【第2回】親鸞の信心        筑波大学名誉教授 伊藤益

 

 親鸞の主著『教行信証』は、精確には、『顕浄土真実教行証文類』と題されています。この書がどのような目的で書かれたのかは、いまだにはっきりしていません。浄土真宗の宗門内では、立教開宗宣言の書と解されることが多いようです。しかしながら、生涯にわたって、みずからを法然の弟子として位置づけ、浄土宗の枠組みから可能なかぎり脱しようしなかった親鸞が、あらたに一宗を独立させようとくわだてたということは、とうていありえないのではないかと思われます。宗派としての浄土真宗は、「法然から親鸞へ、親鸞から如信へ」という、いわゆる「三代伝持(さんだいでんじ)」の法統を強調した覚如によって公式に打ち立てられた、と見るべきでしょう。親鸞は、みずからの教法を、「真の浄土宗」、すなわち、法然からの直系の仏法と見なしていたものと考えられます。法然には、『選択本願念仏集』という立教開宗宣言の書があります。法然からじきじきにこの『選択集』の書写を許され、それを常時座右に置いていたであろう親鸞には、事あらためて浄土宗の立教開宗を宣言する必要などなかったにちがいありません。それならば、いったいなぜ親鸞は『教行信証』という大著を書かなければならなかったのか。謎は深まります。

 親鸞は、自分ひとりで楽しむためにこの書を書いたのだ、と説くむきもあります(中井玄道『教行信証講話』)。経文や、論、釈の引用でほぼ埋め尽くされ、親鸞自身による地の文(自釈文)がほとんどないというこの書の構成は、著者が多数の読者を求めていなかったこと、しいて言えば、この書が主に著者自身を読者として想定していたことを、暗に物語っているようにも見えます。人は、書物を書くとき、かならず読み手としての他者の存在を念頭に置いているにきまっていると考えるのは、いわば一種の偏見かもしれません。たとえば、わたしは、これまで何冊かの書物を公表してきましたが、原稿を書くときに特定の読者を想定したことはありませんでした。ただ自分のためにのみ書いていたと言っても、過言ではありません。わたくしごとき凡愚と親鸞とをくらべるという意味で、いささかおこがましい物言いになるかもしれませんが、親鸞は、わたしが原稿を書くときと同じような心境で、つまり自分自身のために『教行信証』を執筆したのではなかったかと推察しても、あながち失当ではないようにも思われます。けれども、この書の末尾、方便化身土巻の後序には、つぎのような有名な一節があります。

 

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んな

り。しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林(じゅりん)、行に迷(まど)ひて邪正を弁(わきま)ふることなし。ここをもつて、興福寺の学徒、太上天皇(後鳥羽院と号す、諱(いみな)尊成(たかひら))今上(きんじょう)(土御門院と号す、諱為仁(ためひと))聖暦(せいれき)、承元(じょうげん)丁卯(ひのとう)の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違(い)し、忿(いか)りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥(みだ)りかはしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名(しょうみょう)を賜うて遠流(おんる)に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿(とく)の字をもつて姓とす。

 

 これは、法然(源空法師)とその門下が朝廷から流罪もしくは死罪に処せられた事件、いわゆる「承元(じょうげん)の法難(ほうなん)」について、そのだいたいの経緯を語るものです。親鸞は、事件の発端は、「興福寺の学徒」が「興福寺奏状」を朝廷に提出し、専修念仏の停止(ちょうじ)を訴え出たことにある、ととらえています。親鸞によれば、天皇とその臣下は、「法に背き義に違し」て、不当にも法然と彼の門弟たちを罰したのでした。親鸞がこの一節を記したのはいつのことなのか、厳密にはあきらかにすることができませんが、現存の『教行信証』の成立時点に至っても(最晩年になっても)、これを書きあらためようとしなかったことは、厳然たる事実です。長い時期を経てなお、親鸞の憤りがおさまらなかったことがわかります。親鸞は、天皇やその臣下とともに、専修念仏の停止を朝廷に要求した「興福寺奏状」を、わけても、その起草者であった法相宗の高僧貞慶(じょうけい)を、どうしても許すことができなかったのでしょう。「興福寺奏状」において、貞慶は、法然の浄土宗(専修念仏)が私的な教法にすぎず、師資相承(ししそうじょう)を踏まえた仏法の体(てい)をなしていない、と批判していました。親鸞は、おそらく、「興福寺奏状」のすべてを否認していたのでしょうが、彼にとってとりわけ許し難かったのは、貞慶のこの批判だったのではないでしょうか。天皇を法に背き義に反した人物とまで批判する言説は、日本思想史上において、他に類例を見ないと言ってもよいでしょう。親鸞の憤りはたとえようもないほどに激越でした。その激しさの極みとも言うべき怒りは、当然のことながら、貞慶にも向けられていたにちがいありません。親鸞は、貞慶の法然批判を全面否定することをめざして、『教行信証』を書き綴ったのではなかったかと思われます。だからこそ、『教行信証』は、当初『顕浄土真実教行証文類』という形をとったのではないでしょうか。

 仏法には、それが真に仏法たることを証し立てる綱格(こうかく)というものがあります。自宗の教、行、証、つまり教義と行法、それらの結果としての証(さと)りの在りようを示すというのが、仏法にとって不可欠の綱格です。親鸞は、浄土宗が真の仏法以外の何ものでもないことを確示するために、何よりもまず、浄土宗の教、行、証をあきらかにしようと試みたのではなかったか、と思われます。それゆえに、最初の構想では、『教行信証』は、「教行証文類」として撰述される予定だった、と考えられます。ところが、現存の『教行信証』は、教巻(教文類)、行巻(行文類)のあとに、「信巻」(信文類)がつづく構成になっています。行巻と証巻(証文類)とのあいだに信巻が位置づけられているのです。しかも、信巻には、他巻にはない「序」が立てられており、分量的にも、教、行、証三巻それぞれをしのいでいます。本論考では、信巻がいつ書かれたのかという点まで具体的に検証することはできませんが、親鸞が信巻に対して、他巻にまさるとも劣らない思い入れをしていたことだけは、事実として指摘しておかなくてはなりません。

