【第5回】慈悲の思想        筑波大学名誉教授 伊藤益

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 建久9(1198)年『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を撰述した法然は、その末尾をつぎのような一文をもってしめくくりました。

 

庶幾(こいねが)はくば一たび高覧を経て後に、壁の底に埋(うず)みて、窓の前に遺すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕(だ)せしめざらんがためなり。

 

 九条兼実(くじょうかねぜね)公にお読みいただいたのちには、この書を壁の底に埋めて人目に触れないようにせよ、釈尊以来の正統たるわたしの仏法を破る人がこれを誹謗中傷して、その結果、地獄、餓鬼、畜生の悪道に堕ちないようにするためである、と言うのです。『選択本願念仏集』は、九条兼実のたっての要望を受けて、法然が能書の弟子たちに口述筆記させた書で、一般には、浄土宗の立教開宗宣言の書と目されています。しかし、この一文を読むかぎり、実際に壁の底に埋めるまでにはいたらなかったでしょうが、法然は、この書を世に広く公表しようという意思をもたなかった、と考えられます。事実、法然は、この書を、これぞと思ういくたりかの高弟に書写させるにとどめ、原則として、いわば秘伝の奥義書としていたようです。若き日の親鸞が、この書の書写を法然じきじきに許され、最高の名誉として歓喜したことは、すでに本セミナーの第3回で触れました。同書が浄土宗の秘伝書、もしくは奥義書であったとすれば、親鸞の喜びがきわだつのも当然のことだった、と申せましょう。ところが、建暦2(1212)年正月25日に法然が示寂してのち、ほどなくして、高弟たちは、この書を板木に刻み、公刊してしまいました。法然が生前おそれていたように、「破法の人」が現われました。華厳宗の清僧、明恵高弁(みょうえこうべん)です。

 明恵は、宗派のちがいをこえて、日ごろから法然を尊敬し、その人徳を高く評価していました。ところが、法然亡きあとに公刊された『選択本願念仏集』を一読して、明恵は激怒しました。そこには、いわゆる「自力聖道門」、すなわち顕密仏教(旧仏教)側からすれば、とうてい許しがたい言説が含まれていたからです。明恵は、時を移さず、邪(よこしま)なる浄土宗を、外道として打ち摧(くだ)く書『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著わし、おもにつぎの2点をめぐって、激烈なまでに法然を非難しました。1つは、菩提心を撥去(はっきょ)する過失、そしてもう1つは、聖道門をもって群賊にたとえる過失です。第1点目に関しては、明恵が法然の真意を的確に理解していたかどうかについて、微妙な問題があり、この論考の目下の段階では、くわしく論じることができません。第2点目は、『選択集』が善導の『観経疏』散善義のなかから、いわゆる「二河白道のたとえ」を引用し、そこに登場する「群賊悪獣」を自力聖道門の人々と解釈したことに端を発するものです。これは、どのような角度から見ても誤解の余地のない言説であり、自力聖道門の人にほかならない明恵にしてみれば、当然ながら、憤怒の対象とすべきものです。では、「二河白道のたとえ」とはどのような話なのか、まずは、それを簡潔に説明しておきましょう。

 1人の旅人が荒野を歩いていました。そのとき、突然眼の前に、水の河と火の河とが現われ、しかも、その2つの河は、南北にほとりなく、底知れぬ深さでした。旅人は、それらの河を渡ることが困難になります。その際、水、火二河のあいだには、幅4、5寸ほどで、長さ100歩ばかりの細く白い道が見えました。しかし、細く白い道のうえでは、火の河の火が水の川の水を焼き、さらには水の川の水が火の河の火を消すというありさまでした。旅人は、白く細い道を渡ろうかどうしようか、ためらっていました。そんな旅人の背後からは、群賊、悪獣が襲いかかろうとしています。万事休す、と観念した旅人でしたが、「その道を行け」という東岸の釈尊の声と、「こちらに来い」という西岸の阿弥陀如来の声に励まされて、道を歩みはじめました。すると、須臾(しゅゆ)の間(ま)に旅人は西岸に到達し、群賊、悪獣に襲われる難を免かれたばかりか、善友(ぜんぬ)たちと相まみえることができました。善導はこの話のなかの譬喩(ひゆ)をあかして、旅人に背後から迫る群賊、悪獣とは、「別解(べつげ)・別行(べつぎょう)・悪見人(あくけんにん)等」のことを指すと述べています。「別解・別行・悪見人等」とは、善導によれば、みだりに誤った説を立て、互いにまどわし合ったり、みずから罪をつくったりする人々のことです。ただし、善導は、これらが浄土門以外の他宗の仏教徒なのか、それとも、仏教徒以外の人々(外道)なのかをあきらかにしていません。念仏門以外の人々を群賊・悪獣とする姿勢を、善導はけっしてあらわには示していない、と言うべきでしょう。

 ところが、法然は『選択集』第八段の、自説を披瀝する部分で、

 

またこの中に、一切の別解・別行・異学・異見と言ふは、これ聖道門の解行学見を指すなり。その余は即ちこれ浄土門の意なり。

 

と述べています。「別解・別行」の人は、善導によれば群賊、悪獣です。法然が、善導による譬喩の解釈を忠実に踏襲しているとすれば、彼は、自力聖道門に属する人々は群賊、悪獣以外の何ものでもない、と断定していることになります。「二河白道のたとえ」に言う旅人とは、念仏門、浄土門の人なのでしょう。法然は、いかにすれば自力聖道門という「悪行」を免かれて他力浄土門に生きることができるのかという点に、「二河白道のたとえ」の核心を見いだしていると言ってよい、と思われます。明恵は、おそらく、『選択集』のこの部分を読んで、法然は聖道門を群賊、悪獣にたとえる過失を犯している、と判断したのでしょう。みずからがそこに足場をかためて生きているところの聖道門を愚弄されたと感じた明恵は、怒りをあらわにして、法然を非難したのだと思われます。

 明恵は、法然を「汝はこれ畜生か」とまで罵倒しています。ここまでことばを荒げるのは、さすがにゆきすぎの感はあるものの、明恵が憤るのもやむをえない、と思います。「七箇条制誡」などを見るに、法然は、門弟や門徒たちに対して、他宗派の僧侶たちを誹謗中傷したりしないように、厳しく戒めていたものと考えられます。自力聖道門の人々は群賊、悪獣と同然である。内心でそのように想うのはともかくとしても、それを自著において明言するというのは、法然にしてはかなり異様なふるまいと言うしかありません。『法然上人行状絵図』は、法然は善導に依拠して語っているのだから、明恵のように、その言説の責を法然に帰するのは、見当ちがいもはなはだしい、と述べています。しかしながら、善導は、上にも見たように、聖道門の人々は群賊、悪獣に等しいとまでは断言していません。そのように断言したのは、どう見ても法然その人であったとしか言いようがありません。本来慎重な人であったはずの法然が、これほどまでに過激な発言におよんだのは、いったいなぜだったのでしょうか。

