1
以下に掲げるのは、『歎異抄』第二条の前半部分です。
おのおのの、十余ヵ国の境を越えて、身命(しんみょう)をかへりみずして、たづねき たらしめ給ふ御こころざし、ひとへに、往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに、念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また、法文(ほうもん)等をも知りたるらんと、こころにくく思(おぼ)しめしておはしまして侍(はんべ)らんは、大きなる誤りなり。もししからば、南都北嶺(なんとほくれい)にも、ゆゆしき学匠(がくしょう)たち多くおはせられて候ふなれば、かの人にもあひたてまつりて、往生の要、よくよく聞かるべきなり。親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられ参らすべしと、よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに、浄土に生(むま)るるたねにてや侍るらん、また、地獄におつべき業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり。たとひ、法然聖人にすかされ参らせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行も励みて仏(ぶつ)になるべかりける身が、念仏を申して地獄におちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ、いづれの行もおよびがたき身なれば、とても、地獄は、一定(いちじょう)、すみかぞかし。
十余ヵ国の境を越えて、京都の親鸞のもとにやって来たのは、常陸国(ひたちのくに)をはじめとする関東の門弟たちにちがいありません。「おのおのの」とありますから、当然一人ではありえませんが、かと言って、何十人もが大挙して上京したとは考えられません。当時の旅宿や交通の事情などを勘案するならば、五、六人か、せいぜい十人くらいのものだったと見るのが穏当なところでしょう。彼らの上京の目的は、当面の『歎異抄』第二条の文面から、容易に推察されます。親鸞が、「みなさんは、わたしが念仏以外の往生の方法を知っており、また、特別な法文などをも知っていると思っておられるようですが、それはとんでもない誤りです」と語っているのを見ると、彼らは、親鸞が長男善鸞とのあいだの親子の関係を断ち切った、いわゆる「善鸞義絶事件」の直後に、親鸞のもとを訪れたものと考えられます。と申しますのも、現存する親鸞の善鸞宛ての義絶状によれば、関東に派遣された善鸞は、自分は師父親鸞から秘密の法文を授けられた、これを知らなければ浄土真宗の奥義はわからない、という虚言を弄しており、それに惑わされた門弟たちが、是非ともその秘伝の法文を知りたいと望んだのではなかったか、と推測されるからです。
また、親鸞が、「念仏は、浄土に生まれる原因となるのか、それとも地獄に堕ちる業となるのか、わたしにはいずれとも判断がつかない」と語るのは、当時関東で教線を拡張しつつあった日蓮を意識してのことではなかったか、と思われます。日蓮は、世に言う「四箇(しか)の格言」を掲げて、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と述べていました。専修念仏の教えを信じる者は無間地獄に堕ち、禅宗は天魔の仕わざであり、真言宗は亡国を招き、律宗を奉ずる者は国賊だ、と言うのです。これに対して、親鸞は、「わたしとしては、たとえ法然聖人にだまされ申して、地獄に堕ちたとしても何の後悔もしない。どうせ、念仏以外のいかなる修行にも耐えられない身のうえなのだから」と語っています。85歳前後とおぼしい親鸞は、師法然の没年(80歳)を超える年齡を迎えてもなお、師への絶対的随順の姿勢をくずさず、日蓮のおどしにも似た非難にけっして動じはしなかったということです。
親鸞の和文による著述は、善鸞義絶事件を契機として、一挙にその数を増していったようです。あまたの和讃や、『唯信鈔文意』、『一念多念文意』などが、このころに書かれたものと推定されます。親鸞は、真の浄土宗たる浄土真宗の根本義を、関東の門弟や門徒たちに知らしめるべき必要性を、事件を機としてあらためて痛感したのでしょう。その意味で、善鸞義絶事件は、親鸞にとって、決定的なまでに重大な画期となったできごとでした。この事件が、親鸞の心の奥底に深い哀しみをもたらしたことは、否定しようもありません。善鸞への義絶状のなかで、親鸞は、つぎのように述べています。
親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一つなり。このことどもつたへきくこと、あさましさ申すかぎりなければ、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。三宝・神明(しんめい)に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。
このような哀しい事件が、なぜ起こってしまったのか。それを解くことは、親鸞最晩年の著作や、『歎異抄』などの親鸞関係の文書を考究するうえで、かなり重要になってくることでしょう。しかし、それを解明するためには、当面の事件の詳細のみならず、親鸞がいかような人生を歩んだのかを、全体的に俯瞰しておくことが肝要になってまいります。
2
親鸞。この名を知らない日本人は、いまはごくまれなのではないでしょうか。そのとらえかたが全面的に正しいかどうかは疑問の残るところではありますが、現代の多くの日本人は、親鸞という名を、「浄土真宗」の開祖のそれとして、記憶のうちに刻みつけていることでしょう。ところが、大半の人々が知っており、いまさら論ずるまでもないであろうと考えて、親鸞の生涯を跡づけようとしてみると、だれしもみな、途端に挫折を余儀なくされてしまいます。親鸞の人生を緻密に跡づける精確な史料は、現段階ではほとんど見あたらないからです。わけても、その少青年期は、謎につつまれています。覚如の『御伝鈔』(『親鸞伝絵』)や「日野氏系図」、あるいは『恵信尼文書』などの文献に信頼を置くならば、その少青年期をある程度の確度をもって再現することも、あながち不可能ではないかもしれません。けれども、若き日の親鸞について、わたくしどもが何ごとかを確言するには、あまりにも史料が少なすぎるように思われます。