 親鸞の思い入れには、明確な理由があったようです。教巻から行巻へ、そして証巻へと筆を進めていたとき、親鸞は、南無阿弥陀仏ととなえる行が、弥陀の本願への絶対の憑依とも言うべき信心(信)によって裏打ちされていなければならないこと、そして、その「信行一体」の思想が師法然によって説かれていたことに、あらためて気づいたのだと考えられます。法然が主著『選択集』のなかで、「念仏為本」(あるいは「念仏為先」)と語っていることは、今日広く知られるところとなっています。けれども、法然のその言説は、ひたぶるに念仏だけをとなえてさえいれば、それだけで十分だという意味ではありません。弥陀の本願、わけても「至心信楽(ししんしんぎょう)の願」たる第十八願に、みずからの教法の根本を置く法然(彼は、第十八願を「王本願」と呼びます)にとって、念仏とは、当然ながら信心に基礎づけられているべきものでした。親鸞は、「教行証文類」を書き進めてゆく過程で、このことを確認し、さらには、法然は言外に「信心為本」を説いていると見たのではないでしょうか。それゆえ、親鸞は、信巻を他巻とは別立ての一巻とし、そこに「総序」とは別の「序」を据えることにしたもの、と推察されます。

 もとより、このことは、親鸞が、ただ信巻のみを重視し、他の諸巻を軽んじたことを意味しているわけではありません。浄土宗の仏法たるゆえん、すなわち綱格を示すという意味で、教、行、証の三巻は、絶対に不可欠であったことでしょう。また、真仏土巻も方便化身土巻も、それぞれ重要な意義を担っていたはずです。けれども、仏法としての綱格からややずれる形で信巻を立てたとき、親鸞は、信心をこそ浄土宗の要(かなめ)ととらえる立場を確立したもの、と推断されます。では、親鸞の言う「信心」とは、どのような内実と構造とを有するものだったのでしょうか。そもそも、人はなぜ信のうちに身を投じなければならないのか。本論考では、親鸞関係の文献のなかでもっとも一般的な文献『歎異抄』を手がかりとして、こうした問題に迫ってみたいと思います。

 

 

 以下に掲げるのは、『歎異抄』第一条の全文です。

 

弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思ひたつこころのおこる時、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめ給ふなり。弥陀の本願には、老少・善悪(ぜんまく)の人をえらばれず。ただ、信心を要とすと知るべし。そのゆゑは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに、と云々。

 

 これは、信心と念仏、および両者の関係について、親鸞がどのような思想をいだいていたのかを、集約的に示す言説です。ここで、親鸞は、まず、弥陀の誓願ということに言及しています。親鸞が浄土宗の教えの大元(おおもと)となすもの、すなわち正依の根本経典とするものは、『無量寿経』(大経)です。もとより、親鸞は、「浄土三部経」を成す他の二つの経典、『阿弥陀経』と『観無量寿経』とを軽視していたわけではありません。しかし、彼が全面的な信憑を置き、みずからの思想の原点とするものは、『無量寿経』でした。『無量寿経』は、弥陀の誓願の由来について、およそつぎのように語っています。

 いまから十五劫(こう)も以前のことです。一劫とは、三年に一度、天から天女が地上に降りてきて、薄い羽衣で四十里四方もある巨大な石をひとなでして、また天へと帰ってゆく、これをどこまでもくりかえしたのちに、巨石が完全に磨滅してしまうまでの時間を表わします。途方もなく長大な時間です。十五劫は、その十五倍ですから、もはや、わたくしどもの知の及びうる範囲を超えています。それは、非量数、あるいは事実上の無限と言うしかないでしょう。日本語では、むかしむかしの大むかし、そのまたむかしの大むかし、とでも表現するしかありません。そのとてつもない大むかしに、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という名の仏がいて、そのもとで法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という人が仏になるべく修行に励んでいました。法蔵菩薩は、一切衆生を救うために、もっとも清浄なる世界、すなわち浄土を建立したいと願いました。すると師匠の世自在王仏は、二百一十億の浄土を顕わし示してくれました。法蔵菩薩は、それらのなかから粗悪な諸要素を捨て、もっとも精妙なる諸要素を集めて、新たな浄土、すなわち西方極楽浄土を建立しました。ところが、いったいどうすれば衆生をそこへと導き入れることができるのかがわかりませんでした。そこで、法蔵菩薩は、五劫という膨大な時間をかけて思惟(しゆい)しました。その「五劫思惟」の結果、樹立されたのが四十八の誓願でした。これらは、「わたしを信じる人々が~という情態にならないかぎり、わたしは正覚(しょうがく)を取らない(仏にはならない)」と誓いかつ願うものです。一般に、「四十八誓願」、あるいは「四十八願」と呼ばれます。法蔵菩薩は阿弥陀如来(阿弥陀仏)となり、その後十劫を経たとされておりますので、浄土教では、それらの誓願は、現在においてすべて成就されているものと考えられています。

 『歎異抄』第一条に言う「弥陀の誓願」とは、大きくとらえれば四十八誓願のことで、よりいっそう厳密には、法然によって「王本願」と名指された第十八願のことです。『無量寿経』によれば、第十八願とは、つぎのようなものです。

 

たとひわれ仏(ぶつ)を得たらんに、十方の衆生至心信楽(ししんしんぎょう)してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。もし生ぜずば、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)とをば除く。

 

 あらゆる人々が、わたしを心の底から信じ、わたしの国、西方極楽浄土に生まれたいと乞い願って十遍ほども念仏をとなえたとしよう、その場合に、もし彼らが生まれることができないとすれば、わたしは覚者(仏)とはなるまい、ただし、五逆の罪を犯すものと正しい仏法を誹謗するものについては、このかぎりではない、という意味です。上に述べたように、法然はこれを「王本願」と呼びます。四十八願を一つに集約し、代表する願だということです。親鸞も法然にしたがって、これを四十八願のなかのもっとも重要な誓願ととらえます。『歎異抄』が「弥陀の誓願」あるいは「弥陀の本願」と言うとき、それは、この第十八願を指すものと推断されます。『歎異抄』第一条は言うのです。第十八願の人智の思量(はからい)を絶した権能に助けられて、浄土に往生できると信じて念仏をとなえようという心持ちの起こった人は、かならず救い取って捨てないという阿弥陀如来の摂取不捨のはたらきに与(あず)かることができるのだ、と。ここにおいて、親鸞は、道綽、善導から法然へといたる浄土教の伝統にしたがって、念仏を観想、観相としてではなく、口で南無阿弥陀仏ととなえる口称(くしょう)の念仏としてとらえています。ここでくれぐれも注意をはらうべきは、親鸞が、阿弥陀如来の第十八願に言う「至心信楽」ということを踏まえながら、人々に念仏の行を勧めている点です。親鸞は、念仏の根底には、弥陀の本願への絶対的信(信心)がなければならないと主張しているのです。

