「親鸞聖人が生きられた時代の日本は?」  山田 雄司(三重大学教授)

 親鸞聖人は1173年 - 1262年、すなわち鎌倉時代前半から中期にかけての日本を生きられましたが、そのころはどのような時代だったのでしょうか。
 一般的には、これまでの「腐敗した」京都の朝廷にかわって、源頼朝により「清廉な」鎌倉幕府が樹立され、朝廷に取って代わって日本を支配し、時代が刷新されたかのように考えられていますが、実際のところどうなのでしょうか。
 1221年の承久の乱以前は、幕府の支配する範囲は東国に限られていましたが、幕府軍が乱に勝利したことにより、西国の荘園・公領にまで鎌倉幕府の御家人が地頭として任命され、幕府の支配が全国に及ぶようになりました。そして地頭は武力を背景にして、荘園や公領への支配力を強め、治安維持や年貢の取り立てなどを行い、支配を拡大していきました。
 このように、しだいに新たな統治機構としての鎌倉幕府の支配が全国に及んでいったのですが、実は法律は全国で統一されたものはなく、公家だったら公家法、武士だったら武家法、それぞれの寺社や荘園だったら寺社法・本所法によって判断されることになっていました。また、古代・近世と違って戸籍もなく、日本全体で統一的に人々が支配されていたとはとても言いがたい状態でした。
 そうした状況のなか、一般の人々の生業はどのようだったのでしょうか。農民たちは土地の生産力を安定させるため、刈敷・草木灰といった肥料を使用し、鉄製農具も利用されるようになり、荒地開発、用水路づくりなどの土木工事が行われて生産力が向上しました。また、田畑へ水をあげるために水車を使用し始め、牛馬耕も行われるようになったことにより、畿内・西国では二毛作が始まりました。
 こうした耕地開発の進行、農具・農業技術の改良による生産の増大にともない、それに触発されて手工業者が自立し、地域ごとに特色ある手工業製品が生産されていきました。そして手工業の発達は、余剰生産物(商品)の交易の場である市を生み出すことになりました。12世紀頃から荘園村落に生まれ始めた市は鎌倉時代に入るとその数を増し、月に三度開かれる定期市(三斎市)に発展し、さらに室町時代になると六斎市となって発展していきました。定期市では生活に必要な物資が売られる一方、農民は年貢の余剰を売って金銭を稼ぎ、道具や足りない食料を手に入れました。
 また鎌倉時代には宋銭が全国的に流通し、各地で商業製品が生産されるようになったため、商品の運送を専門に行う人々も現れ、年貢運送の代行を行う業者が出現するなど、商業・運輸業も発展していきました。
 このように、農業における生産性が向上し、商工業も一定の発展を遂げたのですが、生産は自然の影響を受けるところ大であり、さまざまな災害に見舞われました。鎌倉時代に起きた大きな飢饉としては、寛喜の飢饉(1230~32)、正嘉の飢饉(1258~60)、元徳の飢饉(1330)が知られています。鎌倉時代には寒冷化が進んだとされ、飢饉の際には餓死者の死体があちこちに放置されていたと記されています。
 また、『吾妻鏡』によれば、地震については毎年のように起こっていることがわかりますが、1293年(正応6)4月13日に発生した大地震では鎌倉に大きな被害を及ぼして津波も発生し、死者は2-3万人に及んだと推定されています。そして1270-80年代をはじめとして阿蘇山が数度にわたって噴火し、大きな被害が出ました。その他、旱魃・洪水・虫害・疫病などもたびたび起こったほか、承久の乱をはじめとした大小の戦乱も各地で勃発し、人々は毎日の生活をどのように送ったらよいのかという不安を常に感じていました。
 一方、中世は「宗教の時代」とも呼ばれるほど、国家から庶民に至るまで宗教が大きな影響を与えていました。人々は日々の幸福を神仏に祈り、病気治しも修験者や民間陰陽師などに頼り、国家の安泰は顕密仏教が担っていました。東大寺・興福寺・延暦寺・東寺といった大寺院は天皇護持・国家安泰の祈祷をすることが最大の役割でした。
 しかし、祈祷をすることで災害を減少させることができたでしょうか。相次ぐ戦乱・飢饉・疫病を前にして、「呪術的」な仏教・神道・陰陽道は無力でした。そうしたところに、個人の心の救済を図ろうと登場したのが、法然・親鸞・日蓮・一遍といったいわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる仏教を打ち立てた僧侶たちでした。こうした仏教は、これまでの国家と強く結びついた顕密仏教の考え方とは大きく違っていたので弾圧されることになり、うねりとしてもまだまだ小さいものでしたが、確実に信者を増やし、室町時代になると社会全体に広がっていきました。
 現代と比べたら明らかに経済的に未発達な中世社会ですが、いったいどちらの方が人々は幸せを感じているでしょう。どうしたら心の安住を得られるのか、幸せだという実感を得られるのか、その命題を解決するために現れたのが法然・親鸞・日蓮・一遍といった僧侶たちだったのではないでしょうか。先の見えない昨今、私たちは苦悩の中から立ち上がった僧侶たちが伝えたかったことを深く学んでいく必要があるのではないでしょうか。