浄土真宗という宗門の末端につらなる僧侶たちは、法事などの折に、檀信徒にむかって、こう語ることが多いようです。「お聖人さまは、4歳で父を、8歳で母を亡くされ、幼くして、この世は咲いてほどなく散りゆく桜の花のごとくにはかないものだという無常感をいだき、9歳で出家された」と。しかしながら、これは、史実をまったく踏まえていない点で、さらには、親鸞が生涯にわたって忌避しつづけた、美的感性(感傷)をいたずらに刺激する詠嘆的無常美感を前面に押し立てている点で、かぎりなく虚言に近い言説であると言うべきでしょう。親鸞の母がだれであり、彼女がどのように生きて、いつ亡くなったのかということは、文献に依拠するかぎり、まったく不明であると言うしかありません。けれども、父親が、藤原氏の末流に位置づけられる日野家の出で、有範(ありのり)という名であったこと、そして、有範には、範綱(のりつな)、宗業(むねなり)という二人の兄がいたこと、さらには、有範が親鸞の中年期にいたるまで存命であったことは、文献によって検証することが十分に可能です。
ただし、先の世界大戦(アジア・太平洋戦争)後に、親鸞の伝記的研究を主導した政治的左派の研究者たちは、親鸞の父を日野有範とすることに対しては、総じて批判的でした。階級史観に立つ彼らは、親鸞と漁猟民や農民との深いつながりを強調し、親鸞を、社会改革を志向する社会的ないし革命的な宗教者、思想家として、史上に位置づけようとしました。そのような彼らにとって、親鸞が、血脈にかぎってのこととは言え、藤原貴族の末流につながることなどあってはならないことでした。他方に、父親の早期死亡説を固守する古めかしい旧説が生き残っていたことを勘案するならば、親鸞についての伝記的研究は、大戦後しばらくのあいだ、混沌とした情況にあったと言っても、けっして過言ではないでしょう。しかし、その後の文献史学に足場を据えた堅実な研究者たちの研究によって、この混沌情況は、少しずつ整序され、徐々に、史実に近い親鸞像が浮き彫りにされてゆきました。
そうした新しい研究に依拠するならば、親鸞が承安3(1173)年に、日野有範の息男として、京都は日野の里に生をうけたことは確かだと申せましょう。また数え年で9歳のとき(1181年)に、青蓮院の慈円のもとで出家したことも、事実と考えられます。この出家は、幼い親鸞が詠嘆的無常美感に心を動かされて仏道を志したことを機縁とするものなどではありませんでした。それは、政治的情況に左右された面が大きかったようです。すなわち、親鸞出家の前年(1180年)、後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)が、源頼政(みなもとのよりまさ)や三井寺などと結んで、平氏打倒の叛乱を起こしました。これを、史上「以仁王の乱」と呼びます。この叛乱は、圧倒的な平氏の武力によってあっけなく鎮圧され、以仁王は敗死しました。実は、親鸞の父日野有範は、何らかの形で以仁王の乱に関わっていた可能性が高いのです。親鸞の伯父宗業は、文章博士にまでなった人で、以仁王の学問上の師でもありました。有範は、兄宗業を介して以仁王とつながっており、叛乱に加担したのではなかったか、と推察されます。叛乱は、完全な失敗に終わりました。その後の戦後処理の過程で、有範一家に何らかの政治的圧力がおよんだものと思われます。有範は出家しました。その際、親鸞と二人の弟たちも出家しています。有範一家は、仏門にはいることによって、平氏の追及の手をかわそうとしたのではなかったか、と推測されます。
親鸞は、伯父範綱に連れられて慈円のもとに行き、得度しました。慈円は、摂政、関白の任に就いたこともあり法然の高弟でもあった九条兼実(くじょうかねざね)の実弟でした。四度にわたって、天台座主(てんだいざす)を務めた高僧であり、わが国最初の史論書『愚管抄(ぐかんしょう)』の著者でもあります。この高僧が、親鸞のその後の人生にどのような影響を与えたのかは、定かではありません。親鸞自身が何も語っていないからです。しかし、得度後、数年以内に親鸞が天台宗延暦寺(叡山)に入山したことは確かだと思われます。以後おおよそ20年間を、親鸞は叡山の僧侶として生きました。彼が、どのような立場に立って、天台教団から何を学んだのかは、いまなおほとんどあきらかになっていません。ただし、親鸞が天台教団にあっていかような修行をしていたのかという点については、たった一つではあるものの、確実な史料が遺されています。西本願寺の宝庫で発見され、大正12(1923)年に公刊された『恵信尼文書』が、それです。
『恵信尼文書』とは、親鸞の妻恵信尼が末娘の覚信尼に送った書簡をまとめた文書です。その第一通には、「殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが」という一節があります。これによれば、親鸞は、ある時期に、横川常行三昧堂での不断念仏に勤仕(ごんじ)する堂僧を務めていたことがわかります。これによって、彼が僧綱(そうごう)に位置づけられるような高僧とはなりえない定めにあったことが知られますが、同時に、彼の叡山での修行生活が、けっして生半可なものではなかったこともあきらかになります。と申しますのも、堂僧が勤仕する不断念仏とは、仲秋に10日間前後にわたって行われる行(ぎょう)のことで、その内実は、不眠不休の情態で念仏をとなえつづけながら堂内を歩きまわるという、きわめて峻烈なものだったからです。叡山にあって、親鸞は、日夜修行にいそしんでいたと見てよいでしょう。
しかしながら、親鸞は、その20年近くにもおよぶ修行生活に満足することができず、また、さとりの境地に達することもかないませんでした。親鸞の不満は、自身が僧綱に位置づけられるような高僧となりうる可能性をもたない点に発すると説くむきもあるようです。けれども、これは、少々うがちすぎた見かたではないかと思います。上級公家の子弟たちが自分をさしおいて、官僧としてより高位に昇ってゆくという有りさまを目のあたりにするとき、親鸞は、けっして愉快な気持ちにはなれなかったことでしょう。ですが、だからと言って、それを嫉妬する感情が彼の心底にわきあがったとは考えにくい、と思います。のちの著述からもうかがい知られるように、親鸞は鋭利な頭脳のもちぬしです。彼は、無力な下級公家の息男にすぎない自分が、官僧としての栄達とは無縁であらざるをえないことを、重々自覚していたにちがいありません。彼の心境は、むしろ、達観に近かったのではないでしょうか。親鸞の内面には、栄達云々などよりも、もっと深い問題が起こっていたのではなかったか、と推察されます。
一説によれば、親鸞は、19歳のとき、慈円の伴をして河内国磯長(しなが)の聖徳太子の廟所を訪れ、そこで、「汝が命根は応(まさ)に十余歳なるべし、命終りて速かに清浄土に入らん」という言辞をふくんだ太子の夢告を得たとのことです。余命10年と宣告された親鸞は、まさに10年後、29歳のとき、後世(ごせ)の救いを求めて、聖徳太子の創建と伝承される京都の六角堂への百日参籠を志したのだ、と説くむきもあります。『恵信尼文書』の第一通に、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世をいのらせたまひけるに」とあるのに基づく説です。しかし、20年間ものあいだ仏法を学びつづけた僧が、諸行無常という仏法の根本原理を体得できずに、ひたぶるに自身のこの世での生の終焉をおそれ、後世を祈ったなどということがありうるのかどうか、疑問とせざるをえないところです。恵信尼は、ごく一般的な意味で、すなわち、親鸞が真の仏法を求めたという趣旨で、「後世をいのらせ」たもうたと述べているにすぎない、と思われます。親鸞には、死んだあとどうなるかという後世の問題よりも、いっそう切実にして解決の急がれる問題があった、と考えるべきではないでしょうか。