 『歎異抄』第一条の親鸞は、さらに語ります。弥陀の本願のもとでは、老人か若者かといった区別や、あるいは、善人か悪人かという差別などありえない、ただひたぶるに信心するということこそが肝要なのだ、と。ここには、「信心為本」という認識がはっきりと打ち出されています。もとより、親鸞は、信心さえもつことができれば、念仏はもはや不要になるなどと考えていたわけではありませんでした。しかし、彼にとってまず第一に肝要なのは、信心にほかならなかったのです。追い継いで、親鸞は言います。弥陀如来の本願は、罪深くして悪にまみれ、煩悩の炎の燃えさかるわれわれ凡愚を助けるために立てられたのだから、本願を信じたからには、その信心によって裏づけられた念仏以外のどのような善も、もはや必要ではない、信心に基づく念仏にまさるような善などありえはしないのだから、と。親鸞思想の根幹をなすものが、信心以外の何ものでもなかったことが、よくわかります。親鸞は、人間生活をめぐるあらゆる問題が、信心一事によって解決されうると考えていたようです。悪をもおそれるには及ばない、弥陀の本願を妨げるほどの悪などありえないのだから、と述べて『歎異抄』第一条の語りをしめくくっていることに注意をはらうならば、親鸞は、悪という、人間存在にとってもっとも根源的な問題でさえも、弥陀の本願への信心によって解消されうると考えていたように見うけられます。

 次回以後の続稿でも詳しく述べることになるでしょうが、わたくしどものような愚なる凡夫にとってのもっとも大きな苦しみは、自分がどうしても悪を避けることができないということです。悪であることは、善にむかってまったく心が開かれていないこと、言いかえれば善への途(みち)をとざされているということですから、完全に無力であることを意味しています。無力であるかぎり、わたくしどもは、他者に利益(りやく)をもたらすようなことを、何一つとして実行できません。ただ自己自身のためにのみ、生きかつ行動せざるをえないということになってしまいます。これほどの不幸がほかにあるでしょうか。人間とは、自己の利益を求めると同時に、他者の幸せをも希(ねが)うようにできている生き物です。つまり、「自利利他円満」であってこそ、はじめて人は、みずからが真の意味で人間たることを確認しうるのだ、と申せましょう。親鸞の言う信心は、人を人間の本来的

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な態様(すがた)へと差し向けるよすがとなります。親鸞が、「念仏為本」と語る法然や、あるいは、法然が「偏依(へんね)善導」とまで述べて尊崇の念と全幅の信頼を寄せる善導にも増して、信心ということを強調するのは、まさに、このことをはっきりと意識するがゆえではないでしょうか。

 ただし、『歎異抄』第一条の親鸞の言説には、論理の面から見た場合、少々難点があるようです。『無量寿経』の第十八願には、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」とあるのに対して、『歎異抄』第一条の親鸞が「弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず」と断言している点が、それです。『無量寿経』の第十八願を虚心に受けとめるならば、そこでは、多少の悪は許容されるとしても、五逆を犯す者や正しい仏法を誹謗する極悪人は、いずれも弥陀の本願から洩れるとされていると解さざるをえません。ですが、『歎異抄』第一条の親鸞は、信心さえもっていればどのような悪人もかならず救われると主張しているように見うけられます。この点において、親鸞の認識は、経典の説くところから逸脱していると思われるのですが、さて、それはいったいどう考えるべきなのでしょうか。

 法然は、みずからが「王本願」と見なす第十八願に言及する際、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」という例外規定にまったく触れようとしませんでした。法然は、おそらく、この例外規定を、極端な例示をもって人々を戒める抑止門(おくしもん)ととらえたのでしょう。『歎異抄』第一条の親鸞にとっても、そうだったのかもしれません。しかし、親鸞にとって、『無量寿経』は、他のいかなる経、論、釈にも増して重要な根本聖典でした。彼は、『無量寿経』の一字一句をもゆるがせにはできなかったはずです。実は、『教行信証』の親鸞は、当面の例外規定に真っ向から対(む)き合い、その意味するところを徹底的に見きわめようとしています。彼は、この「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」という例外規定をいかにとらえたのか。いったん、『歎異抄』を離れて、『教行信証』の論脈を追ってみましょう。

 

 

 親鸞は、『教行信証』の信巻において、巻全体の四割近い分量をついやして、「王舎城の悲劇」を引用しています。信巻、ひいては『教行信証』全体の主意は、この膨大な引用にこそこめられていると主張する研究者もいます(山折哲雄など)。決定的なまでに正しい解釈とは言えないかもしれませんが、一理あるとわたしは思います。では、「王舎城の悲劇」とはどのような物語なのか。親鸞自身が依拠する『涅槃経(ねはんぎょう)』と、善導の『観経疏(かんぎょうしょ)』序分義(じょぶんぎ)とに基づいて、簡潔にこれを再現してみましょう。

 釈尊在世のころ、インドの大国マガダ国の首都王舎城に、ビンバシャラ(頻婆娑羅)という、釈尊の仏法に篤く帰依する王がおりました。ビンバシャラは、后イダイケ(韋提希)と仲むつまじく暮らしていましたが、残念なことに、跡継ぎの息子がなかなか生まれませんでした。そこで、占師に占わせてみたところ、とある山中で修行中の仙人が死ねば、后イダイケはたちどころに男子を身ごもるであろう、とのことでした。ビンバシャラは、仙人が死ぬのを、いまかいまかと待ちこがれていました。しかし、相手は仙術を体得した仙人です。そう簡単に死ぬはずもありません。待ちあぐねたビンバシャラは、仙人に死ぬことを要求し、それを断わられるや、とうとう、配下の者を遣わして仙人を殺害してしまいました。仙人は、殺される間際に、「わたしは、王の息子に生まれ変わって、やがてかならず王を殺害するであろう」という呪いのことばを発したそうです。仙人が死ぬと、イダイケは即座に身ごもりました。しかし、仙人の呪いのことばは、ビンバシャラの胸のうちにわだかまりを残したようです。彼は、再度占師を呼び寄せて、后の胎内の子どものゆくすえを占わせてみました。すると、胎内の子どもは、長ずるに及んで父王を殺害するであろう、とのことでした。