 わたくしは、自力聖道門の人々を群賊、悪獣にたとえたとき、法然は、明恵のような、学問と修行に自己のすべてを賭する清僧のことを念頭に置いていたわけではなかったのではないか、と考えます。13歳から実に30年間にもわたって、山門延暦寺で学問と修行を重ね、山を降りて浄土宗を開宗してのちもなお、みずから「黒谷沙門源空(くろだにしゃもんげんくう)」と称していた法然です。その法然が、自力を旨としているという理由だけをもって、聖道門を全面的に否定する挙に出たなどということは、常識的に見てありえないことではないか、と思われます。法然は、30年にもおよぶ山門での生活のなかで、聖道門の、いわば負の側面をまのあたりにしたのではなかったでしょうか。

 聖道門では、多くの清僧たちが、学問と真摯(しんし)な修行とに明け暮れていました。それは、他力浄土門を他のいかなる教法よりも重んじる人であっても、けっして否定すべきではなかったはずです。浄土でのさとりを求める浄土門は、万が一現生(げんしょう)においてさとれるような人がいるなら、それはそれで佳きことだという認識に立っていたのですから。しかしながら、聖道門は、学僧や修行僧を育成する一方で、悪辣な破戒僧たちを数多くかかえこんでいました。神輿を奉じ洛都に乱入して政治に介入する大衆(だいしゅ)たち、あるいは、所領争いを武力によって解決すべく、他寺を襲撃し、果ては殺人にまでおよぶ僧兵たち。そのような、不殺生戒すらも破り捨てる、僧衣を身にまとった悪逆人たちをまのあたりにした法然は、聖道門の果て知れぬ堕落を痛感したことでしょう。わたくしは、そのことが、法然をして自力聖道門の人々は群賊、悪獣にほかならないと言わしめる大きな原因になったのだろうと思います。法然は、その際、明恵のような、学問と修行に秀(ひい)でた清僧を非難したわけではなかったのです。しかし、「七箇条制誡」や各種の問答、消息などの浄土宗内部の諸文書を知らなかった明恵には、法然の真意を理解することは不可能でした。すくなくとも、この点に関するかぎり、法然はいささか不用意だったと言わざるをえないのかもしれません。

 以上のように考察してみると、明恵が論難する法然の2つの「過失」のうちのひとつ、「聖道門を群賊、悪獣に譬える過失」は、言ってみれば、不幸な誤解に基づくものだった、と申せましょう。誤解ならば、法然の門流に属する人々のうちのだれかが、真摯に師の真意を説きさえすれば、いつかはかならず解消されえたはずだと考えられます。明恵とて、聖道門のなかに仏法を無(な)みする堕落した一面があることに気づいていなかったわけではないでしょう。けれども、残念なことに、法然の門弟たちのなかから、誤解を解こうと試みる者はひとりも現われなかったようです。さて、もうひとつの明恵が論難する過失、すなわち「菩提心を撥去する過失」のほうはどうだったのでしょうか。この「過失」は、単なる誤解として済ますことができるようなものではありませんでした。これは、法然と明恵、両者の思想の根幹に関わる重大な問題をはらんでおり、両者の菩提心についての思索、ひいては2人の仏法観そのものの相違に端を発していると言わなければなりません。法然の仏法に足場を据えて生きる人々、わけても彼の門弟たちは、すくなくとも、この点をめぐっての明恵の法然批判を看過してはならなかったはずです。しかし、法然の門弟たちは、表立って、明恵の批判に反論を加えようとはしませんでした。ただし、管見によれば、たったひとりだけですが、例外がいます。親鸞でした。彼は、『教行信証』の信巻のなかで、真っ向から、明恵に対する反論を展開しています。

 

 

 『教行信証』の制作動機については、本セミナーの第2回でも触れたように、いくつかの学説があります。ですが、生涯にわたって、法然の忠実な弟子でありつづけることを、すくなくとも主観的には意図した親鸞が、法然から独立してあらたな宗派としての浄土真宗をうち建てたということはありえないことです。したがって、この書を、浄土真宗の立教開宗宣言の書ととらえる一般の見解には無理がある、とわたくしは思います。自分ひとりで楽しむために撰述したという説は、晩年の親鸞のひそやかな生きかたに着目した場合には、それなりの説得力をもつように見えます。ですが、この書が、仏法の綱格に則る「教行証」の形式を原核として書かれている点、言いかえれば、他の仏法者に読ませること、すなわち公表への強い意志を底流に湛えていることを踏まえるならば、この説も、やはり十全なものとしては成り立ちがたい、と言わざるをえません。『教行信証』の主たる眼目は、法然の仏法は正当にして正統なる仏法ではないとする「興福寺奏状」、ひいてはその起草者たる貞慶に対する反論にあったと解するべきである、とわたくしは思います。しかし、目的はただそれだけにはとどまりませんでした。親鸞は、おそくとも、同書を書き進めていた時点で、よりくわしく言えば、「教行証」の3巻に「信」巻を付け加えようと企図した際に、明恵の『摧邪輪』に対して、何らかの対応を示しておく必要を感じたのだ、と思われます。親鸞は、信巻の三一問答末尾の自釈文のなかで、つぎのように述べています。

 

金剛心はすなはちこれ願作仏心(がんさぶっしん)なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心(どしゅじょうしん)なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心(しん)なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。

 

 親鸞はここでまず、金剛(ダイヤモンド)のごとくに堅固な願作仏心、すなわち、みずからさとりを得て仏になりたいと願う心は、そのままただちに、度衆生心、すなわち、人々を救い安楽浄土へと度(わた)したいと願う心となる、と断じています。この、願作仏心が度衆生心と重なり合うという考えかたは、親鸞独自のものと言うよりも、むしろ、仏法の伝統思想にほかならないと言うべきでしょう。親鸞は、この伝統思想をもちだすことによって、みずからが依拠する法然の教え、すなわち、真の浄土宗という意味での浄土真宗は、正当にして正統なる仏法であると主張したかったのだ、と考えられます。そして、親鸞はさらに強調します。この、願作仏心と重なり合った度衆生心こそが大菩提心であり、同時に大慈悲心にほかならない、と。このように、みずから仏となり、それとともに衆生を浄土へと度(わた)すことこそが大菩提心であると主張するとき、親鸞は、かなり強く明恵の『摧邪輪』を意識していたにちがいありません。明恵は、菩提心を撥去する法然の教えは仏法の名にあたいせず、法然は畜生に等しいとまで論難していました。親鸞は、この論難を逆に手厳しく批判しているのです。