わたしは、ここで、親鸞が他に類例を見ないほどに強烈な罪業意識のもちぬしであったことに思いを致すべきではないか、と考えます。彼は、『教行信証』の信巻において、「王舎城の悲劇」を語る直前に、みずからの心の在りように関して、つぎのように述べています。
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷(いた)むべしと。
また、『正像末和讃』の末尾に据えられた「愚禿悲嘆述懐(ぐとくひたんしゅっかい)」のなかで、親鸞は、つぎのようにうたっています。
浄土真宗(じょうどしんしゅ)に帰すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて
清浄の心(しん)もさらになし
悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
親鸞は、『教行信証』の信巻をいつごろ執筆したのか、確かなことはわかりません。「愚禿悲嘆述懐」が最晩年の詠であることは確実ですが、うたわれた年月日まで厳密に特定することはできません。しかし、親鸞が、法然と死別して独自の途(みち)を歩み出してもなお、名聞利養への欲にまみれた「虚仮不実」にして「蛇蝎」のごときものとしてみずからをとらえつづけたことは確かです。彼は、深い罪業意識をいだきながら生きていたのだ、と考えられます。こうした罪業意識は、叡山での自力の修行期から、すでに彼の心の奥底にわだかまっていたのではないでしょうか。親鸞は、天台の仏法をいくら学んでも、あるいはどれほどに懸命に修行を積み重ねようとも、いっこうに晴れてはくれない罪業意識に苦しめられ、その解決を求めて、六角堂への百日参籠を志したものと思われます。それは、たしかに、彼が29歳のときのことでした。
『親鸞夢記』や覚如の『御伝鈔』上巻第三段などに信頼を置くならば、親鸞は、参籠開始後95日目の早暁(1201年4月5日)に、聖徳太子の化身救世(くせ)観音から、つぎのような夢告を得たと考えられます。
行者宿報にてたとひ女犯(にょはん)すとも、
われは玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯せられん。
一生のあひだよく荘厳(しょうごん)して、
臨終に引導して極楽に生ぜしめん。
仏法に基づいて修行する行者が、宿報のもとにかりに女犯におよんだならば、わたしが玉のように美しい女性と化して肌の交わりを受けてあげよう、そして、一生のあいだ男に寄り添い、臨終の折にはわたしが導いて、極楽浄土へと往生させよう、という意味であろうと思います。この夢告は、罪業意識に苦しむ親鸞の心の奥底に強く響くものでした。親鸞は、それを、救世観音ひいては聖徳太子による救済と解すると同時に、法然への導きととらえました。法然は、人は煩悩をかかえこんだままで救われる、と説いていたからです。『恵信尼文書』の第一通によれば、親鸞は、この夢告の直後から100日間にわたって吉水の法然の庵室に通いつめ、ついに入門を許された、とのことです。
ここに、念仏者親鸞が誕生しました。弥陀の本願を信じて南無阿弥陀仏ととなえさえすれば、だれであれみな浄土へと救い取られるという法然の教えは、己れの罪業を見据え、それをいかにしても取り除きえないものとして意識する親鸞の魂を救いました。入門以来、親鸞は、法然への絶対的随順の姿勢をつらぬき、心の底から専修念仏、すなわち浄土宗の教えを信じきる人となります。法然上人のいらっしゃるところであれば、たとえ地獄であってもついてゆくとまで言いきる親鸞(『歎異抄』第二条、『恵信尼文書』第一通など)。そのような親鸞の言動が、師匠法然の胸を衝(つ)いたのでしょう。法然は、入門後まだ数年しか経ていない親鸞に対して、主著『選択本願念仏集』の書写を許し、さらには、みずからの肖像画を図することを認めました。『教行信証』の方便化身土巻後序が、「元久(げんきゅう)乙丑(きのとうし)の歳」云々と、年次、月日までを挙げて、この二つのことを記している点から見て、それが親鸞にとってこのうえもない名誉と感ぜられたことは、疑いえないと申せましょう。
親鸞自身の著述や親鸞関係のさまざまな文献を見るに、親鸞は、法然のおもだった弟子の一人となっていたように思われます。ところが、法然とその門下の著述には、親鸞の名は、まったくと言ってよいほど登場しません。法然側の諸史料にのみ依拠するならば、親鸞という人物が実際に存在したのかどうかという疑いすら生じてまいります。法然は、『平家物語』や『徒然草』などの中世の文献に登場しますが、親鸞の言行を描く同時代の文献は、浄土真宗関連のもの以外には皆無です。明治期に、親鸞非実在説がまことしやかにとなえられたのも、あながち理由のないことではない、と申せましょう。しかしながら、親鸞が法然の忠実な弟子であったことは、否定しえない事実です。それは、親鸞が法然のもとに入門して以後六年を経て起こった事件、すなわち「承元(じょうげん)の法難」の経緯をつぶさに追うことによって、あきらかになります。
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法然の時代の顕密仏教(旧仏教)、すなわち官制仏教は、加持祈禱に中心を置くものでした。皇族や宮廷貴族の罹病や出産の際に、あるいは内乱勃発の折などに、彼ら、彼女らの無事を祈り、現世利益(げんぜりやく)をもたらすことが、官制仏教がみずからの主たる役割としてになうところでした。ところが、法然が開宗した新仏教、浄土宗は、加持祈禱を仏法の役割とは認めませんでした。浄土宗は、弥陀の本願を信じ、それに寄りすがって南無阿弥陀仏の名号をとなえさえすれば、老少・善悪の別を問わず、だれもがみな極楽浄土への往生をとげることができる、と主張します。問題なのは、ひとえに念仏のみであり、安産や病気平癒の祈願、あるいは、雨乞いなどの呪術は、仏法の関与するところではありえないというのが、法然の浄土宗の基本的な態度でした。浄土宗は、立教開宗後、ほどなくして、一般の民衆や、武士、公家などの上層階級に、広く深く浸透してゆきました。これは、仏神に頼って人々に安逸をもたらすことに主眼を置く官制仏教の在りようを、その根底からおびやかす事態でした。また、官制仏教は、国家の権威とともに公卿たちの財力をも支えとしていました。ところが、浄土宗のいちじるしい発展につれて、その支えがあやうくなりはじめました。九条兼実とその一族などを中心として、公卿層にも浄土宗の教勢がおよぶようになっていったからです。