 やがて、イダイケは産み月を迎えました。ビンバシャラは、占師による占いの内容をイダイケに伝え、生まれてくる子どもを始末してくれるように頼みました。ビンバシャラの意を汲んだイダイケは、城の高楼にのぼって男の子を産み、その子を高楼から地上に突き落としました。ところが、生まれたばかりの男の子は、指を一本折っただけで、死を免れました。やむをえず、ビンバシャラとイダイケは、男の子をアジャセ(阿闍世)と命名して育てることにしました。アジャセは、すくすくと成長しましたが、青年期を迎えると、事あるごとに父王と対立するようになります。そんなある日のこと、かねてから釈尊の教団を乗っ取ってわがものにしようとたくらんでいた、釈尊の従弟ダイバダッタ(提婆達多)が、アジャセのもとを訪れます。ダイバダッタは、さまざまな神通力を見せつけることによって、アジャセの信頼を得ました。あるとき、ダイバダッタは、アジャセに彼の指が一本折れている、その理由を教えました。事の次第を知ったアジャセは、激怒します。そんなアジャセの耳元で、ダイバダッタはささやきました。自分は、釈尊を亡きものにして仏法の世界の頂点に立つから、皇太子よ、あなたは、父王を殺して王法の世界に君臨しなさい、と。

 ダイバダッタの甘言に乗せられたアジャセは、父王ビンバシャラを捕らえて城内に幽閉し、いっさいの飲食を断ちました。父王はほどなく息絶えるはずでした。ところが、十日以上を経てもビンバシャラはなおも存命でした。不審をいだいたアジャセが配下に事情を訊いてみると、ビンバシャラの幽閉所にただ一人だけ出入りを許されているアジャセの母イダイケが、夜ごと、全身に飲食物をぬりたくり、それをビンバシャラに与えている、ということでした。激怒したアジャセは、母をも殺そうとします。腹ちがいの弟であり大臣でもあったギバ(耆婆)に諫められたアジャセは、殺すことだけは思いとどまったものの、イダイケをどうしても許すことができませんでした。アジャセは、母をも城中に監禁してしまいました。かくして、飲食物を完全に断たれたビンバシャラは、まもなく死を迎えます。事はアジャセの思いどおりに運びました。ところが、いざ父が死ぬ段になると、暴虐の人アジャセにも、さすがに後悔の念が起こりました。それと同時に、アジャセの全身に瘡(かさ)が生じ、それは膿みただれて、だれも近寄れないほどのひどい悪臭を放ちました。アジャセは、すっかり憔悴しきってしまいます。

 憔悴し、頭髪をふり乱したアジャセのもとに、六人の大臣たちが伺候しました。彼らは、口々に、それぞれが帰依する六師外道(げどう)の教え(仏法以外の思想)を伝え、アジャセを慰めようとします。ある者は、因果応報説など虚言にすぎないのだから、父を殺したとて報いなどあるはずもないと語り、また、ある者は、父を殺して王位に就くのは王法の世界では当りまえのことなのだから、何ら気に病む必要はないと説きました。けれども、「五逆」(父殺しは、その第一)を犯した者は地獄に堕ちるという、一般の仏法者の所説を気にかけ、恐怖心を抑えきれなかったアジャセにとって、六師外道の言説は、まったく心魅(ひ)かれるものとはなりえませんでした。アジャセの気力はますます衰え、その病状は悲惨の度を増してゆきました。最後に彼のもとに伺候したのは、名医でもあったギバでした。地獄に堕ちるのではないかという恐怖を口にするアジャセにむかって、ギバは言います。「王よ、あなたの病(やまい)を癒やせるおかたは、浄飯王(じょうぼんおう)の子息で、いまは釈迦如来と呼ばれているおかた以外にはおられません」と。すると、天から声がとどろいて、「いますぐ釈尊に会いにゆけ」と命じました。いまは亡き父ビンバシャラの声でした。驚いたアジャセは、その場に倒れ伏します。

 やがて、かろうじて立ちあがったアジャセは、ギバとともに象に乗り、当時霊鷲山(りょうじゅせん)(耆者崛山(ぎしゃくつせん))にいた釈尊のもとへと向います。全身瘡にまみれ、憔悴しきったアジャセの姿を一目見て、釈尊は言いました。「あなたは、たしかに父殺しという五逆の一つを犯した。しかし、いまはそれを慚愧しておられる。この慚愧あるかぎり、あなたはかならず救われるであろう」と。そのとき、釈尊は、月愛三昧(がつあいさんまい)に入りました。釈尊の全身から大光が放たれ、その光を浴びたアジャセの瘡は瞬時にして癒え、彼は正気を取り戻しました。これ以後、アジャセは、釈尊に篤く帰依し、釈尊の教団の支援者となった、ということです。

 以上のような趣旨の物語、すなわち「王舎城の悲劇」を、親鸞は、『涅槃経』から、さまざまな断片をより合わせる形で、『教行信証』の信巻に延々と引用しています。その大部にわたる引用が、単に物語の興趣に魅かれてのことにすぎなかったとは、とうてい考えられません。親鸞には明確な意図があったと思われます。すなわち、親鸞は、ここで、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」という、『無量寿経』の第十八願の例外規定を念頭に置きながら、懸命になって、五逆の罪を犯した者はほんとうに救われないのかどうかを問うているもの、と考えられます。この問いへの答えは、上記のような引用の末尾において、あきらかにされているようです。アジャセのごとく、五逆の罪を犯す者であっても、己れの罪悪を慚愧し、改悔(がいけ)するならば、かならず仏によって救われる、例外規定は、慚愧、改悔と無縁な者に対してのみ当てはまるのだ。親鸞は、そのような見解にたどりついたのではなかったでしょうか。ただし、親鸞は、誹謗正法については、慚愧、改悔によって許される(救われる)とは説いていません。「王舎城の悲劇」のなかで、誹謗正法を具現する人物が、ダイバダッタにほかならないことは、ことあらためて論ずるまでもないと思います。諸種の経典は、釈尊を襲撃して逆にみずからが傷つき、無間地獄に堕ちるという、ダイバダッタのみじめな末路を描いています。しかし、親鸞は、そうした記述をまったく引用していません。『教行信証』においては、誹謗正法の問題が十分に解きほぐされていない、と申せましょう。

