、と申せましょう。それは、道徳的かつ倫理的に問題を孕む振舞いであると言うよりも、むしろ、人としての思い遣りの欠如に由来するという点において、人間性の本質からの逸脱として非難されるべきなのではないでしょうか。大乗は、ことに親鸞の浄土思想は、心の浄化ということを強く志向します。暁烏の振舞いほどに、そうした浄化ということを蔑ろにするものは、他に類例を見ない、と断じてもよいと思います。
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キリスト教においては、全知全能にして唯一かつ最善なる創造者としての神が、他の存在者との比較を絶する超越的絶対有(ちょうえつてきぜったいう)として想定されています。そこでは、当然ながら、神の国たる天国も、絶対の有として場所化されます。神の国、すなわち天国は、超越的絶対有としての神を信奉する人々が、最後の審判の際に神意によってそこへと導き入れられる死後世界にほかなりません。近年の日本人は、縁者たちと死に別れたとき、悲しみに暮れながら「あの人は天国に往った」と語ることについて、何のためらいも見せません。キリスト教の影響を強く受けた挙げ句、キリスト教の文脈に沿って、そのように語っているとしか考えようもありません。ですが、そのように語る日本人の多くは、キリスト教の信者ではありませんし、ましてやキリスト教的な死生観を踏まえているわけでもありません。彼ら、彼女らは、ただ何となく「天国」という語を使っているにすぎない、と言ってよいでしょう。そのとき、彼ら、彼女らは、日本人の伝統的な死生観についての驚くべき無知を露呈しています。しかも、自国の伝統に関するその決定的な無知について、何の恥じらいも覚えていないように見えます。端的に言って、現代の日本人は、文化知の次元で厚顔無恥なのです。
もともと、日本人は、人が死んだらヨミの国に行く、と考えていました。ヨミには「黄泉」という漢文字が当てられるのが通例ですが、元来それはヤミ(闇)の意であったと推定されます。ヤミの国は、そこにおいて人の亡骸が腐敗し、鼻を裂くような悪臭を放つ汚穢の世界です。ですから、国学の大成者、本居宣長は、ヨミの国に行くことほど辛く悲しいことはなく、ゆえに死とはひたぶるに悲痛なもので、死への覚悟を定めそれを平然と受け容れることほどに非人間的なことはない、と断じています。では、古来日本人は、ヨミの国は、どこにあると考えていたのでしょうか。それは地下世界である、というのが一般的認識でしょう。が、実はそうではなかったようです。記紀の神話や祝詞をよく読んでみると、ヨミの国は、根の国と連接しています。古代人は、根の国を海上の国ととらえていたようです。おそらく、ヨミの国も、海上の死後世界だったのでしょう。ヨミの国で、腐敗、腐蝕した人間の体は、根の国で清浄なる白骨となります。そして、その根の国の果てには、常世の国(とこよのくに)があります。常世の国とは、そこにおいて万事万象がけっして滅びることのない常在性を保つ世界であり、日本人は、死者は最終的に常世の国で永遠のやすらぎを得ると考えていました。人は死んだら天国に往くという発想は、そうした伝統的な常世観から遠く離れた地点に成り立っており、とうてい民族的思惟の一般性に適うものではありません。現代の日本人は、天国なる死後世界を想定しながら、同時に、先祖の霊魂が現世に帰還するという考えかたのもとに、盆や彼岸の行事をも営んでいます。こうした脈絡なき死後観は、むろんキリスト教的なものではありませんし、仏法的なものでもありません。本論考でもすでに述べたように、仏法は死後に霊魂が残存し、それがあの世に行くというような発想を認めませんし、先祖祭祀を事とするものでもありません。日本人の死後観は、もはや宗教的な意味においてすら論理性を見失い、混沌のうちに妄説化していると申せましょう。