  親鸞は、ここで、「菩提心」にわざわざ「大」という一字を冠して、「大菩提心」と称しています。「大」の一字には、おそらく、明恵の言う菩提心などは、自分ひとりのさとりを求めるだけの、所詮は小さな菩提心にすぎない、という想いがこめられているのでしょう。親鸞に言わせれば、自己のさとりとともに一切衆生の救済を志向する、法然とその門流の菩提心こそが真実の菩提心にほかならない、ということです。大乗仏教徒であった明恵の菩提心が、親鸞が考えるほどに卑小なものでしかなかったのか、明恵の思想を精細に検討したことのないわたくしには、容易に判断できないところです。しかしながら、親鸞が、比叡山延暦寺での20年におよぶ修行体験によって得た感触では、自力聖道門(顕密仏教)の菩提心は、己れのさとりを希求するにとどまるもの、言いかえれば、利他にまでとどかない自利の心でしかなかったのだ、と思われます。親鸞は、暗に語っているのです。明恵たち自力聖道門の人々は、いまだに自利の段階にとどまっている、それに対して、われら他力浄土門に立つ者は、自利と利他とを兼ね備えた、自利利他円満の境地にまで到達しているのだ、と。願作仏心と度衆生心とが重なり合った境位。それは、よりいっそう厳密に言えば、「自利即利他、利他即自利」の境位と言うべきでしょう。自利の段階で自己充足し、そこから一歩も踏み出そうとしない者が、「自利即利他、利他即自利」の境位に立つ人を論難するなど、実に片腹痛いことだ。親鸞は、そのように語っていると解しても、あながち失当とは言えないように思われます。

 ただし、親鸞は、明恵を名指ししているわけでもなければ、『摧邪輪』という書名を批判の対象として具体的に掲げているわけでもありません。不注意な読み手であれば、信巻の上掲の一部を、ただ単に、親鸞の仏法理解の一端を物語るにすぎないものと受けとって、読みすごしてしまうかもしれません。しかし、人名も挙げず、書名にも触れずに、親鸞が明恵を念頭に置きながら、かなり手厳しい反論をしていることは、しかるべき読み手にはたやすくわかるようになっています。『教行信証』方便化身土巻後序において、「主上臣下法に背き義に違し」とまで述べている親鸞です。そんな親鸞、すなわち、たとえ天皇であろうとも仏法に仇をなすものは許さないという姿勢を示した彼に、在来仏教の権門華厳宗への遠慮があったとは、想像だにできません。たぶん、親鸞は、念仏者はけっして他宗派を論難してはならないという法然の訓戒に、できるだけ忠実であろうとしたことでしょう。だからと言って、親鸞は、師に向かっての悪罵とも言うべき不当な非難に対して、沈黙を守りつづけることにはどうしても耐えきれなかったのだ、と思います。

                                     

「~とは~なり」という語法をいくたびもたたみかける語り口や、「大菩薩心」「大慈悲」というやや誇張めいた言いまわしのなかには、親鸞の明恵に対する憤りがほとばしり出ているように見うけられます。親鸞は、「汝はこれ畜生か」とまで語る明恵の、師法然に対する侮辱に近い暴言を、何としても許すことができなかった、ということでありましょう。

 信巻で示された「自利即利他、利他即自利」という境位は、証巻にいたって、「往相還相二種回向」という形でとらえなおされます。これは、曇鸞の『往生論註』に由来する考えかたです。往相回向(おうそうえこう)とは、わたくしどもが弥陀の本願に与かって、浄土へと往生すること、つまり往(ゆ)く相(すがた)です。還相回向(げんそうえこう)とは、わたくしどもがいったん浄土に往生して仏(ぶつ)となったのちに、ふたたび現生(げんしょう)へと戻ってきて、いまだ弥陀の本願を知らずそれに与かっていない人々を教え導いて念仏をとなえさせること、すなわち還(かえ)る相(すがた)です。ただし、往相も還相も、ともにわたくしどもの自力のはからいによって可能になるものではありません。『教行信証』の行巻の掉尾を飾る「正信念仏偈」の曇鸞讃において、親鸞は、「往還回向由他力(おうげんえこうゆたりき)」(往還の回向は他力に由る)とうたっています。親鸞は、曇鸞にしたがって、往相回向と還相回向とはいずれも弥陀の本願力によって可能ならしめられるものととらえていた、と申せましょう。とは言え、往相回向が自利であることは否めません。還相回向は、利他です。往相回向と還相回向のいずれか一方のみが実現されるにとどまるとすれば、自利利他円満ということにはなりません。「自利即利他、利他即自利」という境位を浄土門のなかで具現させるためには、往相回向と還相回向とをふたつながらに実践することが不可欠になってまいります。しかしながら、『教行信証』の証巻は、その実践を、かならずしも具体的に説明づけているわけではありません。どうやら、それについてのわかりやすい説明は、『歎異抄』に期待せざるをえないようです。

 

 

 『歎異抄』第四条によれば、仏法に言う「慈悲」とはいかようなものであるべきなのかという問題をめぐって、親鸞はつぎのように語ったそうです。

 

慈悲に、聖道、浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものを憐れみ、悲しみ、育(はぐく)むなり。しかれども、思ふがごとくたすけ遂ぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏(ぶつ)になりて、大慈大悲心をもつて、思ふがごとく、衆生を利益(りやく)するをいふべきなり。今生に、いかに、いとほし、不便(ふびん)と思ふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲、始終(しじゅう)なし。しかれば、念仏申すのみぞ、末とほりたる大慈大悲心にて候ふべき、と云々

 

 ここで、親鸞はまず、一口に「慈悲」と言っても、実は自力聖道門の慈悲と他力浄土門のそれとの「かはりめ」があるのだ、と述べています。この「かはりめ」については、自力聖道門から他力浄土門へと移ってゆく、その、精神の節目を指している、と解するむきがあるようです。法然や親鸞をはじめ、多くの浄土門徒は、もともとは自力聖道門、主として天台教団の学僧、修行僧であったものの、自力の限界を観じ念仏の教えに救いを求めて、他力浄土門に入りました。また、『歎異抄』第四条そのものが言外に示唆するように、人は、自力の慈悲をきわめた末に、結局はそれが貫徹されえないことを認識して、他力(浄土)の慈悲へと、そのまなざしを向け変えることもままあるようです。こうした点に着目するならば、「かはりめ」を、自力から他力への移行の節目と解することも、あながち不可能ではないように見えるかもしれません。しかしながら、『歎異抄』第四条の文脈それ自体は、そうした解釈を拒絶していると言わざるをえません。第四条においては、「聖道の慈悲といふは~、浄土の慈悲といふは~」という形で、自力聖道門の慈悲と他力浄土門のそれとが、対比的に区別されているからです。したがって、ここで言われる「かはりめ」は、自力聖道門の慈悲と他力浄土門のそれとの「ちがい」という意味にとらえる以外に、解釈のしようがないのではないか、と考えられます。