強い危機感をいだいた官制仏教側は、法然とその教団をつきくずす機会をうかがっていました。最初に動いたのは、比叡山延暦寺、すなわち天台教団でした。元久元(1204)年冬のこと、山門(延暦寺)大講堂の庭に、東塔、西塔、横川の三塔の僧侶たちが一堂に会し、座主大僧正真性(しんしょう)に対して、専修念仏、つまり法然の教えの停止(ちょうじ)を訴えたのです。真性はこれを制止せず、かえって朝廷に訴状を提出するかまえを見せました。しかし、このときには、法然がいちはやく動きました。門弟たちを集め、「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」を定めてこれに署名させたのです。「七箇条制誡」は、念仏をとなえさえすればかならず救われる、戒を守るかどうかは根本的な問題ではないとする法然の教えを曲解して、故意に戒を破ったり、戒を守る自力聖道門の僧侶や信者たちを嘲笑するといったような、浄土宗の門弟や門徒たちのふるまいを厳しく禁ずるものでした。法然についてのもっとも大部な伝記『法然上人行状絵図』(『四十八巻伝』『勅修御伝』)によれば、「七箇条制誡」には八十余名の門弟たちが署名しています。ちなみに、このとき、親鸞は、「綽空(しゃくくう)」という名で署名しました。法然は、この制誡を時を移さず真性のもとへ送り、事なきを得ました。
しかしながら、官制仏教側からの専修念仏(浄土宗)排斥の動きは、これだけにはとどまりませんでした。翌元久2(1205)年10月、今度は、南都興福寺が、法相宗の高僧解脱上人貞慶(じょうけい)に起草させた「興福寺奏状」を朝廷に提出し、専修念仏の停止を訴え出たのです。「興福寺奏状」は、法然が、官許を待たず師資相承(ししそうじょう)にも拠らずに、私的に一宗を建てたこと、法然たちが弥陀一仏を拝し、それ以外の諸仏、なかんずく釈尊を軽んじていること、さらには、法然の門下が、末法に戒なしという名目で放逸無慚なるふるまいにおよんでいることなどを厳しく指弾するものでした。これは、けっして事実無根の言いがかりにとどまるものなどではありませんでした。師資相承の問題はともかくとしても、浄土宗の立教開宗にあたって、法然が勅許を得ていなかったことや、法然の教法が、ひたぶるに弥陀を頼むという意味で、一神教的な様相を呈していたことは事実です。また、貞慶が非難するように、法然の門下には、博打をしたり、故意に女犯にはしったりする者が少なくなかった模様です。けれども、「興福寺奏状」は、法然から受戒し、彼の弟子となっていた元関白九条兼実やその息男義経たちによって阻まれ、朝廷が公式にとりあげるところとはなりませんでした。事態は、法然とその門下にとって都合のよい方向へと動いてゆくように見えました。ところが、翌建永元(1206)年の暮れから建永2(1207)年(10月、「承元」と改元)にかけて、事態は一変します。
建永元年12月、ときの治天の君後鳥羽上皇が熊野参詣のために、院御所を留守にしていた折、法然門下の住蓮と安楽の二人が、東山鹿谷(ししがたに)で、六時礼讃という仏徳讃嘆の法会をとりおこないました。一般庶民の娯楽に乏しかった当時にあって、哀調を帯びた念仏がとなえられる浄土宗の法会は、信心の有無にかかわらず、人々が楽しめる行事となっていたようです。わけても、法然門下のなかで最高の美声のもちぬしたちであった住蓮、安楽が営む法会は、人気の的となっていました。どこからか評判を聞きつけたのか、あるいは、以前から住蓮、安楽と親しい関係にあったのか、くわしい事情はわかりませんが、鹿谷での法会には、後鳥羽上皇寵愛の二人の女官が参列し、しかも、上皇じきじきの許しを得ることなく、無断で通夜(一説によれば、出家)してしまいました。還御(かんぎょ)後に、このことを知った上皇は激怒します。二人の女官と、住蓮、安楽とのあいだに性的な交わりがあったのではないかと疑ったのです。上皇は、前年に上呈されていた「興福寺奏状」をとりあげ、その申し分にしたがって、翌建永(承元)2年2月上旬に、住蓮と安楽とを斬罪に処しました。
しかも、後鳥羽上皇の怒りは、それだけではおさまりませんでした。同年2月下旬のこと、上皇は、さらに、法然の弟子二名を死罪にし、法然とそのおもだった門弟数名を流罪に問いました。その際、法然は土佐へ、親鸞は越後へと流されることになりました。折から病中にあった九条兼実の懸命な奔走によって、法然の流刑地は讃岐に変更されましたが、ここで看過できないのは、親鸞が法然とほぼ同等の刑に処せられている点です。いったいなぜなのか、はっきりした理由はわかりません。のちの親鸞の言説から見て、彼は、同じく遠流の刑に処せられた幸西成覚房(こうせいじょうかくぼう)と同様に、法然門下のなかでも特段に過激な一念義の立場、すなわち、生涯ただ一度念仏をとなえただけで往生できるとする考えに立っていたとおぼしい、それが遠流の憂き目にあった理由であると説くむきもあります。ですが、実は、一念義と親鸞の関係は定かではありません。法然がその消息において一念義をきっぱりと否定している点を勘案するならば、法然への絶対的随順を旨としていた親鸞が一念義に同調していたということは、とうていありえないようにも思われます。しかし、よく言われるように、もし親鸞が、法然門下にあって泡沫のごとき存在でしかなかったとすれば、彼が師とほぼ同等の刑に処せられることなど、ありえようはずもなかったでしょう。わたしは、朝廷のこの処分は、親鸞が法然の門下にあって枢要な地位に立っていたことを、如実に物語っているのではないかと考えます。
親鸞は、このころすでに法然からの口伝としての「悪人正機説」に接しており、日々の布教活動のなかで、それを前面に押し立てていたのではなかったでしょうか。悪人正機説は、ただ単に、悪人をさえ見捨てずに摂取する弥陀の本願力を強調するだけであって、けっして遠流の刑に直結するような政治性を帯びたものではない。そのように主張するかたもおられるかもしれません。しかしながら、次回の論考でもくわしく論ずる予定ですが、親鸞の悪人正機説は、悪人こそが往生すると説くだけにとどまらず、善人とは自力作善の人であり、そういう人は弥陀の本願の本来の対象ではありえない、と断ずるものでした。南都北嶺の自力聖道門において修行を重ねる人々は、自力作善の人々以外の何ものでもありません。そうすると、親鸞は、顕密仏教、すなわち官制の旧仏教の僧侶たちは往生できない、と言っていることになります。これは、官制の旧仏教の側からすれば、とうてい許しえない暴論でした。「興福寺奏状」は、処罰すべき対象として、具体的に親鸞の名を挙げているわけではありません。けれども、その奏状に言う、法然門下の放逸無慚なる徒輩のなかに、親鸞が含まれていた可能性を否定することはできないように思われます。親鸞は、悪人正機説をけっして文章化せず、その伝授をあくまでも口伝という形にとどめていました。それを文章にして残すことは、あまりにも危険すぎたからでありましょう。