さて、大乗仏法の浄土観が、日本に流入したとき、西方極楽浄土は、伝統的な常世観の強い影響を受けて、常世の国と同様の、清浄にして永遠なる場所的死後世界と解せられるにいたりました。他国や他の文化圏から新たに移入された思想や文化は、それらを受け容れる側の伝統思想や伝統文化によって色付けされるのが通例ですから、それも致し方のないことではあります。しかしながら、大乗仏法に言う浄土とは、大日如来のそれにしろ、弥陀如来のそれであれ、あるいは弥勒浄土であっても、いずれにしても、本来は、場所ないし空間として実体化されうるものではありませんでした。それは、経典の記述を忠実かつ虚心に追い尋ねれば、ただちにあきらかになるところです。たとえば、親鸞が正依の経典とする『無量寿経』(大経)を見てみましょう。『無量寿経』においては、弥陀如来が世自在王仏のもとで菩薩(法蔵菩薩)として修行していた十五劫の昔(無限の過去)に、衆生の救済を願って打ち建てた四十八の誓願が挙げられています。それら、四十八願の核をなすのは、弥陀如来に信心を与えられて、「帰命尽十方無碍光如来」、あるいは「帰命無量寿如来」もしくは「南無阿弥陀仏」と念仏すればかならず往生できると説く、第十八願、すなわち「至心信楽の願」にほかなりません。『無量寿経』は、この第十八願が成就したことを示す「願成就文」を掲げていますが、そこにはつぎのような一節が記されています。
即得往生、住不退転
弥陀如来による救いを心を尽くして信じ願ずれば、即のとき、つまりこの現世、「いま、ここ」において往生することを得て、もはや退くことのない位に住することができる、という意味です。これは、『無量寿経』が、現世とは異なる世界、たとえば死後世界のごときものを措定して、人は死んだらそこへと掬い取られると説いているのではなく、人はこの世で生きながらにして往生する、と説いていることを端的に示しています。浄土真宗(真宗)の僧侶たちのなかには、現在もなお死後往生こそ宗祖親鸞の真意だと説き、現生往生説を妄説と断ずる人々が目立ちますが、実は親鸞がもっとも大切にした経典が、現生往生を説いているのです。親鸞の曽孫覚如の『口伝鈔』によれば、親鸞は、法然在世のころ、法然の他の門弟と往生浄土の真義をめぐって論争し、その折、「不体失往生」という認識をあらわにした、と言います。不体失往生とは、この世に身体を保ったまま往生することであり、念仏往生を求める機(人間)は、まさに生きながらにして往生する、という意味です。さらに、晩年の自著『一念多念文意』などにおいても、親鸞は、現生往生の立場を貫いています。親鸞は、『無量寿経』の仏説にあくまでも忠実に従っていたということです。親鸞にとって、自身と浄土門の信徒たちがめざすべき浄土とは、来世に開かれる場所的世界ではなく、現世に厳存する何かであった、と推断されます。
とは言え、煩悩まみれのまま汚辱の現世に在りつづけることが往生浄土を意味するなどということは、とうていありえないことです。見てきたように、大乗仏法の核をなすのは、煩悩即菩提、生死即涅槃の論理(情理)です。けれども、煩悩の塊としての自己について一片の慚愧ももたず、生死の迷いに囚われたままただ現世での「生き延び」を図るだけの卑しく汚れ切った凡夫が、己の愚劣と醜悪を一切顧みることもなしに、そのままの姿で弥陀如来の摂取不捨の願に与かって救われ、そして覚らしめられるなどということが起こりうるはずはありません。親鸞、ひいては、世親(ヴァスバンドゥ 旧訳では天親)、曇鸞などの浄土教の祖師たちによれば、浄土とは人々の心を浄化するはたらきであり、現世において、そうした清浄化の作用に与かり、心清まった者が、救われかつ覚らしめられるのです。くりかしますが、浄土は仮想的な理想世界としての空間的場所ではありません。それは、現世における自己浄化作用そのものであることを、『無量寿経』の第十八願願成就文「即得往生、住不退転」は、わたしたちに対してはっきりと語りかけているのです。こうした自己浄化作用としての浄土の真態を見失うとき、あるいはそれにまったく無知であることによって、人は、たとえば暁烏敏のごとくに、他者の悲苦、わけても男社会のなかで弱い立場にある人々(たとえば女性たち)の辛さを顧みない放逸無慚な振舞いにおよんでしまうのだ、と申せましょう。