 ですが、これは致しかたのないことだ、とわたしは思います。『教行信証』は、親鸞の最晩年に至るまで、加筆、修正が重ねられた書であり、善導の『観経疏』や法然の『選択集』のように、完成された姿を取っていないからです。誹謗正法も、五逆と同様に、慚愧、改悔によって救われる。『教行信証』信巻の筆勢は、親鸞がそう言いたかったことを示唆しているようにも見うけられます。ひょっとすると、親鸞は、さらに信巻を書き継ぐことを予定していたのかもしれません。もし、そうであるとするならば、『教行信証』は、やはり未完の書であり、その未完成な部分には、誹謗正法をいかにとらえるべきかという点をめぐる思索が含まれていたのではないか、と推測することも可能になってくるでしょう。

 いずれにしても、『教行信証』の信巻において、親鸞が、第十八願の例外規定をいかに解するべきかという問題に果敢に取り組んだことは、厳然たる事実です。そして、その難題を解きあかすための鍵は、「信心」のうちにありました。どのような悪人であれ、たとえそれが五逆の罪を犯すような極悪無道な人間であるとしても、慚愧、改悔を経て本真の「信心」をもつに至れば、かならず、弥陀の本願力によって浄土へと摂め取られる。親鸞は、当面の問題に対して、そのように答えようとしていたのではないでしょうか。親鸞は、どこまでも「信心為本」の立場をつらぬきとおしたのだ、と申せましょう。ただし、その「信心」は、わたくしどもが常識の範囲で考える通常の信心とは、根本的に異なる構造を示すものでした。では、その異なる構造とは、具体的にどのようなものであったのか。節をあらためて、この点を論じてみましょう。

 

 

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論(そうろん)のさふらふらんこと、もつてのほかの子細(しさい)なり。親鸞は弟子一人(いちにん)も持たず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、弥陀の御もよほしにあずかつて、念仏申しさふらふ人を、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、離るべき縁あれば離るることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんど言ふこと、不可説なり。如来より賜はりたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然(じねん)の理(ことわり)にあひかなはば、仏恩をも知り、また、師の恩をも知るべきなり、と云々。

 

 上に掲げたのは、『歎異抄』第六条の全文です。ここで、親鸞は、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と断言しています。覚如の『口伝鈔』第六条にも同様の発言が記されていま

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すから、これは、実際に親鸞が弟子に対(むか)って語ったことばであった、と考えられます。現在、広く人口に膾炙(かいしゃ)しているこのことばは、親鸞の、「単独者」としての自覚を示すものと解されることが多いように見うけられます。キルケゴールが説くように、真の宗教者は、単独に、つまりたった一人で絶対者に対向(たいこう)(向き合うこと)します。横並びに並んだ仲間たちと一緒に、和(なご)やかに絶対者の面前に立つなどということは、真の宗教者には起こりえようはずもありません。親鸞も、たった一人で、静かに弥陀と対(む)き合い、弥陀とことばにならない対話を重ねることによって、みずからの信心を深めていったもの、と考えられます。しかしながら、「このわたし、親鸞には弟子などという者はただの一人すらいない」というこのことばは、ひたぶるに内面の問題としてのみ発せられたわけではありません。

 親鸞が常陸国(ひたちのくに)笠間郡(かさまごおり)稲田郷(いなだごう)(現、西念寺)での著述と布教の活動を、ほぼ二十年間で打ち切り、京都へと帰郷してのち、関東の門弟たちのあいだには、熾烈な弟子争いが起こっていたようです。親鸞は稲田を拠点として布教活動を展開した結果、関東で六十余名の面授の門弟を得た模様です。彼ら門弟たちの大半は、道場主として活動していたと考えられます。親鸞の宗教浄土真宗(「真の浄土宗」という意味であって、今日の一仏教宗派としての浄土真宗とは異なります)においては、道場とは、説法と聞法(もんぼう)の場であり、他宗派の寺のような機能を担っていたわけではありません。説法や聞法は、信心に裏うちされた営みであり、したがって、説法や聞法の場としての道場は、門徒たちが互いの信心をたしかめ合う場所にほかならなかったと申せましょう。ですが、他宗派の寺と同様に、浄土真宗の道場にも、経営基盤がなくてはなりませんでした。道場の経営は、道場に通ってくる門徒たちの道場主への志納の金品によって成り立っていたはずです。したがって、道場主たちにとって、道場に通ってくる門徒、つまり弟子が多いということは、経営と生活とが安定することを意味し、逆に弟子が少ないということは、経営と生活とが窮地に陥ることを意味していたと言ってよいでしょう。そこに、宗教的威信よりも、むしろ己れの生活を賭した弟子争いが起こります。道場主たち、すなわち親鸞の門弟たちは、生活の糧を確保するために、激しい弟子争いを展開したのでした。親鸞は、こうした弟子争いをやめさせるために、教えの大元(おおもと)とも言うべきわたしには弟子など一人もいない、と述べているのでしょう。

 親鸞によれば、南無阿弥陀仏という念仏は、人々が自分の力で主体的かつ能動的にとなえるものではなく、弥陀のもよおしによって、すなわち弥陀の本願力に導かれて、人々がおのずからにとなえさせられるものでした。それゆえ、親鸞は言います。他の人々に、わが力で人為的に念仏をとなえさせるというような事態など起こりえようはずもない、と。親鸞から見れば、念仏をとなえる人々は、全員が例外なしに弥陀じきじきの弟子であって、特定の師匠の弟子などではありえない、ということになります。このように、念仏が弥陀のもよおしに与かることによって成る純粋に受動的な営みだとするならば、念仏をその根底から直接に支えて立つ信心も、当然のことながら、純粋受動の心のありようでなければならない、と考えられます。事実、『歎異抄』第六条の親鸞は、はっきりと、「如来より賜はりたる信心」という認識を示しています。わが浄土真宗の根本とも言うべき信心は、阿弥陀如来が直接門徒たちに与えたもうたものであって、このわたし親鸞や道場主たちから授けられたものなどではありえない、と言うのです。ここでは、信心は、人が自力で獲得するものではない、それは、いわば弥陀の絶対他力によって受動的に導かれて成るもの、つまりおのずからに起こるものだ、という考えかたが前面に押し立てられています。親鸞は、信心に関して、「我→弥陀」という構造を認めませんでした。親鸞は、ひたすら、「弥陀→我」という構造のもとに、信心をとらえていたと言わなければなりません。