 つぎに、親鸞はこう語ります。自力聖道門の慈悲とは、衆生を憐れみ、いとおしみ、育むことであるが、しかし、自分の思いどおりに力を尽くして彼らを助けとおすことは、きわめて困難なことだと言わざるをえない、と。親鸞の時代の自力聖道門の仏教、すなわち顕密仏教(官制の旧仏教)は、神祇信仰(古神道)と密接に結びついて、加持祈禱を主たる務めとするようになっていました。疫病の退散、日照りの折りの降雨、皇族や公家の子女の無事な出産などを、仏僧の霊力によって現実化させることが、顕密仏教がになう大きな役割だったのです。疫病の退散や、大地を潤す降雨などを霊的権能をもって実現できれば、多くの人々が助けられるわけですから、顕密仏教の加持祈禱に、利他行としての要素が含まれていることは、けっして否定できません。加持祈禱に力を入れることが仏法、わけても大乗仏教からの逸脱だと決めつけることには、いささか問題があるかもしれません。けれども、親鸞は、そのような加持祈禱では、ほんとうの意味で人々を救いとることはできない、と言います。彼は、別段、加持祈禱を旨とする顕密仏教の奥底に悪意のようなものを見とっていたわけではないでしょう。しかしながら、神祇不拝を信条とし、あらゆる迷信を虚妄として斥ける親鸞は、加持祈禱に精を出す自力聖道門の僧侶たちの霊的権威に対して、まったく信を置いていなかったもの、と見られます。

 親鸞は、自力聖道門の慈悲について、さらに、つぎのようにも語ります。この現世において、どれほどにいとおしい、かわいそうだと思ってみたところで、思いどおりに助けとおすことなどかなうはずもないのだから、つまるところ、この慈悲はまっとうすることのできないものだ、と。自力聖道門の活動は、皇族や公家、上級武士などの上層階級のための加持祈禱にのみ終始していたとは申せません。自力聖道門の僧侶たちのなかには、下層の貧民たちを救済するための活動に身を投ずる者が多数おりました。たとえば、本セミナーの第3回でご紹介した、律宗の僧忍性(にんしょう)のような人です。忍性は、親鸞が浄土門の教えを布教し多数の門徒を得た常陸国で、貧民や癩病者を助ける慈善活動に全力を傾注しました。忍性のような、いわゆる慈善僧の存在とその活動とを、親鸞は、けっして否定してはいなかったでしょう。それが、一人ひとりの民を助け、そして救うという意味で、仏法に言う慈悲を具現していることを、親鸞は率直に認めていたものと思われます。しかしながら、それでもやはり、自力聖道門の慈悲は徹底したものにはなりえない、と親鸞は言います。個別的な救済、すなわち、一人ひとりを個々に助けていこうとする慈悲は、どう見ても、衆生全体にはおよびえない、と考えたからです。個別的な救済活動をひとりないしは数人の僧侶が、あたうかぎり広範囲にくりひろげてみても、そこから漏れ落ちてしまう貧者や窮者がでてくることは、いかように考えてみても否定できない事実だと申せましょう。僧侶の個人的な活動には、たとえそれが仏法の根本精神を体現するものだとしても、おのずからに限界があるということです。親鸞は、何としてもその限界を超えたい、と考えました。そのためには、阿弥陀如来の本願力というものを、人智を絶した絶対の権能として想定しなければなりませんでした。阿弥陀如来の本願力は、「南無阿弥陀仏」という口称の念仏として具体化されます。それは、他力浄土門においてこそ、日常生活のただなかでの実践が可能かつ容易になるものにほかなりませんでした。

 それゆえに、親鸞は語ります。他力浄土門の慈悲とは南無阿弥陀仏ととなえてすみやかに仏となり(その際、自我は消去されて無我となっていることでしょう)、弥陀の大慈悲心を受けとりつつこの現実世界へと戻ってきて、思うがままに衆生を阿弥陀如来の恩沢に浴せしめることを言うのだ、と。念仏をとなえてすみやかに仏になるということは、往相回向を意味しているのでしょう。すると、思うがままに衆生を如来の恩沢に浴せしめるということは、還相回向のことと考えられます。つまり、『歎異抄』第四条の親鸞は、他力浄土門の慈悲とは往相還相二種回向を果たすことにほかならない、と言っているのです。『教行信証』の信巻において、親鸞は、自利(願作仏心)がそのまま利他(度衆生心)となり、利他がそのまま自利になるということ、すなわち、「自利即利他、利他即自利」という境位を強調しました。この境位は、『歎異抄』第四条において、「往相即還相、還相即往相」という形で、よりいっそう具体的に示されている、と思われます。わたくしどもは、みずからが、存在論的絶対悪としての根源悪(これについては、本セミナーの前回の論考を参照してください)をになうがゆえに決定的に無力であり、したがって、何事もなしえない、などと思ってはならないのです。親鸞は、そのように無力でしかありえないはずのわたくしどもが、弥陀の本願力に与かりながら、還相でもありうるところの往相を、そして往相でもありうるところの還相を踏み行いうる可能性のうちに、万人救済に向けての大きな希望を託しているのではないか、とわたくしは考えます。

 ただし、「往相即還相、還相即往相」ということが説かれているとしても、そこで言われる「即」は、単なる等号(イコール)の意味ではありません。それは、田辺元(たなべはじめ)の『懺悔道としての哲学』が主張するように、「転換媒介」の謂(いい)ではないかと思われます。往相は無媒介に還相に直結しているのではなく、また、還相が無媒介に往相と等しいと言うのでもなくて、何ものかに媒介されて両者は相通じているということではないでしょうか。田辺元は、媒介する何ものかを具体的に説明しようとはしていませんが、わたくしは、それは人間の精神ではないか、と考えます。往相は人間の精神に媒介されて、そのまま還相へと転化し、還相はやはり人間の精神に媒介されてただちに往相へと転化する。親鸞は、そのように考えていたものと推察されます。

 わたくし自身を例にとって、具体的に考察してみましょう。わたくしは、これまで、自分の哲学研究、わけても仏法の研究を推し進めるという形で、往相の途(みち)を歩んできたと思います。いささかおこがましい物言いになることをおそれずに言えば、それは、哲学や仏法について語る教育の現場で、学生たちへの還相となったはずです。しかし、事は、それだけで終わったわけではありません。学生たちへの還相は、彼ら、彼女らを往相へと導くと同時に、わたくし自身にもはね返ってきて、わたくしがさらなる往相へと向かう契機になったにちがいありません。このような、往相と還相とが相互に絡み合いながら進行してゆく、教育という日常の具体的場面において、往相と還相とは、互いに他に対して媒介関係にあり、しかも、そのような媒介の基体となっているのは、学生たちやわたくしの精神にほかならない、と考えられます。