しかしながら、『無量寿経』や『阿弥陀経』などの大乗経典が、他方では、西方極楽浄土を理想的死後世界として場所化して描いていることも、否定できない事実です。善導や、「偏衣善導」(ひとえに善導一師に依る)と述べて善導に帰依した法然が正依の経典とした『観無量寿経』にいたっては、「定善十三観」および「散善三観」を説き、理想の場所的世界としての浄土に到達するための具体的な方途に言及しています。これをいかに解釈すべきなのでしょうか。いやしくも、仏法徒であるかぎり、経典の権威を簡単に否定し、そこに書かれた文言の意味を黙殺したり、蔑ろにしたりしてはならないでしょう。ただし、経典の記者たちは、仏への篤い信心に基づいて仏道の研鑽を重ねていたとはいえ、根本のところでは、わたしたち凡夫と同様の人間です。ですから、彼らは、わたしたち凡夫よりもはるかに深い智慧を有してはいたでしょうけれども、本質的な次元では、人間的知の枠組みを超越することはできなかった、と思われます。人間的知にはおのずからに限界があります。わたしたちには、いかに学問的精進を極めようとも、どうしても理解のおよばないさまざまな問題があります。たとえば、自分が死んだ後の未来がどのような相貌を帯びて現出するのか、といったような問題です。経典の記者たちにとっても、人間の死の実相や意味と、死後の在りようなどをいかにとらえるべきかは、人間的論理や情理の範囲内ではいかにしても解きえない難題だったにちがいありません。そのような難題は、通常の論述方法をもってしては、とうてい説述できるようなものではなかったでしょう。ですから、経典の記者たちは、人間的日常性に則する経験的に厳密な論証法とは異なる形式、すなわち、その妥当性において蓋然的な手法をとらざるをえなかったもの、と推察されます。その蓋然的手法として、経典の記者たちが採択したのが、「いかにもそれらしいものがたり」、すなわち、プラトンのことばを借りるなら、「エイコース・ロゴス」としての「神話」(ミュトス)にほかなりませんでした。つまり、経典の記者たちが披瀝する、理想的死後世界として空間化され場所化される浄土のものがたりは、いわば、「浄土門に特有な神話」にほかならなかった、ということです。ここで、一点留意しておくべきは、神話とは、歴史以前を語る原初のものがたりにはとどまらない、ということです。神話は、人間知の限界性を超えるための手段であり、人間知にかぎりがあるかぎり、いつでも、どこでも創られて広められます。たとえば、民主主義が多くの場合、ポピュリズムを招き衆愚政治に堕することを熟知しながらも、今日なおわたしたちが、国家の主権者として自由にして常に正しい判断をなしうる個人という存在を仮想するのも、現代における政治的「神話」の1つと申せましょう。

このような「いかにもそれらしいものがたり」としての、論理性に乏しい「神話」に人々が信憑を寄せるとき、「神話」の根柢に存する思想的教説は、宗教に近づいてゆきます。神話は、理性的でも情理的でもない、信仰の対象としての汎通的架空譚にほかならないからです。仏法も例外ではありません。無の哲学たることを本質とし、有にまつわるすべての定立命題を空ずることを通して空の哲学という側面をも確示する仏法においては、本来、生死は無からの発生と無への還帰としてとらえられていたはずです。人間の生き死にとは、ただ無から生じて無に帰するまでのこと。釈尊はそのように考えていたと推されます。生きものが生き、そして死ぬことに特段の意味はない、ということです。