かくして、親鸞は、越後に遠流されました。法然は、いったんは讃岐に流されたものの、同じ年の年末には、罪一等を減ぜられて、摂津国勝尾寺に移されました。ただし、後鳥羽上皇の怒りはおさまらず、法然は、その後4年間にわたって入京を許されませんでした。親鸞が流されたのは、越後の国府(こう)の近辺だったと推定されます。流罪とは、わたくしども現代人が想像するよりも、はるかに苛酷な刑罰です。流人は、最初の一年間だけは食糧を官から支給されますが、その後は自活を余儀なくされます。末流とは言え、藤原氏につらなる公家の出であり、青年期を叡山の官僧として過ごした親鸞が、農耕や漁猟に通じていたとはとうてい考えられません。ふつうならば、親鸞は、鬼界島(きかいがしま)に流されたあの俊寛(しゅんかん)のように、言語を絶する困苦にさらされたことでしょう。ところが、さいわいなことに、国府には九条家の荘園がありました。九条家は、兼実以来、法然とその門流に対して、手厚い保護を加えていました。越後の親鸞は、九条家の庇護のもとで、死につながりかねないような困苦を免れたもの、と推測されます。その九条家の荘官を務めていたのが、地元越後の豪族三善家でした。先学のなかには、三善家の棟梁を、都の公家三善為則とするむきもあります。傾聴にあたいする説だとは思いますが、決定的な根拠には恵まれていないようです。
ちなみに、鈴木大拙は、『日本的霊性』において、親鸞が越後で農耕に従事したと見る立場から、親鸞には、法然以外の他の仏教思想家にはみとめられない「大地性」という特性があったと論じています。魅力ある考えだとは思います。しかし、直接には三善家の保護下にあったとおぼしい親鸞が、農耕によって自活し「大地性」を獲たと考えることには、いささか無理があるようです。越後に来てまもなく、親鸞は、三善家ゆかりの女性恵信尼と親しくなり、ほどなくして正式に結婚した模様です。越後では、善鸞を含む三人の子どもが生まれたようです(のちに六人となります)。親鸞は、「承元の法難」以後、みずからを「非僧非俗」、すなわち、僧侶でもなければ俗人でもない者と規定していました。その「非僧」の側面を強調するならば、結婚には何のさしつかえもなかったもの、と考えられます。親鸞の妻帯を、故意に破戒の途(みち)を求めた結果、すなわち、法然への入門の直接の契機となった救世観音(聖徳太子)の夢告を体現するものと解するのは、すこしばかりうがちすぎた解釈ではないか、と思われます。もはや僧ではない者、遠流の刑に処せられるにあたって、藤井善信(ふじいよしざね)という俗名を与えられ、朝廷から僧籍を剥奪された者が妻帯したところで、何の不都合があろう。親鸞は、そう考えたのではなかったでしょうか。
親鸞の妻帯については、古くから、玉日姫(たまひひめ)伝説があり、彼の妻は恵信尼一人ではなかったと説かれることもすくなくないようです。玉日姫伝説とは、親鸞は、師法然の要請で九条兼実の娘玉日姫を妻に迎えたというものですが、兼実がその生活の細部をつづった日記『玉葉』にその旨を語る記述が見えない点などから考えるに、あくまでも「伝説」の域を超えるものではない、と思われます。たしかに、諸家が指摘するように、鎌倉時代の一夫多妻制のなかで生きた親鸞の行動を、現代の一夫一婦制の枠組みによってとらえようとするのは、一種の時代錯誤なのかもしれません。ですが、親鸞の妻が二人以上いたかもしれないというのは、あくまでも一つの可能性、すなわち仮説にすぎず、恵信尼一人説をとったとしても、親鸞の研究において、何らかの支障が生じるわけではありません。親鸞は、越後において、けっして裕福とは言えなかったけれども、一人の妻恵信尼と静穏で仲むつまじい生活をおくったと考えても、大過はないのではないかと思われます。
親鸞の流人生活は、そう長くはつづきませんでした。建暦元(1211)年11月、法然とその門下は赦免され、流罪を解かれたのです。摂津国勝尾寺にいた法然は、門下とともに、京都東山大谷に戻りました。しかし、帰洛後の法然は、「日来不食の気」が増し(『行状絵図』)、翌建暦2(1212)年正月25日に、ついに示寂しました。『行状絵図』や『西方指南抄』などによれば、その臨終に際して、さまざまな奇瑞があらわれたそうですが、ここでは触れないことにいたします。奇瑞の出現は、法然ゆかりの人々のあいだの、主観的ないしは共同主観的事実にほかならず、かならずしも万人が承引しうる客観的なできごととは言えない、とわたしは考えるからです。
親鸞は、当然、都の法友から法然の訃報を受けとったことでしょう。ですが、親鸞は、そのまま越後にとどまり、帰洛しようとはしませんでした。それどころか、数年後には、妻子を伴って、関東をめざして旅立ってしまいます。真宗高田派ゆかりの文献『正明伝』などに基づいて、親鸞は、いったん京都に帰って法然の墓参をすませたのちに関東へむかった、と説く研究者もいますが、それは確定的な根拠に根ざした立論とは言えないように思われます。親鸞は、そのとき、京都には戻りませんでした。敬仰してやまない師の訃報に接して、彼が平然としていたとは想像だにできません。親鸞のこころは、激しくゆれ動いたことでしょう。にもかかわらず、彼が越後を動こうとしなかったのは、師の逝去によって、京都での専修念仏布教のめどが立たなくなっていたからではないか、と思われます。親鸞は、華洛ではなく、僻陬(へきすう)の地北関東を、あらたなる布教の地として選びました。そして、ほどなく、常陸国(ひたちのくに)笠間郡(かさまごおり)稲田郷(いなだごう)の草庵(現、西念寺)を、布教活動の拠点と定めました。親鸞43歳ころのことと推定されます。
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関東は、広大な地です。布教活動の拠点としてふさわしい場所は、ほかにもたくさんあったはずです。なぜ、笠間郡稲田でなければならなかったのでしょうか。稲田は、現在でもなお交通の便のけっしてよくない所です。親鸞の時代も、おそらくそうであったことでしょう。それにもかかわらず、親鸞が稲田を選んだのには、二つの理由があったものと推察されます。一つは、稲田の近隣に、越後からの開拓移住民が多数居住しており、かつは、三善家や九条家の所領もその周辺にあったからでしょう。親鸞は、この新天地で、三善家や九条家の援助を受けつつ、縁の深い越後からの開拓移住民をおもな対象として、布教活動を展開しようと意図したもの、と思われます。