 わたくしども現代人は、人間の個人的能力に大きな信頼を寄せています。何事であれ、すべてが、わたくしどもの「個」性に基づいて営まれると言うのです。そのようなわたくしどもは、信心は他力なり、それは、絶対者から与えられるものであって、いっさいの主体性と無縁であると説かれても、にわかには認めることができないことでしょう。しかしながら、宗教的実存としての人間は、自己の無力さを十分に自覚していますから、自分の力で単独に何事かをなしうるとは考えません。無力でしかないわたしは、自己の権能に寄りすがって能動的に信を獲得することなどできはしない、わたしは、絶対者に動かされ、いざなわれて、ようやく信をもつに至るのだ。宗教的実存としての人間は、かならずそのように考えるはずです。わが国における浄土教の大成者と呼ぶべき親鸞ばかりではありません。いまだ揺籃(ようらん)期にあったキリスト教を新プラトン主義に基づいて系統化ないし体系化した、西洋古代末期の思想家アウグスティヌスも、その自伝的な著書『告白』(Confessiones)の冒頭部分で、つぎのように語っています。

 

主よ、わたしの信仰(fides)はあなたを呼び求めます。その信仰は、あなたがわたしにお与えくださったものであり、あなたの御子(みこ)の人性(humanitas)を通じて、あるいは、あなたの宣教師の奉仕を介して、あなたがわたしに注ぎこまれたものです。

 

 アウグスティヌスによれば、自己の信仰は、たしかに、主なる神を呼び求めており、そのかぎりにおいて、主体的かつ能動的であるかのように見えます。しかし、その信仰が神を求めるのは、それ自体が、イエス・キリストの人としての側面(人性)をとおして、あるいは、最初の宣教師パウロの神への奉仕を介して、神がわたしの内面に注入なさったものにほかならないからだ、とアウグスティヌスは言います。ここに親鸞の場合と同様の信仰の構造「神→我」がみとめられることは明白です。すべての宗教的実存は、「絶対者(超越者)→我」という構造のもとに、信の在りようをとらえていたと言っても、あながち失当ではないでしょう。

 ただし、『歎異抄』第六条の言説に関しては、いくつかの微妙な問題が浮上してくるようです。まず一つには、「このわたし親鸞には弟子など一人もいない」という言明が、現実生活における実際の親鸞の在りように反しているのではないかという問題です。『歎異抄』第二条によれば、親鸞は、関東からはるばる「十余ヵ国の境を越えて」上京してきた門弟たちにむかって、こう述べたそうです。

 

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈(おんしゃく)虚言(きょごん)し給ふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ虚言(そらごと)ならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもつてむなしかるべからず候ふか。

 

 親鸞は、ここで、釈尊に始まり、善導、法然を経て、最終的に自分自身にまでつながる浄土教の法統を強調しています。その法統が、親鸞から彼の弟子へと引き継がれるべきものであったことは、自明のことです。また、晩年を京都で過ごした親鸞は、現存するだけでも数十通にも及ぶ書簡を関東の門弟たちに送り、時に、その書簡が大勢の門徒たちのあいだで回覧されることをすら要望しています。親鸞が弟子をもっていたこと、すくなくとも、信心の絆でつながった人々に対して、彼らを弟子として大切にしようという意思を心底に有していたことは、否定できない事実だと言っても、けっして誤りではないでしょう。この点、つまり、弟子などいないと言いながら弟子をもっている点において、親鸞は矛盾を犯しているのではないか。そういう疑念が生じます。

 おそらく、親鸞は、現実と理念とを、はっきりと分けてとらえていたのでしょう。現実問題としては、自分には師匠もいるし弟子もいる。しかし、理念的には、その弟子たちは、すべて弥陀じきじきの弟子と考えるべきであって、わたしの弟子と見ることは許されえない。親鸞は、そう考えていたのでありましょう。けれども、現実と理念のちがいを明確に説かないかぎり、親鸞の言説は、無用な誤解を招くおそれがあります。弟子争いを厳しく戒める彼のことばを耳にした門弟たちの多くは、深く自省して、それまでのみずからの態度を改めたことでしょう。ですが、なかには、親鸞の言説を、ただ理念にのみかたよった単なるきれいごとととらえ、それよりもむしろ現実をいかに生きるかを優先して、その言説に対して耳をふさぐ門弟たちも、少なからずいたものと思われます。

 『歎異抄』第六条の第二の問題は、親鸞が釈尊の仏法を奉ずる人、すなわち仏弟子であることから生じてくるものです。親鸞は、信心が徹底して受動的であること、つまり、「弥陀→我」という構造をもつことを強調しました。ところが、前回の論考「仏法とは何か」でも検討したように、仏法とは、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃寂静」ということ、すなわち「三法印(さんぼういん)」を押し立てる教法でした。弥陀から信心がもたら

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されること、それは、弥陀の摂取不捨の誓いに与かって浄土へと往生し、そこでさとりを得ることを意味していますから、当然ながら「涅槃寂静」ということにつながっている、と考えられます。しかし、いっさいの事物は、この刹那、すなわちこの一瞬にも止住することなく(「諸行無常」)、それゆえに、実体としての主体我(しゅたいが)に支えられず無我(むが)(「諸法無我」)であるとするならば、弥陀から信心を与えられる我(われ)などというものは、もはやどこにも存在しえないということになってしまいます。ならば、「弥陀→我」という図式をもって示される信心の構造は崩れ去る、と考えざるをえません。その構造は、厳密には、「弥陀→我(×)」とでも表わす以外には手立てはありますまい。けれども、このように図式化してみても、その意味するところがはっきりしません。親鸞の言う、信心の純粋な受動性ということを、仏法の論脈に即する形で、無理なく説明するにはいったいどうすればよいのか。それが、『歎異抄』第六条をめぐる第二の問題であり、本論考の最後の課題でもあります。

 

 

 親鸞は、『教行信証』行巻の末尾に掲げられた「正信念仏偈」の龍樹讃のなかで、こううたっています。

 