 以上の考察によって、『歎異抄』第四条の親鸞が強調する慈悲は、「往相即還相、還相即往相」という構図のもとに、その相貌をあらわにするものであった、と推断することができます。往相回向も還相回向も、ともに自力の営みではありえないこと、すなわち、それらは阿弥陀如来の本願力を唯一の発起点とする他力の営みにほかならないことについては、重々注意を払う必要があります。けれども、このことは、慈悲の実践に関して、そこにまったく人間の精神が介在していないことを意味するわけではありません。人間の精神は、阿弥陀如来の本願力によって裏づけられています。それは、親鸞の論脈を虚心に追思するかぎり、けっして否定できない事実です。しかしながら、阿弥陀如来の権能がどれほどに偉大ですぐれたものであろうとも、慈悲が踏み行われる、まさにその刹那において、ほんのわずかばかり、微粒子ほどの人間の自発性がはたらかないとすれば、上に掲げた構図の起発点としての往相回向は、可能にはなりえないのではないでしょうか。もとより、浄土門の論理に依拠するならば、こうした、ほんのわずかばかりの人間の自発性ですらも、絶対他力のはたらきをその背後に置いているであろうことは、否定すべくもありません。ですが、万事、万行が例外なしに弥陀のはからいのもとに成るとしても、そのはからいにしたがいたいという念慮が、わたくしどもの心の奥底にかすかにではあるにせよ生起しないかぎり、慈悲を日常生活のなかで実践に移すことは、きわめて困難になると言わざるをえないのではないでしょうか。そして、こうした自発性のかすかなる生起、発動が、やがて万人救済への博愛的志向性となって、わたくしどもの心を強く動かすにいたるのではないか、と思われます。絶対他力とは、親鸞思想を近代の視点からとらえ直すために編みだされた概念であり、これに引きずられて親鸞思想には一片の自発性もみとめられないと断ずるのは、すくなくともわたくしにはかなり危険な物言いのように見えてしまいます。さて、親鸞の慈悲の思想は、いかなる形で博愛主義的な志向性を示すにいたるのか。つぎに、『歎異抄』第五条を手がかりとして、この問題を考えてみましょう。

 

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 以下は、『歎異抄』第五条の全文です。

 

親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまださふらはず。そのゆゑは、いつさいの有情(うじょう)は、皆もつて、世々生々(せぜしょうじょう)の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生(じゅんじしょう)に、仏になりて、たすけ候ふべきなり。わが力にて励む善にても候はばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけ候はめ。ただ、自力を捨てて、いそぎ浄土のさとりを開きなば、六道(ろくどう)・四生(ししょう)の間、いづれの業苦(ごうく)に沈めりとも、神通(じんづう)・方便をもつて、まづ、有縁(うえん)を度すべきなり、と云々。

 

 「父母の孝養」とは、亡き父母に対する追善供養のことです。親鸞は、ここで、このような追善供養の念仏を、自分はたった一遍さえもとなえたおぼえはない、と断言しています。いまだかつて一度もないと言うのですから、そうとうな確信と覚悟をもってのことでしょう。親鸞の時代には、武家の台頭にともなう家父長制度の確立と相まって、一族の団結を強化する目的のもとに、追善供養の念仏をとなえる風習が盛んになっていたようです。親鸞は、このような追善供養が常態化すれば、念仏が世俗的な目的を達成するための単なる手段となってしまいかねないことを、鋭く見ぬいていました。信心の立ち現われる「場所」(コーラー)としての念仏(この点については、本セミナーの第2回の論考をご参照ください)が、それ自身以外の別の目的のためのただの手立てになってしまうというような事態は、親鸞にとって、けっしてあってはならないことでした。

 道綽、善導以来の浄土門の伝統のなかで、念仏とは、南無阿弥陀仏、あるいは、帰命無量寿如来、帰命尽十方無碍光如来などと、口でとなえること、ととらえられてきました。もし、それをとなえる者が、阿弥陀如来の超越的で絶対的な権能によって何事かを実現してほしいと望んでいるのだとすれば、念仏は人間の欲望を実現させるための呪文となってしまいます。病気を治してもらいたいから南無阿弥陀仏ととなえる、もしくは、お金がほしいからそれをとなえるということになると、南無阿弥陀仏とは、弥陀と人間とのあいだの取り引きの手段と化してしまうのです。

 しかしながら、親鸞は、『教行信証』行巻の自釈文において、南無阿弥陀仏の「南無」とは「帰命」の意であり、「『帰命』は本願招喚の勅命」であると述べています。つまり、「南無」ととなえることは、人間の側が自発的ないし主体的に弥陀に帰依することではなく、帰命せよ、帰依せよという弥陀じきじきの勅命に受動的に服すること、すなわち、その勅命を素直に身に受けることなのです。「阿弥陀仏」が仏の名であることは論じるまでもありません。しかし、それはただの名前にとどまるものではなく、阿弥陀仏の本体、すなわち阿弥陀仏そのものの謂(いい)です。厳密な言いかたをするならば、「南無」という招喚の勅命を発した阿弥陀仏そのものが、「阿弥陀仏」というとなえ言(ごと)のただなかに立ち現れている、ということです。したがって、わたくしどもが「南無阿弥陀仏」という声を発するときには、わたくしども自身の耳にもとどくその声そのものが阿弥陀仏にほかならない、と言わなければなりません。ならば、念仏は、欲望を実現するための一つの手段としての呪文などではありえません。念仏とは、それをとなえる者が弥陀の本願のはたらきそのものに密着し、ひいては弥陀と一体化することであって、いわば、「目的」それ自体である。親鸞は、そのように考えたのだと思われます。そうであるがゆえに、彼は、念仏を追善供養のための道具的手段とするような心の在りようを、浄土門の真に意図するところからの逸脱として、厳しく批判しているのでありましょう。

 ただし、ここでわたくしどもが見誤ってはならないことがあります。親鸞は、父母への孝行ということを悪しきふるまいとして否定しているわけではないという点です。そもそも、仏法は、親など無視してよいとか、どうなってもかまわないと説くような、反道徳的かつ反倫理的な宗教ではありません。たしかに、仏法は、世俗(俗諦(ぞくたい))の世界よりもむしろ理念(真諦(しんたい))の世界に、真実を、すなわち日常道徳や日常倫理を超えた真理を見いだそうとする教法であり、その点を強調するならば、俗諦にとらわれないという意味で、非道徳的、非倫理的ではあります。けれども、「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意」という考えかたを押し立てるのが、仏法の基本的な在りようです。そのような在りようを示す仏法が、日常道徳、日常倫理を、根本から全面的に否定するとは考えられません。一見おかしな物言いに映るかもしれませんが、仏法は、いったん日常道徳、日常倫理に立ったうえで、さらに日常を超えた理念(真諦)の世界をまなざすものだ、と言うべきでしょう。釈尊以来の仏法の伝統を重んじる親鸞が、日常道徳、日常倫理をないがしろにするということは、ありえないことだと断じてよいでしょう。親鸞は、孝行ないし孝道を大切にする人々をけっして否定したりはしなかった、と考えられます。蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)師は、『歎異鈔講話』において、『歎異抄』第五条の主題を、孝行ないし孝道の問題ととらえています。仏法の伝統を踏まえつつ、親鸞の道徳観、倫理観を考慮するならば、師の解釈を見当ちがいときめつけることはできないのではないか、と思われます。