第二に、のちに『教行信証』として結実する書を書き進めるうえでの利便性を考慮したからではなかったでしょうか。親鸞は、『教行信証』の方便化身土巻において、当時は最澄の述作と信ぜられていた『末法灯明記(まっぽうとうみょうき)』を引用して末法思想に言及する直前に、「わが元仁元年」と述べています。元仁元(1224)年は、親鸞52歳のときにあたります。もとより現存の形でではなかったと思われますが、『教行信証』は、このとき、いちおうの完成態をとっていたのではないでしょうか。だとすれば、親鸞は、おそくとも関東移住の時点で、『教行信証』執筆への意志をかためていたものと見ても、けっして失当ではない、と考えられます。『教行信証』は、各種の経典、論、釈からの引用を主体とする「文類(もんるい)」の形をとった書物です。親鸞は、叡山で、そして法然のもとで、学問上の研鑽を積み重ねていたことでしょう。ですが、彼がいかにすぐれた学僧であったとしても、すべての経典、論、釈をまるまるすべて暗記していたということなど、常識的に見て、とうていありえないことだ、と思われます。『教行信証』の執筆にあたって、親鸞は、多種多様な資料を必要としたはずです。わけても、「一切経」(大蔵経)は不可欠でした。実は、当時、その「一切経」が鹿島神宮に所蔵されていました。鹿島神宮で「一切経」を閲覧するとなると、稲田からではあまりに距離がありすぎるように感じられるかもしれません。たしかに、陸路をとるとすれば、往還に一両日以上を要するでしょう。ところが、古地図を見ると、当時は、霞ヶ浦が現在よりもかなり広大だったことがわかります。しかも、霞ヶ浦へは多数の支川が注ぎこんでおり、それらのうちのいくつかは、稲田の近辺にまでつながっていました。水路をとって船でゆけば、鹿島神宮は意外に近かったのです。親鸞は、このことを考慮にいれて、あえて稲田を居住地として選んだもの、と推察されます。
『教行信証』が、52歳のときに、現存の形態でではないにしろ、いちおうの完成を見ていたとおぼしい点から推測するに、親鸞の執筆活動は順調に進んだものと思われます。他方、布教活動も予想以上の効果をあげていました。『親鸞聖人門侶交名牒(しんらんしょうにんもんりょきょうみょうちょう)』によれば、親鸞じきじきの面授の門弟は、四十名以上にもおよびます。これに、『末燈鈔』所載の門弟たちを加えれば、その総数は、六十余名に達します。六十余名の門弟たちの大半は、それぞれ、聞法と説法のための道場を構えていたものと推測されます。各々の道場には、数十名から数百名の門徒たちがつどっていたことでしょう。だとするならば、親鸞は、稲田を拠点とする関東での布教活動をとおして、一万人近い信徒を獲得していたことになります。彼の布教活動は、大きな果実を実らせた、と言ってよいでしょう。執筆活動にも布教活動にも成功をおさめた親鸞は、十分な満足感を得ていたはずです。そのまま稲田に拠点を置いて活動を継続すれば、成果はさらにいっそう豊潤なものになっていったにちがいありません。ところが、63歳をむかえようとしていたころ、親鸞は、突然、家族を伴って京都に帰ってしまいました。官制仏教教団、なかんずく山門延暦寺からの、浄土宗(専修念仏)に対する暴虐とも言うべき弾圧の絶えない京都に戻ることは、浄土宗の正統な継承者を自任する親鸞にとって、けっして得策ではなかったはずです。彼のこのときの行動は、謎としか言いようがありません。親鸞は、なぜ、わざわざ多難で厳しい途を選択したのでしょうか。
一説によれば、親鸞が60歳を超えたころから、鎌倉幕府が専修念仏の教えを抑圧する動きを示しはじめており、親鸞は、それを恐れて、稲田を、ひいては関東を捨てたのだということです。たしかに、親鸞は、「承元の法難」に類する事件が、ふたたびわが身にふりかかることを欲してはいなかったことでしょう。門弟や門徒たちを教団という形に組織しようという意図をもたなかったとおぼしい親鸞が、教団の「開祖」としての責任感に立って、まっこうから幕府の抑圧をはねのけようとしたと考えることにも、やはり無理がありそうです。親鸞は、弾圧を恐れ、それを回避したのだと見ることも、あながち不可能ではないように思われます。けれども、関東にも増してよりいっそう激しい弾圧に見舞われている地京都を、眼の前に迫り来るかもしれない弾圧を避けるために選択するというようなことがはたしてありえたのかどうか、疑問とせざるをえないところです。
いちおうの完成を見た『教行信証』を、さらに発展的に書き継ぐためには、新しい資料が必要であり、それらは京都でなければ手にはいらなかったからだ、という説もあります。これは、一理ある説です。親鸞は、貞慶や明恵などの旧仏教側からの法然批判に対する反論の書としての一面をもつ『教行信証』の執筆に執念をもやしていました。弾圧の地京都に戻るという危険な選択をしてまで、彼が執筆のための新資料を求めたということも、まったくありえないことではないようにも思われます。しかし、無理を押しても、どうしても手にいれなければならないほどの学術的価値が新資料にあったと断定するのは、少々困難なのではないでしょうか。また、新資料がどうしても必要ならば、京都の知人たち、たとえば弟たちに依頼して、稲田にまで送りとどけてもらうこともできたはずです。当時、長男善鸞は、都に上って官途についていた模様です。善鸞に頼むという手立てもありえたことでしょう。にもかかわらず、そうした手立てを講じなかったということは、親鸞の帰京には何か別の理由があったことを物語っているのではないか、とわたしは考えます。
わたしには、「63歳」という親鸞の年齡が、あることを告げているように思われます。概算でも、平均寿命が30歳を下回っていたと推定される当時にあっては、63歳と言えば、いつ死を迎えてもいっこうに不思議ではない年齡であったと考えられます。親鸞は、己れの死が間近に迫っていると見たのではなかったでしょうか。人は、老齡となり、死を強く意識したとき、少年の日々を過ごした故郷をなつかしむものです。せめて、死ぬときには故郷京都にいたい。親鸞は、きっとそう想ったのでしょう。つまり、老いた親鸞の心の底で頭をもたげた望郷の念が、彼をして、あえて危険で困難な途を選ばせた、というのがわたしの説です。わたしのこの望郷説は、ある研究者によれば、「もっとも素朴な考えかた」なのだそうです。しかし、真実とは、往々にして、もっとも素朴で平凡に見える解釈のうちにひそんでいることが多いものです。親鸞は、望郷の念押しとどめがたくして京都に帰った。親鸞の真に意図したところは、つまるところ彼自身をして語らしめないかぎり、わたくしどもにはわかりようもないのでしょうが、目下の段階では、わたしはそのように解しておくことにいたします。