哲学の観点からすれば、それは決定的なまでに正しい生死観であり、そこには何一つ付け加えるべき思念はありません。ですが、そのように、あまりにさっぱりと言い切ってしまうと、仏法に帰依する多くの凡夫の心は、慰めを得られなくなります。無常なる生、刹那に生じ、刹那に消える生に何らかの意義を与えてほしいというのが、凡夫の儚い願いだからです。それゆえにこそ、大乗の支脈として「度衆生心」を重んずる浄土教は、ときに死後世界を実体化しつつ、信徒たちの死への不安を和らげようとするのでしょう。そして、浄土を清浄化の「用き(はたらき)」としつつも、他方でそれを死後の楽園として措定することをとおして、浄土教は多分に宗教的教説となってゆきます。ちなみに、親鸞は、その最晩年に坂東、ことに常陸国の門弟たちに宛てた消息のなかに、時として「浄土にてお待ち申している」という旨の言説を書き記します。浄土での再会などありえないこと、すなわち、場所的に措定される浄土が仮想的存在に留まることを、親鸞はむろん明確に自覚していたことでしょう。にもかかわらず、親鸞が浄土での門弟たちとの再会という夢ものがたりを口にしたのは、門弟たちの死への不安を取り除き、彼らが懐く弥陀如来への信心を確たるものとなすためでした。弥陀如来の摂取不捨の願を信じる者相互のつながり、つまり、同朋のあいだの信心の絆をたしかなものとなすべく、親鸞は、いわば方便として、場所的かつ空間的に浄土を把握する考えを呈示してみせたもの、と思われます。そのとき、親鸞は、仏法を純理的かつ情理的に解する哲学徒としての立場から逸れて、宗教家となっていたと考えても、あながち失当ではないでしょう。むろん、親鸞は、弥陀如来をキリスト教的に超越的絶対有などと解していたわけではありません。彼にとって、弥陀如来とは、あくまでも、真如より自然(じねん)に、法爾として来する形も色も量もなき、絶対の無であったはずです。しかしながら、自身を核として成り立っている坂東の門弟、門徒たちの宗教的結合を、仏法の哲理を遵守するがゆえに断ち切ることを、親鸞は避けたのだと思われます。言ってみれば、門弟、門徒への慈悲ゆえに、親鸞は、自身の仏法をかりそめに宗教化したのでした。
親鸞の哲学ないし思想の核心の1つが、『歎異抄』第三条が説く「悪人正機説」にあることは、論をまたないところです。「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という言説は、親鸞自身のものではなく、『歎異抄』の著者のものだという見解が妥当性を欠くことは、すでに本セミナ―でもいくたびか論じましたし、拙著『親鸞―歎異抄を手がかりとして』(春秋社)、『私釈親鸞』(北樹出版)等でもくわしく論じましたので、ここではそれには触れません。悪人こそが弥陀如来の救いに与かって往生を遂げ、善人は如来による救済とは無縁である、という親鸞の悪人正機説は、人間の存在悪、すなわち自身が生きるために他の動植物や他の人間を排除し犠牲にせざるをえないという、人間存在の根柢に関わる悪をみずから覚り、それに苦悩する者が弥陀如来の救いに与かると説くものであることは、おそらく異論の余地のないところだ、と思います。しかし、それは、そのような存在論的解釈以前に、大乗の論理もしくは情理の問題としても解きあかすことが可能です。むろん、善導が強調する「二種深信」という観点からも、それは十分に解明することができます。善導は『観経疏』において、人が、自分は煩悩まみれであるがゆえにけっしてみずから覚ることができないと信じることを「機の深信」と呼び、さらに、そのような救われもしなければ覚れもしない人間を弥陀如来が大悲大願をもって摂取することを「法の深信」と名指しました。悪人正機とは、この二種深信の論脈のなかに解消されうるものと解することができるでしょう。