 

筆者プロフィール  http://onryo.syuriken.jp
《略歴》
1967年静岡県生まれ。京都大学文学部卒業、筑波大学大学院博士課程(歴史・人類学研究科)修了。博士(学術)。現在は三重大学教授。専門は日本中世史、信仰史。

《主要著書・論文》
『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版)、『跋扈する怨霊』(吉川弘文館)、「伊勢神宮の中世的意義」(伊藤聡編『中世神話と神祇・神道世界』竹林舎)、「平太郎熊野参詣説話の検討」(『親鸞の水脈』第9号)ほか。

 

 

 

3月31日に行われました当山27世「葬儀およびお別れの法会」にご参列を賜りました皆さま、またお心遣いを賜りました皆さま、ご厚情に深く感謝申し上げます。皆さまのお力をお借りして、法会を無事に終えることができました。ありがとうございました。法会の様子は、左端「ご報告の部屋」をご覧ください。また、当日は一般のご参拝の方々に多大なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。(4月1日)

 

  

 「春の市民大学講座」(3月24日)は無事に終了しました。特に西洋哲学(デカルト)につきましては予想を超えるご来場者があり、関心の高さを感じました。ご参加の皆さま、お疲れ様でした。次の市民大学講座は7月20・21日です。ご参加を心よりお待ち申し上げています。(3月24日)

 

 

 

 

 会うことに意義があったと信じたい。再会は3度目の逢瀬?^_^;に繋がる。

 

 思い起こしてほしい…あの米ソ冷戦が激化していった時代、米英仏ソの4大国首脳がジュネーヴに参会して笑顔で写真に収まり(1955)、フルシチョフが訪米してアイゼンハウアーと会談したこと(59)が、(米大統領はケネディ代わったが)キューバ危機(62)の解決に繋がっていったのは間違いない。

 

 それにしても、「世界を俯瞰する外交」はどうした? これが「制裁・圧力」と言い続けて他人頼みの強硬外交を繰り返してきた結果なのか? 自らが位置する東アジアが大きく地盤変動しつつある時に、全く‘蚊帳の外’に置かれているのは噴飯物でしかない。

 

 再び思い越して欲しい…欧州に多大な惨禍をもたらした第一次世界大戦(1914~18)が終わった100年前、ウィルソン米大統領の唱えた「新外交new diplomacy」  が流行語となって、パリ講和会議(19.1-6)で恒久的平和に向けて熱い議論が繰り返されていた時代を。その時に日本は、「五大国  Big5」(米英仏伊日)の一員として講和会議に加わりながら、経験と語学力の不足そして何よりも平和に向けた ‘理念’ の欠如から、会議では孤立した挙げ句に沈黙を続けて「silent partner」と密かに軽蔑されたのだった。

 

 さらに「民族自決」という国際的潮流を見誤った日本は、朝鮮半島では「三・一独立運動」(19.3)を徹底的に弾圧し、大陸部では権益拡大を強引に追い求めて「五・四運動」(19.5)を引き起こした。…そして日露戦争の勝利でアジアの希望の星と思われていた日本は、アジアの民衆から失望され孤立していく。

 

 知る人によれば、友人を大切にする ‘良い人’ だそうだ。落ち着いた住宅街にあるお坊ちゃま大学を出た(少し単純な思考回路を持つ)男が、したたかな思惑を持った人々に操られて暴走した結果が、孤立した今の状況なのだろう。戦争への道を決定づけた上で内閣を投げ出した近衛文麿と酷似していると思うのは、私だけではないだろう。

 

 しかしながら、個人を批判しても仕方あるまい。二人とも、世論の支持を頼りに暴走していったのだから。あの時代に近衛内閣と大陸への強硬策を熱く支持した日本国民たちも、今の時代に(住民投票に示された)地方の民意を完全に無視し、かつ無形の圧力をかけて公文書や統計数字の偽装を官僚に強いる内閣に高い支持を寄せ続ける国民たち(特に若年層男性)も、時代を超えて共にその責任は重い。

 

 すべては、私たち国民のせいなのだ。(2019.3.4)

 

 

 

 

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