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京都に戻った親鸞は、定住する寺もなく、寄宿先を転々としたようです。いつのことかははっきりとはわかりませんが、妻恵信尼は、いくたりかの子どもたちとともに、越後に帰ってしまいました。夫婦仲が悪くなったからというわけではなさそうです。おそらく、恵信尼は、越後の三善家の所領の一部を継いでおり、その経営、管理に関して、何らかの問題が生じたのではないか、と思われます。末娘覚信尼は、しばらくのあいだ親鸞とともに暮らしていたようですが、彼女も、結婚を機として、親鸞のもとを離れた模様です。長男善鸞は、親鸞の稲田在住時代に、すでに京に上って宮仕えをしていたらしく、帰京後の親鸞とは別に一家を構えていたようです。近侍の門弟は何人かいたと思われますが、多数の門弟たちと接していた稲田在住時代にくらべると、親鸞は孤独だったことでしょう。当然ながら、旧仏教、わけても山門延暦寺からの弾圧が激しい京都での布教活動は、思うにまかせなかったでしょうし、関東の門弟たちからの志納の金品に依存する生活も、けっして楽なものではなかった、と推察されます。現存の『教行信証』の原本を解体調査した研究者たちによれば、同書には比較的上質な紙が使われており、それは、京都での親鸞の生活が、今日一般に想像されているほどには切迫したものではなかったことを示すのだそうですが、はたしてほんとうのところはどうだったのでしょうか。何に金銭を投ずるのかは、当人の価値観の問題であり、親鸞は、わずかな所持金を物を書くということについやしたのかもしれません。遺された消息を見るに、親鸞は、門弟たちからの志納金に対して、異常とも思えるほどに丁重な謝意を示しています。彼の京都での生活は、やはり、かなり苦しいものだった、と考えるべきなのではないでしょうか。
帰京にあたってみずからの死を予感した親鸞でしたが、その期はいっこうに訪れる気配がなく、彼の齡(よわい)は、ついに80歳を超えました。ちょうどそのころのことです。関東の門弟たちのあいだに、親鸞から見れば尋常ならざる事態が起こっていました。親鸞は、つねづね説いていました。本願を信じ念仏すれば、だれであれみな浄土へと摂取されて救われるのだ、と。親鸞に言わせれば、弥陀の本願とは、どうしても善人たりえない悪人、すなわち、わたくしども煩悩まみれの凡愚のために立てられたものでした。一部の門弟たちは、この親鸞思想の核心とも言うべき教説を、根本から誤解してしまいました。彼らは、悪人こそが救われるのだから、われらはどれほどの悪行を行っても何らさしつかえはないのだという、「造悪無碍(ぞうあくむげ)」の邪説を展開したのです。しかも、その邪説は、思いのほかに広範囲に拡張されてゆきました。このような邪説は、治政の常道を乱す因(もと)となり、往々にして、為政者側からの門弟や門徒全体に対する弾圧を惹起してしまうおそれがあります。そのことを危惧したのでしょう、親鸞は、しかるべき人物を関東に派遣し、その人物の力で、邪見におちいりがちな門弟や門徒たちを、在るべき方向に立ち戻らせたいと考えました。親鸞が白羽の矢を立てたのは、長男善鸞でした。
善鸞については、多年親鸞と離れて暮らしていた彼は、師父の教えを十分に理解していなかったにちがいない、と説くむきもあります。たしかに、彼は、師父ほどの人徳も学識も備えていなかったことでしょう。しかし幼少時から折に触れて師父の教えの真髄を説き聞かせられていたであろう彼が、その教えの概要を他人(ひと)にむかって語りうるような力量をすらもたなかったなどということは、とうていありえないのではないか、と思われます。すくなくとも、親鸞は、善鸞にはその程度の力量は備わっているはずだと考えていたにちがいありません。親鸞は、それなりの期待感をもって、善鸞を関東へと送り出したのでありましょう。
関東に下向した善鸞は、父の期待にこたえるべく、活発に行動したようです。邪義を説く門弟や門徒たちを、正しい方向へと教え導いている。善鸞からそうした報告を受けて、当初、親鸞は、大いに満足していた模様です。ところが、事態は、親鸞が予想だにしなかった、奇怪な方向へと動いてゆきます。善鸞は、親鸞に、古くからの門弟たちが父の意に沿わぬ異義、異説をとなえるので難儀しているとも報告していたのですが、その、異義、異説をとなえているはずの門弟たちからは、逆に善鸞こそが邪説を広めているとの報せが、親鸞のもとに数多く寄せられました。門弟たちが異口同音に報告するところによれば、善鸞は、夜な夜な父から自分一人に伝授された秘密の法文があり、これを知らなければ浄土真宗の真義を体得したことにはならないと語り、あまつさえ、父の真意では、弥陀の第十八願など「しぼめる花」、すなわちまったく無価値なものにすぎないと述べた、というのです。親鸞は驚きました。万人の救済を最終目標として志向する浄土門には、ただ一人に特権的に口授(くじゅ)される法文などあろうはずもなく、また、その万人救済の基(もとい)として絶対的な帰依の対象となすべきものが弥陀の第十八願だったからです。
親鸞は、善鸞と門弟たちのいずれが正しいのかを、にわかには判断することができませんでした。困惑する親鸞のもとに、追い討ちをかけるかのように、門弟たちからつぎのような報せがとどきました。善鸞が、門弟たちの不義、不正を鎌倉幕府に訴え出て、幕府の権力をもって彼らを処罰させようとしている、というのです。ことここにいたって、親鸞は、善鸞を処断せざるをえなくなりました。法然の真正なる教え、すなわち浄土真宗においては、世俗の権力に阿(おもね)り、その威光のもとに同朋、同行を処罰することなど、けっしてあってはならないことだったからです。親鸞は、善鸞とのあいだの父子の関係を断ち切ることを決意しました。建長8(1256)年5月29日、親鸞は、自身がもっとも信頼を置く門弟性信(しょうしん)に、その旨を伝える手紙を書き、かつは同日付けで、善鸞に義絶状を送りました。そのなかのおもな一節は、この論考の第一節に掲げておきましたが、煩をいとうことなく、もう一度ここに挙げておくことにいたします。
親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり。五逆のその一つなり。このことどもつたへきくこと、あさましさ申すかぎりなければ、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。三宝・神明に申しきりをはりぬ。かなしきことなり。
「かなしきことなり」という一文が、胸に迫ります。親鸞は、よほど辛かったのでしょう。しかし、一宗を導くべき立場にある彼は、肉親の情よりも正当なる教義を重んじざるをえませんでした。それにしても、なぜ、善鸞は習いおぼえたこともない法文の存在を語り、法然の正統を自任する親鸞の門流にとってもっとも大切な弥陀の第十八願を無意味化しようなどと企てたのでしょうか。法然や親鸞の仏法は、弥陀の第十八願を根幹に据えながら、ただ、信心に裏づけられた念仏のみを強調するものでした。そこでは、秘密の法文のような、密教につながりかねない加持祈禱的要素は、徹底的に排除されていたはずです。善鸞がそのことを知らなかったとは考えられません。ならば、いったいどうして、彼は、師父やそのまた師の所説に反する行動におよんだのか。よくよく考えてみれば、実に不思議なことだと言わざるをえません。