要するに、悪人正機説は、人は煩悩に心を蔽われたどうしようもない悪人であるが「ゆえに」救われて覚らしめられるという考えかたであり、それは、まさに煩悩即菩提の論理(情理)のうちに収斂してゆく思考法にほかなりません。言いかえれば、大乗仏法の煩悩即菩提の論理は、悪人正機の論理そのものだと言っても、大過はないと思われます。煩悩まみれで、他者に仇なす悪人は、己の悪を見据えるがゆえに救われ、煩悩をもたない清廉潔白にして悪とは完全に無縁な善人は、悪の自覚を欠かざるをえないがゆえに、絶対に救われることはないということです。もっとも、大乗、ことに親鸞の認識では、万人が悪であり、善人などというものは、実際にはこの世に一人だにいません。善人の往生などということは、夢ものがたりの次元にすら達しえない、無論理なる仮想事態にとどまる、というのが親鸞の真意だと言うべきでしょう。大乗仏法は、善人などというどこにもいるはずのない者の存在を思い描くような、無思慮で無反省な人々には、そもそも理解のおよびようもない峻厳な哲学だということです。

近年、真宗教義学に斬新な展開をもとらそうとする比較的若手の研究者のなかには、親鸞の思想を、西田哲学に基づいて論理づけようと意図する動きがあります。一般に、西田幾多郎は、わが国において西洋的な意味での哲学を確立した「最初の哲学者」と称せられています。また、西田は、禅の思想を西洋哲学的に解析しようと企図した哲学者と規定されることが多いようです。京都帝国大学に専任職を得る以前の西田は、参禅体験を重ね、「寸心」という禅号をもっていましたし、日本を代表する禅者鈴木大拙は、西田の竹馬の友であると同時に、彼の思想的な意味での盟友でもありました。西田が禅について深い関心を有していたことは、さまざまな角度から見て、けっして否むことはできません。さらに、西田が展開する絶対無の哲学が、禅の思想に通ずる側面をもつこともたしかではあります。しかしながら、実は、西田は、禅の論理を系統的ないし体系的に追思する論考を物したことがありません。禅は、西田の個人的生を支える精神的支柱ではあったものの、彼が禅の哲学化を図ったと考えるのは、西田哲学の研究としては精確さを欠く解釈だと言わざるをえないでしょう。西田の主たる関心は、禅ではなく、むしろ親鸞の思想について、その論理の基本性格を見究めることにあった、と見るべきです。そのことを端的にものがたるのが、彼の最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」です。
この論文において、西田は、人間は悪しき者であるがゆえに弥陀如来に救済されて覚らしめられるとする親鸞の論理を、「逆対応」という概念をもってとらえています。まったく相反するがゆえに対応するはずのない、逆方向の二項が相応ずるという構造が親鸞思想の根幹をなす、と西田は説くのです。西田の親鸞思想についての理解は的確です。親鸞の悪人正機説の基礎構造を、西田が精確にとらえていることは疑いようがありません。しかしながら、親鸞思想を理解する際に、わたしたちは、ことさらに西田哲学を援用する必要はありません。わたしたちは、浄土門の通規に則るだけで、ひいては大乗仏法の基礎的論理(情理)を親鸞思想の核と見定めることによって、西田哲学に依拠するまでもなく、親鸞思想の真態に迫ることができます。上述のごとく、たとえば善導の「二種深信」に従って悪人正機説を説明すれば、それだけで十分に親鸞の思想構造を説明づけることができるのです。にもかかわらず、いったいなぜことさらに西田哲学の「逆対応」の概念に依拠して、親鸞思想を解きあかそうとしなければならないのか。本論考には、その理由が理解できません。西田のような近代的哲学者が浄土真宗の教義を哲学的に説明づけているという、その事実が浄土真宗の価値を高めるという判断から、若手の研究者たちが敢えて西田哲学に言及しているのだとすれば、彼らは、なぜ、京都帝国大学における西田の後継者でありながら、西田哲学に対する峻烈な批判者でもあった田辺元の哲学に論及しないのか、不可解であると言わざるをえません。