南天竺(なんてんじく)に龍樹大士(だいじ)世に出(い)でて、

ことごとく有無(うむ)の見を摧破(ざいは)せん。

 

 これによれば、大乗(マハーヤーナ)の完成者とも言うべき龍樹(ナーガールジュナ)が、有見(うけん)と無見(むけん)とを打ち砕いた、とのことです。有見とは、素朴実在論、つまり、万事万物を無条件に実在と見る見解です。無見とは、逆に、万事万物は例外なしに非実在だとする見解です。親鸞は、有見も無見もともに邪見であって、有見にも無見にもとらわれずにあくまでも中道をゆく龍樹が、これらのいずれをも打ち破った、と言うのです。有見が仏説に反することは自明ですが、無見については微妙な問題があります。すべての現実存在を空無にして非在と見なしてしまうことには、わたくしどもの常識的判断(俗諦(ぞくたい))からして、当然、無理があります。しかし、もし、無見が真諦(しんたい)としての理念態から説かれ、現実態(俗諦)に限定して考えれば、いっさいの事物は縁起(えんぎ)によって成るがゆえに主体我をもたない(無自性(むじしょう)である)と主張するものだということになると、それは、けっして仏説から逸脱していないと解せられるからです。「正信念仏偈」の親鸞は、無見を、真諦の次元(理念態)にまで空無我をもちこむ邪説、すなわち「断見(だんけん)」ととらえ、これを龍樹にならって拒斥(きょせき)しているのでしょう。親鸞は、本真の仏説たる「諸法無我」を否定しているわけではない、と見るべきだと思われます。

 諸法無我を認めるとすれば、親鸞の信心観のなかで「弥陀→我」という構造が求められる場合の、その「我」は、実体性のないものということになります。実体なき「我」、空

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無にほかならない「我」が、弥陀から信心を与えられて在る。これは、奇怪な考えかたです。親鸞が自己の信心観を十全なものとするためには、信心を与える能作者(のうさしゃ)たる阿弥陀如来に対して、信心を与えられる所作者(しょさしゃ)としての「我(が)」が定位されなければならないはずです。しかしながら、釈尊は、諸法無我という認識をみずからの思索の根幹に据えています。すべての事物には主我主体などはなく、それらはみな、「縁」によって現に「起」こっているかのように見えているにすぎない、と釈尊は言うのです。釈尊の仏法を承け継ぐ者としてみずからを規定するかぎり、親鸞は、信心を受容する我(われ)は、本来無我であると考える以外に、何の手立てももちえなかったはずです。かくて、親鸞においては、信心は、瞭然たる受け手を欠いた、いわば宙づりの作用(はたらき)ということになってしまいます。言いかえれば、親鸞にとっての信心は、志向対象を特定しない純粋能作(のうさ)にほかならない、と申せましょう。

 しかも、その純粋能作(作用性そのもの)としての信心の発出起点には、本来、何ものも具体的な有(う)としては存在していない可能性があります。親鸞は、『教行信証』証巻冒頭の自釈文において、こう述べています。

 

無上涅槃はすなはちこれ無為法身(むいほっしん)なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性(ほっしょう)なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば、弥陀如来は如より来生(らいしょう)して、報(ほう)・応(おう)・化(け)、種々の身を示し現じたまふなり。

 

 これによれば、親鸞は、阿弥陀如来を無為法身ととらえていたことがわかります。ここでは、無為法身は実相であり法性である、さらには真如、一如とも解せられると言われていますが、いずれの場合にも、弥陀は具体的な形相をもたない存在、つまり本質において無であるということになります。真如は、絶対的な、宇宙の意思とでも解するべきでしょう。そのような無人称的な意思は、実体化されようはずもありません。親鸞は、真如あるいは如から来生して、報身、応身、化身という形を取るものとして弥陀をとらえているわけですが、弥陀の本来の態様は、形を超えた「無」以外の何ものでもない、と申せましょう。

 ならば、信心とは、無を起発点として生じた作用(はたらき)であって、しかも、その到達点(志向対象)もやはり無(無我)だと考えざるをえません。さしあたって、無から起こり、どこにもたどり着くべき対象をもたない純粋用(ゆう)が、この宇宙のなかを漂っているという事態が、親鸞の言う信心の実態にほかならないと解せられます。すると、本論考の前節で解明されたはずの「弥陀→我」という信心の構造は、言ってみれば、虚態にすぎなかったことになってしまいます。しかし、常識的に考えると、無に発する用(ゆう)(はたらき)が無にむかうというような論理は、実に奇怪なものだと言わざるをえません。にもかかわらず、親鸞を、釈尊の仏法の正統なる継承者として位置づけようとするかぎり、わたくしどもは、そのような論理にどうしても立たざるをえません。問題は、暗礁に乗り上げてしまったように見えます。これを解決するには、親鸞自身があらわには語らなかった一つの論理を、いまここに導入せざるをえないのではないか、と考えられます。

 それは、プラトンのイデア論のなかに、もっとも典型的な形で示される論理、いわゆる「場所(コーラー)の論理」です。プラトンのイデア論は、『パイドロス』や『国家』などの中期対話篇において確立され、やがて『パルメニデス』や『ティマイオス』などの後期対話篇へと引き継がれていったものです。それは、中期対話篇の段階では、一つ一つの個物がイデアを分有する(メテケイン)という形をとっていました。たとえば、さまざまに形が異なる三角形について、それらのいずれもが三角形であることがわかるのは、それらが「三角形そのもの」として観念されるもの、すなわち三角形のイデアを分有しているからにほかならない、とプラトンは説きました。観念実在論の立場、すなわち、観念がこの世界内に実在するという見解に立てば、いちおう納得のゆく論理だと思います。しかしながら、このように考えた場合、一つ一つの物、すなわち個物が分有するところのイデアは、さらにイデアのイデアを分有の対象として想定せざるをえなくなり、かくて、イデア論は無限遡行に陥ってしまいます。イデアは、イデアのイデアを分有し、イデアのイデアは、イデアのイデアのイデアを分有しなければならないということになるのです。また、よりすぐれた存在であり、したがって、他の何ものよりも先に在らねばならないはずのイデアが、それを分有する劣った存在としての個物の後(あと)に在ることになります。後期対話篇のプラトンは、イデア論のかかえこむこうした難点を、「場所の論理」を導入することによって克服しました。後期のプラトンは、個物がイデアを分有することによって個物となるのではなく、イデアが或る場所(コーラー)に現象すること、すなわちそこに立ち現われることによって個物が成り立つと考えました。例えば、三角形のイデアが或る場所に立ち現われることをとおして、個々の現実存在としての三角形が成り立つ、と言うのです。 