しかしながら、おそらく、ことは思想上の問題に発していたわけではなかったのでしょう。善鸞は、関東に派遣されたとき、父の指示を忠実に守り、それを門弟たちに伝えるつもりだったにちがいない、とわたしは思います。けれども、どこの世界、どの分野でもそうですが、古くからの弟子というものは、師匠の直系たることを自負し、誇りに思っているものです。その自負や誇りは、われこそが真に師を知る者だという思いにつながっています。しかも、そうした思いは、師匠の血脈など問題にしない位相に立つものだ、と申せましょう。師の子息が、もし、そこに血脈の論理をもちこんで誇りを傷つけたとすれば、弟子は師直伝の教えを楯にとって激しく反撥します。善鸞と親鸞の門弟たちとの関係も、そうしたものだったのだろうと思います。弟子たちは、容易なことでは善鸞の言に服さなかったのでしょう。
善鸞はあせりました。父の思いを実現するためには、まず、弟子たちを自分の膝下にしたがわせる必要がある、と彼は考えたのでしょう。そのためには、父の権威に仮託した何かが、たとえば、自分だけが知っていて高弟たちの知らない秘伝の奥義のようなものが不可欠でした。それゆえに、善鸞は、親鸞が思いもよらないような虚言を構えてしまったのではなかったか、と思われます。だとすれば、それは、まさに「かなしきことなり」と言うしかない事態です。親鸞は、善鸞が高弟たちとの関係において窮地に立たされていることを見ぬいていたのかもしれません。それを知りながらも、愛する子息に慰めのことばはおろか同情のことばすらかけてやれない辛さが、親鸞をして「かなしきことなり」と言わしめたのだと解するとすれば、それは不必要なまでの深読みでしょうか。
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善鸞義絶事件以後の親鸞に残された時間は、わずかに5年あまりにすぎませんでした。その5年余の時間は、親鸞と彼の門弟たちにとって、けっして安穏な時代などではありませんでした。善鸞義絶事件は、門弟や門徒たちの信心を、すくなからず動揺させたことでしょう。しかも、その動揺は、他宗派による北関東への教線の拡張につれて、いっそう大きなものになってゆきました。たとえば、「念仏無間」、すなわち、念仏をとなえるような者は無間地獄に堕するという日蓮の教えに接した親鸞の門徒たちは、このまま専修念仏の教えを奉じていれば地獄行きの憂き目を見るのではないかという不安に駆られたようです。本論考の第一節でも述べたように、はるばる京都の親鸞のもとを訪れて、そうした不安をうったえた門徒たちにむかって、親鸞は、自分は念仏を申して地獄に堕ちたとしてもそれでかまわない、と語っています。親鸞のことばが門徒たちの不安をやわらげることにつながったのかどうか、それはわかりません。しかし、親鸞がそのような極言めいた言説を語らざるをえないほどに、門徒たちの心は大きくゆらいでいたものと推察されます。
さらに、忍性(にんしょう)を中心とする律宗の動きも見のがせません。忍性は大和国の出身でしたが、親鸞の晩年期に、常陸国三村寺に拠点を構えて、貧窮者や癩者に対する慈善活動を展開し、広範囲にわたって民衆から人望を集めていました。忍性の活動を目のあたりにした親鸞の門弟や門徒たちは、ただ念仏をとなえているばかりでよいのか、具体的な形で何らかの利他行に打って出る必要はないのか、という疑問にとらわれたことでしょう。忍性は、日蓮のように、正面から他宗を論難するような過激な人物ではなかった模様です。しかし、それでもやはり、律宗の教線の拡張は、親鸞の門弟や門徒たちにとって、すくなからぬ脅威となっていたのではないか、と思われます。
こうした情況のもとで、親鸞は、和文による著述に専念します。彼は、多数の和讃を詠み、かつは、『唯信鈔文意』や『一念多念文意』などを書きあげて、それらを関東の門弟たちのもとへ送りとどけました。それらは、いずれも、「一文不通(いちもんふつう)」の人々、すなわち、一文字も理解できない愚痴なる人々に読み聞かせることを前提とする著作です。漢文で書かれた主著『教行信証』の思想は、とうてい、「一文不通」の人々に理解されうるようなものではありませんでした。浄土真宗に関心を寄せながら、それなりに思念をめぐらせることのできる、わたくしどものような現代の読者にとっても、同書は、やはり難解との印象をまぬかれないと思います。親鸞は、このことをはっきりと自覚していました。彼は、生命(いのち)あるかぎり、『教行信証』を完成されたものとなすべく努めたいと希(のぞ)んでいたことでしょう。ここまで申しますと、臆測がすぎるかもしれませんが、85歳以後の親鸞は、その希みをあえて封印したのではないか、と思います。最晩年の彼は、自己の思索を可能なかぎり、わかりやすく単純化して、民衆に伝えようとしたのではなかったか、と考えられます。もし、わたしが主張するように、『教行信証』が、貞慶の「興福寺奏状」や明恵高弁の『摧邪輪(ざいじゃりん)』への反論を眼目の一つとする書であったとするならば、親鸞は、反論によって法然や自分たちの思想の正当性ないしは正統性を示すという、いささか学問に傾きすぎた自利的な立場(それは、けっして利他を無(な)みするものではありませんが)をあえて捨てて、人々に真の仏法を知らしめるという、徹底的な利他の立場に立ったのだと言っても、過言ではないでしょう。
以後5年を経て、90歳になった親鸞は、弘長2(1262)年11月28日、寄宿先善法院の一隅で、益方入道(ますかたにゅうどう)と覚信尼の二人の子と数名の近侍の弟子たちに看取られながら、静かに息を引き取りました。『恵信尼文書』の第一通は、親鸞示寂を伝えてきた覚信尼の書状への返書です。そのなかで、恵信尼は、「されば御りんずはいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ云々」と述べています。殿のご臨終がいかようにあらせられたにせよ、ご往生なさったことだけは疑いえない、という意味でしょう。覚信尼たちは、親鸞の臨終に何らかの奇瑞が現われるのを期待していたのかもしれません。けれども、目立ったことは何も起こらず、親鸞は淡々と逝ってしまったのでしょう。そのことを訝った覚信尼に対して、恵信尼は、臨終の在りようなど何ら本質的な問題ではない、と諭しているようにも見うけられます。ひょっとすると、親鸞は、臨終にあたって泰然自若たる態度を示さず、それどころか現生への執着のようなものを見せたのかもしれません。しかしながら、かりにそうであったとしても、煩悩まみれの凡夫の往生を説き、その凡夫のなかに罪悪深重なる己れ自身を位置づけていた親鸞にとって、それは、けっして矛盾した姿などではなかった、と申せましょう。
つまるところ、親鸞の仏法者としての生は、罪業の自覚にはじまり罪業の意識とともに終わったと言っても、あながち失当ではないと思われます。ならば、そのような生きかたをした親鸞にとって、もっとも緊要な課題は、いつもすでに悪の問題であったと考えられます。親鸞は、悪をどのようにとらえたのか、そして、悪人でしかありえないわたくしども凡愚をいかにして救おうとしたのか。次回は「悪の思想」と題して、こうした問題を考究してみたいと思います。
(2022年5月31日稿)