田辺は、その主著『懺悔道としての哲学』において、親鸞が『教行信証』信巻で展開する「三心釈」や、同書方便化身土巻の「三願転入」について、それまでの真宗教義学には見られなかった斬新な解釈を披瀝しています。西田哲学の親鸞思想への論及をもって浄土真宗の普遍性を強調しようと企図するなら、当然、田辺元の親鸞論にも注意を払うべきなのではないか、と本論考は考えます。

西田の「逆対応」の論については、それが親鸞思想の真義をとらえきっていると断定する前に、注意を払っておくべき問題が2つあります。まず第1に、親鸞の悪人正機説は、人間存在の根底に、他者を犠牲にし排除する(たとえば、動植物の生命を奪い、食に供する)という人間の根本悪を見とるものにほかなりません。ところが、西田幾多郎という、つねに観念的な形而上学を求めてやまない哲学者は、人間性の根本態様を具体的かつ具象的にとらえることに、何一つとして関心を払っていません。西田は、おそらく、人間がその現実生活において根本悪を露呈している事実に気づいていなかったのであろう、と推されます。その意味において、西田の「逆対応」説は、親鸞思想の表層をなぞるだけの単なる抽象論に終始しているのです。それは、親鸞の論理を形式的に眺望するに留まっている、と言うべきでしょう。第2に、西田の「逆対応」論は、親鸞思想の実質を追尋し、その奥底に肉薄することを、はじめから企図してはいないという点です。つまり、西田の真の狙いは、親鸞思想の全体像のいきいきとした態様そのものに肉薄することにはなかったということです。西田幾多郎が尿毒症で世を去ったのは、昭和26年6月のこと。ちょうどそのころ、西田は「私の論理に就いて」という論文を書き始めていました。結局、わずかに数行ほど書かれただけで絶筆となってしまったこの論文が最終的に何をめざしていたのかは、厳密にはわかりませんが、論題から見て、それが論理の問題に論及するものであったことは、疑う余地がありません。その数行の書き出し部分において、西田はおよそつぎのように述べています。私の論理は、いまだだれにも理解されていない、それどころか、学界では一顧だにされていない、と。この未完成論文は、日本近代の哲学界に在って、哲学とはその本質においていかなるものであらねばならないのかを鋭利に認識していた者が、おそらくは西田一人であったろうことを明瞭に告げています。古代ギリシア以来の伝統のなかで、哲学(ピロソピア)は、人生に関する本質知(ソピア)を愛し求める(ピレイン)学と規定されています。その定義はけっしてまちがってはいないでしょう。しかし、哲学にはさらにつぎの一点が求められます。すなわち、哲学とは、各々の地域や民族にとって支配的な思潮に明確な論理ないし論理学を与えることを旨とするものなのです。たとえば、プラトンは、師ソクラテスの思索に問答法(ディアレクティケー)という論理を付与することで、また、ヘーゲルはキリスト教の核心をなす三位一体論を独得の弁証法論理によって説明づけることで、それぞれに独自の哲学を編み上げたのです。西田がめざしたのは、日本ないし東洋の伝統思想を明確に論理づけて、それを西洋哲学に伍しうる日本哲学もしくは東洋哲学として確立することでした。西田が絶筆「私の論理に就いて」において歎いているのは、みずからのそのような意図がいまだだれにも理解されず、共感すら得られていないという日本の哲学界の現状だったのです。この点を顧慮するなら、親鸞思想を「逆対応」という論理をもって説明づけようとしたとき、西田が真に意図していたのは、日本思想の1つの核をなす親鸞思想を、西洋型の論理によって西洋的な意味での「哲学」として確立することであった、と考えなければなりません。ところが、西田の「逆対応」の論理を重用する若手の真宗教義学者たちは、このことに気づいていません。彼らは、親鸞思想をあくまでも「宗教」ととらえ、その「宗教」への「日本最初の哲学者」西田幾多郎の関与を喜悦をもって受け止めているにすぎないのです。彼らは、西田の真意を理解することなく、ただ西田の浄土真宗への関与をありがたがっているだけだと言っても、けっして失当ではないでしょう。