 ですが、親鸞は、孝行、孝道を否定しないものの、それを超えたところに、仏法者にとってさらにいっそう重要なものがある、と考えています。そのことは、自分が父母の孝養のために念仏をとなえない理由を述べた、『歎異抄』第五条の一節を読むことによって、あきらかにすることができます。親鸞は、およそつぎのように語っています。

 

(わたしが父母の孝養のために念仏をとなえないのは)なぜかと言えば、すべての生き物は、この世にいくたびも生まれ変わるあいだに、互いに親となり兄弟となり合ってきたのであり、次の生(しょう)において、自分が仏(ぶつ)となって救うべき対象だから(現生の親だけを特別視してはならないから)である。

 

 ここには、すべての生き物は、六道、すなわち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天を生き変わり死に変わることを永劫の過去から絶え間なしにくりかえしてきたのだという、いわゆる「輪廻説(りんねせつ)」が打ちだされています。一般には、親鸞は輪廻説を説かなかった、と言われています。釈尊の仏法を重んじていた親鸞としては、当然の態度のように見うけられます。もし、輪廻を説くとすれば、ごくあたりまえのことですが、いったい何ものが生き変わり死に変わりするのかが、問題になってまいります。魂(たましい)なる霊的実体が輪廻すると考えるほかないでしょう。けれども、釈尊は、「諸法無我」を説きました。この世界のすべての事物は、主我主体をもたない、つまり、無自性であって実体性がない、と言うのです。であるならば、この世には、魂などという霊的実体は存在せず、したがって、魂の生まれ変わり、死に変わりとしての輪廻など、絶対に起こりえないことになります。釈尊が輪廻を説くというような事態を想定することは、根本的にまちがっていると言うしかありません。

 しかしながら、インドの土着思想の影響を受けてのことでしょうか、大乗仏教は、輪廻説を展開します。六道輪廻の思想は、大乗仏教がまさに大乗たるゆえんを示しているといっても、過言ではないでしょう。本セミナーの第1回目の論考において論じたように、大乗仏教は、慈悲の思想を説くことを主眼とする仏教宗派です。慈悲の思想は、輪廻説と組み合わされることによって、その本来の相貌をきわだたせます。輪廻を宿命とする有情をして、それを断滅せしめることこそが、大乗仏教に言う慈悲にほかならないのです。慈悲の思想の広汎な展開をめざすかぎり、大乗仏教は、どうしても、輪廻説と否定的な関係性のもとに結びつかざるをえなかったのだ、と申せましょう。親鸞は、浄土門と聖道門とを峻別しつつも、浄土門が龍樹(ナーガールジュナ)以来の大乗の流れのなかに位置することを、『教行信証』行巻末尾の「正信念仏偈」などにおいて強調しています。したがって、親鸞は、一見すると輪廻説から距離を置くかに見えて、実は、それをみずからの教説のなかにとりこんでいるのではないか、と推察されます。

 『教行信証』の方便化身土巻において、親鸞は、法琳(ほうりん)撰述の『弁正論』を引用しています。その引用のなかには、つぎのような一節があります。

 

仏経にのたまはく、「識体六趣に輪廻す、父母にあらざるなし。生死、三界に変易(へんやく)す、たれか怨親を弁(わきま)へん」と。

 

ここで言う、「仏経」がどのような経典を指しているのか、わたくしにはわかりません。しかし、すくなくとも『弁正論』が六道輪廻という考えかたに言及していることだけはたしかです。注目すべきは、ここでは、輪廻する基体が単純に魂と解されるのではなく、わざわざ「識体」と名指されている点です。ここで言う「仏経」の編者は、釈尊の仏法の根幹をなす「諸法無我」という教説が輪廻説と相いれないことについて、きわめて自覚的であったものと思われます。親鸞も、この点をおろそかにしていたわけではなかったでしょう。「識体」が何を指すのかは、厳密には不明としか申せませんが、「心の奥底の何ものか」なのではないか、と考えられます。それは、いわゆる「八識」のなかの根本識とも言うべき「阿頼耶識」(アーラヤシキ)のことかもしれない、とわたくしは推測しています。ですが、いまは、唯識説について詳細に論ずるいとまも用意もありませんので、この点に深いりすることは避けたいと思います。ともあれ、このような『弁正論』からの引用がある以上、親鸞は、はたして何ものが輪廻するのかという疑問をいだきながらも、みずからの思想のなかに輪廻説を取りいれていたもの、と考えられます。主著『教行信証』は、経典、および論、釈からの引用をちりばめること、つまり引用文をして語らしめることによって、親鸞自身の思想をつむきだすという形をとる論著ですから、この推察はけっして失当ではないはずです。

 『弁正論』所引の「仏経」は、「識体」は六趣(六道)に輪廻するのだから、すべての生き物がいずれかの生(しょう)において自分の父母であった可能性がある、と述べています。この「仏経」と同様に、『歎異抄』第五条の親鸞は、すべての生き物は輪廻の世界を経巡(へめぐ)っているのだから、いずれかの生(しょう)において、自分の父母、兄弟であったと考えるべきである、と語っています。親鸞は、さらに言います。だれもかれもみな有縁(うえん)のものなのだから、次の生(しょう)において、自分が仏(ぶつ)となって助けなければならない、と。ここでは、現生(げんしょう)の父母のみを有縁と考えて、彼らの追善供養さえしていればそれで十分だという態度が、きっぱりとしりぞけられています。親鸞の輪廻説は、ここで、鮮明に博愛主義をうったえている、と申せましょう。その博愛主義の原点が慈悲の思想のうちに存することは、どのような角度から見ても疑いえない、と思います。『歎異抄』第四条において、慈悲の思想が、自力聖道門ではなく、他力浄土門のなかでこそ広汎に展開されうることを強調した親鸞は、ひきつづき、この第五条では、慈悲が自分の周辺にのみ差しむけられるにとどまるようなものであってはならないこと、換言すれば、慈悲は万人に対する博愛となってゆかなければならないことを力強く説いているのだ、と解せられます。