 このような「場所の論理」を援用するとすれば、親鸞の信心観はどのように解されるでしょうか。まずは、信心という空に宙づりの純粋能作が、特定の場所に立ち現われる(現

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象する)と考えることができます。この場合、場所は、何らかの在るものでなくてはなりません。親鸞の論脈をていねいに追えば、その、何らかの在るものとは、念仏以外にはありえないのではないか、と推断されます。南無阿弥陀仏と口でとなえる念仏、それを場所として、そこに信心が立ち現われるという考えかた。それは、親鸞が明確な形で言語化するところとはなっていません。しかし、念仏は信心によって裏づけられていなければならず、信心は念仏によって具体化されなければならないとする親鸞、すなわち「信行一体」の立場をつらぬく彼は、諸法無我という仏法の基本原理を守ろうとするかぎり、そのような考えかたを取らざるをえなかったもの、と思われます。ただし、そのように推察してもなお、信心という純粋能作の志向対象は、判然としません。「わたし」において信心が立ち現われ、それが「わたし」自身の念仏となるといったたぐいの物言いは、仏法の文脈のなかではけっして許されないのです。わたしは前回の稿「仏法とは何か」において、仏法の根底には絶対的自己否定性が存する、と説きました。純粋能作(純粋用(ゆう))として信心をとらえる考えかたは、何らかの形で、この絶対的自己否定性ということにつながっているのでしょう。すべてを空無ならしめる絶対的自己否定性が、何事かを契機として信心のただなかに滲入(しんにゅう)する、そして、そこに、信心が志向対象を捨て去って純粋能作化するという事態が起こる、と考えてもよいのかもしれません。しかしながら、信心の構造をめぐる議論に、これ以上深入りすることは避けたいと思います。さらなる深入りは、本論考におけるわたしの思索をいたずらに形而上学化することにつながりかねません。可能なかぎり形而上学を回避しながら日常言語のなかで日常的に考えようとした釈尊や、その釈尊の仏法を奉ずる親鸞の思想を跡づけする試みが難解な形而上学となってしまうとすれば、本論考は、決定的とも言うべき矛盾を犯すことになる、と申せましょう。

 『歎異抄』を手がかりとし、時に『教行信証』などの親鸞の自著をも読み解きながら、彼の思想を追ってゆこうという試みにとって、いっそう重要なことは、みずからの思想を語り出(い)だすとき、親鸞はどのような境涯にあったのか、という問題です。哲学・思想の研究に主眼を置いた親鸞に関する論説では、このような問題への論及は、迂遠にすぎるという理由で、ともすれば閉却されがちな傾向があります。ですが、哲学史上、思想史上に画期をもたらした思想家について、その思想を追思(跡づけ)しようと試みる際には、当面の思想家が、人生のどのような局面にあって、いかにして独特の思索を展開したのかという点を明確にしておく必要がある、とわたしは思います。それゆえ、次回は、親鸞の生涯を、わたしなりの視点から跡づけてみることにいたします。(二〇二二年二月二日稿)

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

NHK-Eテレ(旧教育テレビ)で当山が再び紹介されます。

本放送5月15日

05:00~06:00(再放送あり)
「こころの時代:歎異抄にであ

う~無宗教からの扉~」第2回〈念仏とは何か〉

 

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第2回】     

「親鸞の信心」をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

      (2022.3.20)

 

 

 机に向かい静かに目を閉じると、想いは6年前に訪れたキエフに飛ぶ。ホーチミン経由のベトナム航空でモスクワに着いた私は、その足で駅に向かい、翌日の夜行列車を予約したのだった。

 

 首都キエフは、ロシア正教会(今はウクライナ正教会)の建物が夕日に輝く美しい都市だった。十字架を抱えたキエフ大公ウラディミル1世がドニエプル川を見下ろし、独立広場にはウクライナ国旗とEU旗が記念塔を取り囲んでいた(大学の授業で配信した動画の一部をUPします)。

 

  モスクワからキエフまでは夜行で一晩、1時間ごとに寝台列車が出ている。乗車当日その場でキップも買える。「母がウクライナの出身なんだ」と話していた初老のロシア人男性。両国に親戚がいる人々も多い。その国に攻め込むとは…刻々と届く映像を見ていて涙が止まらない。


 事態を予想しなかったと話す識者も多い。フィンランド侵攻(1939)・ハンガリー事件(56)・チェコスロヴァキア事件(68)と繰り返された暴力。必ずキエフまで侵攻すると私は確信していた。なぜ事前に米軍やNATO軍を緊急展開させなかったのか。抑止力となったはずだ。腰の引けた指導者たちの宥和政策が、ヒトラーの勢力拡大を可能にしたことを思い出す。


 一昨年には、ベラルーシでルカシェンコ政権に対する激しい民主化要求デモが続いた。ロシアでも反戦デモが続いているようだ。ナショナリズムに染まらないロシア人の知性に、僅かな光明を見る思いがする。

      (2022.2.26)

《追伸》
  十数年前のロシア航空、隣に座ったチェコ人青年の言葉が思い出される。チェコ解体(1939)と「プラハの春」弾圧(68)を経験した彼らの言葉は重い。 
  Russia is more dangerous

  than Germany.


 自国の権益と安全保障を要求して一方的に他国に攻め込む姿勢は、満蒙特殊権益を死守しようとした80年前の日本と重なる。欧米諸国による圧迫やウクライナの性急な親欧姿勢が攻撃を誘発したとする言説も聞かれるが、それは米国による包囲網が日本を追い込み開戦に至らしめたとして、日本の侵略行為を矮小化しようとするのと同じである。        (2022.5.5)

 

 

 

コロナ感染が急拡大しております。今後の見通しを立てることができないため、「春の市民大学講座」開催を断念することにいたしました。ご参加を検討されていた皆さまのご期待に添うことができないこと、深くお詫び申し上げます。どうぞご自愛くださいませ。

           (2022.2.14)

本HPの「internet市民大学」をご覧ください。

 

 

  

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。