煩悩即菩提を説く大乗仏法は、西洋型の理性の哲学ではありません。しかし、大乗仏法には、煩悩があればこそ煩悩の対極に展かれる菩提に近迫することができるとする、明瞭な情性のことわり、すなわち情理があります。そして、その情理は、単なる宗教性の発露にとどまるものではなく、その本質において、西洋型のそれとは異質な東洋独自の哲学を構築するものと申せましょう。もしそうではないとすれば、大乗は、釈尊の後継たる資格を欠くことになります。釈尊は、「正見」をもって、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印を見定めるのが仏法の本義であると説きました。釈尊は、事態や事象を冷静に見ること、知ることを何にも増して重んじているのです。このような釈尊の思考態度は、まぎれもなく哲学にほかなりません。釈尊の後継を自認する以上、大乗もまた哲学であらねばならず、大乗の支脈たる浄土門に生きる親鸞の思想も、時に宗教性を纏いながらも、本質的には哲学だったと言うべきでしょう。この点を看過し、親鸞を純然たる宗教者ととらえたり、果ては、親鸞思想とキリスト教とのあいだに類縁性を認めるような姿勢をとることは、たとえそれが宗門内の高僧によって説かれるにしろ、あるいは宗門の外の著名な研究者の主張するところであろうとも、事の真態から逸脱するという意味において、妄説の域を出ないと断じてよいでしょう。むろん、他者の悲苦、なかんずく、いかにしても煩悩を脱しえないという悲しみに寄り添い、それを共悲する(共に悲しむ)ことの重要性を否定するわけにはまいりません。その共悲ということ、すなわち、親鸞の『教行信証』方便化身土巻に言う「悲憐」を大乗の1つの在りかたと見なすことは、けっして誤りではありません。悲憐に生きることが宗教的な意義をもつとするなら、大乗仏法は哲学でありつつも、同時に宗教性を有すると言ってもよいでしょう。ただし、その宗教性は、あくまでも大乗仏法の一側面であり、それを強調しすぎることは、大乗仏法の根幹を見失うことにつながります。したがって、大乗の系譜を継ぐことを、たとえば「正信念仏偈」の浄土七高僧についての讃誦において明確に抒べている親鸞を、純然たる宗教者と解することは、けっして正しい見かたとは言えません。浄土真宗の開祖という枠組みのなかでのみ親鸞をとらえることは、穏当ではないのです。1つの宗教上の教派としての「浄土真宗」は、明治期に画定された名称であり、そのようなものは、すくなくとも親鸞の認めるところではありません。既述のごとく、親鸞の言う「浄土真宗」とは、あくまでも法然の樹立した浄土宗を正当に継承する思想、という意味だったのです。親鸞を、万人に慈悲の想いを投げかける心優しい宗教上の教祖ととらえ、ひたぶるに彼に帰依する態度は、ある意味では、親鸞の真の姿を蔑ろにすることによって成り立つのです。仏法とは、とりわけ大乗とは何か。つねにそうした問いに立脚しながら、親鸞思想の哲学的性格に即して、煩悩即菩提の情理的論理が親鸞思想の論脈のおいていかなる姿で立ち現われているかを静かに見究めることこそが、親鸞とはだれであるか、を理解するためにもっとも重要なことであろうと、わたしは思います。宗教的情性の過多は、わたしたちを「正見」から遠ざけます。親鸞に宗教的救いのみを求めるのではなく、彼の思索の跡を淡々と理的に追うこと。そのことの重要性を確認することをもって、本論考のとじめといたします。
(令和8年4月28日)