 『歎異抄』第五条の親鸞は、追い継いで、こう語ります。念仏が自力で励む行であるのなら、念仏をとなえて父母を助けることもできよう、しかし、念仏は弥陀にとなえさせていただく他力の行なのだから、それはとうてい無理というものだ、と。親鸞が念仏を一貫して他力の営みととらえていたことは、ことあらためて論ずるまでもないことです。ただし、ここでは、他力の念仏と、博愛へとつながる慈悲の思想とが緊密に結び合わされています。念仏は、加持祈禱に用いる道具でもなければ、世俗的な欲望を実現するための手段でもない、それは、万人に対する弥陀の悲憐(ひれん)の想いをわが身に受けいただくことなのだ。親鸞は、そう語っていると見てもよいでしょう。弥陀から、非憐の想い、すなわち大慈悲心を頂戴するということは、往相還相二種回向を貫きとおすことにほかならない。『歎異抄』第五条では、そのことがあきらかにされていると考えることも可能でしょう。その意味において、第五条は独立した一条と言うよりも、むしろ、第四条と連れ立って、互いに補い合いながら慈悲の思想を語っていると言えます。つまり、第五条を第四条から切り離してとらえることも、その逆もともに不可能です。両条は、相互に支え合うことをとおして、親鸞の慈悲の思想をきわだたせている、と申せましょう。親鸞にあっては、慈悲の思想は、往相還相二種回向として具体化されています。したがって、第五条は、第四条で説かれた往相還相二種回向の主張をさらにいっそう深めてゆく役割をになっていると言ってもよいでしょう。このことは、『歎異抄』の「大切の証文ども」、すなわち親鸞語録を構成する各条(第一条から第十条まで)を、それぞれ別個の断片としてとらえる通常の読みかたが、かならずしも当を得たものではないことを示しています。

 

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 このように、『歎異抄』の第四条および第五条に示された慈悲の思想、すなわち往相還相二種回向の思想について、その内実を探ってみると、わたくしどもは、みずからにつきまとう存在論的絶対悪をかこって、無力なる自分たちには他者のためになしうることなど何一つとしてないなどと、諦めきっていてはならないことがわかります。わたくしどもは、みずからが念仏によって浄土に往生して仏(ぶつ)となり、そこからただちに現世へと還帰して、いまだに救われていない人々を、念仏の世界へと救い誘(いざな)わなければならないのです。わたくしどもに求められるこうしたふるまいが、本質的に弥陀の願力に根ざすもの、言いかえれば他力に基づくものであることは、既述のごとく、「正信念仏偈」において親鸞が「往還の回向は他力に由る」とうたっているのを見れば、ほとんど自明のことと言うべきでしょう。しかしながら、わたくしどもが、もし、他力を先験的(ア・プリオリ)に自分たちに与えられた態様と解するとすれば、それは、まったくの誤解であると言わざるをえません。

 親鸞は、『教行信証』方便化身土巻のなかで、一般に「三願転入(さんがんてんにゅう)」と呼ばれる、みずからの信仰体験を告白しています。詳細は別の機会に譲って、ごく簡単に説明しますと、それは、およそつぎのような体験です。親鸞がみずから語るところによれば、彼は、最初は「万行諸善(まんぎょうしょぜん)の仮門(けもん)」のなかにあったが、やがて、「善本徳本(ぜんぽんとくほん)の真門(しんもん)」のうちに転入し、さらに、「選択(せんじゃく)の願海(がんかい)」に入った、と言うのです。要するに、親鸞の精神は、はじめは、自力の善根を積み重ねてさとりを得ようと意志する、『無量寿経』の第十九願の立場にあったが、やがて、自力の念仏によって往生を遂げようとする第二十願の立場へと移り、最後にようやく、弥陀から信心を賜わったうえで念仏する(そして往生せしめられる)という第十八願へと転入したということです。

 三願転入の時節をめぐっては、諸説が交錯しているようですが、わたくしはこう考えます。親鸞は、9歳のときに天台教団の門をくぐってのち、おそらく10年近くものあいだ、天台の自力作善の修行に邁進していたことでしょう。彼は、そのころのことを指して、自分は当初第十九願の立場に立っていたと言っているのであろうと思います。その後、親鸞は、横川常行三昧堂の堂僧として不断念仏に勤仕するようになりました。彼は、いわゆる天台浄土教を旨とすることになったのです。このときのことを念頭に置いて、親鸞は、自分は第二十願の立場へと移行したと言っているのでしょう。親鸞は29歳のときに、叡山を降って、念仏一筋に生きる法然の門に入りました。彼は、この段階で、自分は第十八願の立場への転入を果たしたとしているというのが、わたくしの解釈です。

 この解釈に立つならば、親鸞は、若き日に、自力に自力を重ねて悪戦苦闘し、結局のところ、その内面での戦いに敗れ去ったのだ、と考えられます。敗れ去ることによって、つまりは、決定的とも言うべき挫折を経たのちに、彼は法然の膝下で他力の救いを見いだしたのではなかったでしょうか。だとすれば、親鸞の言う他力とは、最初からすでにわたくしどもがそのように在る態様などではなく、わたくしどもが自力をきわめ尽くした果ての挫折を介して獲得する境地にほかならなかった、と考えられます。親鸞が、「往還の回向は他力に由る」とうたう場合にも、それはあてはまると思います。往相回向も還相回向も、最終的には他力のはたらき、つまり弥陀の本願力に依拠するのでしょうが、それらが現実に動き出す起発点は、自力の行ではないかと考えられるのです。わたくしどもは、自力の往還回向にゆきづまった果てに、他力の往還回向を求める。それこそが、親鸞の往相還相二種回向の思想、すなわち慈悲の思想の根柢をなす考えかたであった、とわたくしは解します。

 ただし、自力と他力との関係をいかようにとらえるにしても、親鸞の往相還相二種回向については、どうしても見すごすことのできない問題が生じてまいります。すでにこの論考でも述べたように、「自利即利他、利他即自利」という発想をもつ親鸞は、往相還相二種回向に関しても、「往相即還相、還相即往相」という視点に立っていたものだと解せられます。しかしながら、そうであったとしても、親鸞においては、往相回向が還相回向に対して時間的に先行すると見られていることは否定すべくもありません。とするならば、往相回向の終着点、つまり臨終後に還相回向が発起せしめられるというのが、親鸞の基本認識であったことは疑いえないと思われます。ただ単にことばのうえの問題として、言いかえれば現実性を念慮のうちにいれずに、往還二種回向をとらえるだけのことであるならば、それで別段何の問題も生じないかもしれません。しかし、わたくしどもが、現代人の実際的観点から親鸞のこの基本認識を見た場合、そこには、異常な事態が含意されていると言わざるをえなくなってまいります。臨終後の還相回向とは、いったん浄土に往った人間が、もう一度現生(げんしょう)に帰ってくることを意味しています。すくなくとも、常識の許す範囲にとどまるかぎりにおいて、わたくしどもは、そのようなことを実際に生起する事態として認めるわけにはまいりません。すでに死んでしまった人間が、著作やあるいは生きている者の記憶をとおして現実にはたらきかけるということの譬喩なのかとも思われますが、それにしては親鸞の思索は大仕掛けにすぎるとの印象をぬぐえません。わたくしども現代人は、おそらくこう考えます。実際に浄土に往ってまた現世に戻ってきた人間などどこにもいはしない、還相回向を云々することは、単なる迷妄にすぎないのではあるまいか、と。

 わたくしどものこうした疑念は、還相回向に対してのみならず、往相回向にも差しむけられることでしょう。往相回向によって、自分たちが、この現実世界を超えた、実体としての別世界(浄土)に到達するなどということがありうるのか、そもそも別世界(浄土)などほんとうに実在しているのか。わたくしどもは、神秘主義者でもないかぎり、どうしても、そのように問わざるをえないはずです。わたくしども現代人は、黄金の蓮華のうえに真金色の無限大の仏(ぶつ)が鎮座するというような、実体としての浄土の存在を、何の批判もなく無条件に信じることはできないでしょう。それを真っ向から否認する現代自然科学に依拠するがゆえではかならずしもありません。実人生において、実際に、この世界とはまったく別次元の世界を目のあたりにした体験がないという事実が、わたくしどもにそういう疑いの気持ちをいだかせるのです。これは、浄土についてのごく単純な実在論に対する疑いだと言いかえてもよいでしょう。親鸞の浄土論は、この疑念を晴らすことができるような明快な論理を有しているのでしょうか。かくて、慈悲の思想、すなわち往相還相二種回向の思想は、親鸞の浄土論とのあいだに密接な関わりをもつことになります。親鸞は、浄土をいかにとらえていたのか、彼にとって、浄土は実体としての一個の世界だったのか、それとも非実体的な何か、たとえば浄化のはたらきのようなものだったのか。親鸞思想の根幹、彼の本真(ほんしん)の思想像に迫ろうと意図する本セミナーでは、最終的にそのことを考えなければならなくなるもの、と予想されます。そのことを問い、そして何らかの答えを見いだすことができないとすれば、結局のところ、わたくしの親鸞論は、明確な結論を得ないただの戯論(けろん)にすぎなかったことになってしまうでしょう。

 しかし、わたくしは、親鸞が浄土をいかにとらえていたかというもっとも肝要な問題を考究する前に、もう1つの別の問題を問うておきたいと思います。「宿業」と「自由」との関係をどのように解するべきかという問題が、それです。『歎異抄』の親鸞は、一方で、すべては宿業によって雁字がらめに縛りつけられている、と説きます。ところが、親鸞は、他方において、念仏者は何ものかにもとらわれず、絶対的とも言うべき自由の境地に立つ、と主張しています。つまり、親鸞は、宿業の因果決定的必然性を強調しつつ、同時に、透徹した自由を求める論理を展開しているわけですが、はたしてそのような一見矛盾に満ちた論理が妥当なものとして成り立ちうるのかどうか。これは、親鸞思想の論脈を整合的に跡づけるためには、どうしても避けてとおることのできない問題です。次回以下の論考では、この問題への応答を探ったうえで、さらに、親鸞自身の浄土論についての考察へと歩を進めてゆきたいと思います。

                                                      (2023年3月22日稿)

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

親鸞聖人御誕生850年および立教開宗800年を記念した前進座特別公演「花こぶし」の水戸公演が2月に行われます。

詳細は左端の「お知らせ」タブより「行事日程と工事予定」をご覧ください。

(2024.1.11)

 

「除夜の鐘」をつきます。23:50~01:00頃。ご参拝ください。   (2023.12.31)

⇒ご参加・ご参拝ありがとうご

 ざいました。(2023.01.1)

 

2023年度の新米が入荷しました。今年の新米も昨年同様ローズドール賞(最優秀賞)を受賞した新品種「ゆうだい21」です。詳細は左端のタブ「庵田米の販売について」をご覧ください。    (2023.10.20)

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第5回】     

「慈悲の思想」をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

         (2023.7.15)

 

「市民大学講座」7月16日開催します。ご講師は伊藤益先生です。詳細は左端のタブ「公開講座・Seminar のご案内」をご覧ください。4年ぶりの開催ですので、ご参加をお待ちしています。(2023.5.29)

⇒約70名の受講者の方のご参加を得て、質疑応答で40分の延長の後、無事に終了しました。35度にもなる酷暑の中、駅から往復3km を歩いて参加され方々もありました。皆様、ご参加ありがとうございました。そし て、お疲れさまでした。 

       (2023.7.18)        

 机に向かい静かに目を閉じると、想いは6年前に訪れたキエフ〔キーウ〕に飛ぶ。ホーチミン経由のベトナム航空でモスクワに着いた私は、その足で駅に向かい、翌日の夜行列車を予約したのだった。

 

 首都キエフは、ロシア正教会(今はウクライナ正教会)の建物が夕日に輝く美しい都市だった。十字架を抱えたキエフ大公ウラディミル1世がドニエプル川を見下ろし、独立広場にはウクライナ国旗とEU旗が記念塔を取り囲んでいた(大学の授業で配信した動画の一部をUPします)。

 

  モスクワからキエフまでは夜行で一晩、1時間ごとに寝台列車が出ている。乗車当日その場でキップも買える。「母がウクライナの出身なんだ」と話していた初老のロシア人男性。両国に親戚がいる人々も多い。その国に攻め込むとは…刻々と届く映像を見ていて涙が止まらない。


 事態を予想しなかったと話す識者も多い。フィンランド侵攻(1939)・ハンガリー事件(56)・チェコスロヴァキア事件(68)と繰り返された暴力。必ずキエフまで侵攻すると私は確信していた。なぜ事前に米軍やNATO軍を緊急展開させなかったのか。抑止力となったはずだ。腰の引けた指導者たちの宥和政策が、ヒトラーの勢力拡大を可能にしたことを思い出す。


 キエフではミンスク(ベラルーシの首都)行きの寝台列車の切符が買える。チェルノブイリの側を抜けた列車は、翌朝にはミンスクに着いた。そのベラルーシでは、一昨年にはルカシェンコ政権に対する激しい民主化要求デモが続いた。ロシアでも反戦デモが続いているようだ。ナショナリズムに染まらないロシア人の知性に、僅かな光明を見る思いがする。

      (2022.2.26)

《追伸》
  十数年前のロシア航空、隣に座ったチェコ人青年の言葉が思い出される。チェコ解体(1939)と「プラハの春」弾圧(68)を経験した彼らの言葉は重い。 
  Russia is more dangerous

  than Germany.


 自国の権益と安全保障を要求して一方的に他国に攻め込む姿勢は、満蒙特殊権益を死守しようとした80年前の日本と重なる。欧米諸国による圧迫やウクライナの性急な親欧姿勢が攻撃を誘発したとする言説も聞かれるが、それは米国による包囲網が日本を追い込み開戦に至らしめたとして、日本の侵略行為を矮小化しようとするのと同じである。        (2022.5.5)

 

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。