今年は暖冬気味で、梅の花も早くから咲いています。梅といえば平安時代前期の菅原道真の、
東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて 春なわすれそ
という和歌が有名です。
日本では、奈良時代まで「花」といえば桜の花のことでした。ところが平安時代の初めに梅が中国から輸入されると、貴族たちはたちまちその花に心を奪われました。早春、他の花に先駆けて開く清楚な紅白の花びらと、甘い香りにうっとりとなったのです。「花」といえば梅を指すようになりました。
ところが平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて西行が、
花見れば そのいはれとは なけれども
心のうちぞ 苦しかりける
とか、
願はくば 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月のころ
などという桜の花にあこがれる和歌をたくさん作ったことによって、再び「花」といえば桜を指すようになりました。それで現代に至っています。
では親鸞は梅や桜を見てどう思ったでしょうか、と私は時々思うのです。花の話題に無関心ですと、人の心をつかむ機会をいくつか逸するでしょう。花について何らかの発言はあったのだろうと思います。
ちなみに、上記の菅原道真の和歌を伝えるもっとも古い文献は『拾遺和歌集』です。この和歌集によりますと、「春な忘れそ」ではなく、「春を忘るな」となっているのです。もっと後の文献になって初めて、「春な忘れそ」と出てくるのです。「え? 気分が壊れた」と思われる方もおられるでしょう。
【2016年1月・2月の活動】
著書の出版:ここでは、私の今年(2016年)1月・2月の著書などについて記します。
《著書》
➀『中国・大連語言学院の5日間 附:大連本願寺を訪ねて』
東国真宗研究所、2016年1月31日
私は昨年(2015年)9月、大連大学に招かれて日本文化や論文の書き方に関する講演をし、日本語弁論大会の審査委員長などを務めました。あわせて第二次大戦以前に建立された、通称「大連本願寺」(大谷派)を訪ねてきました。また大連大学副学長宋協毅教授の日本語・日本文化教育にかける情熱にも、あらためて触れてきました。宋副学長は、私の十年来の親しい友人でもあります。本書はその他のことも含めて、この9月の滞在5日間のことをまとめたものです。
➁『親鸞聖人とともに歩んだ恵信尼さま』
自照社出版、2016年2月20日
本書は昨年(2015年)6月9日、全国坊守・寺族女性連絡会第一連区支部会の「平成27年度 第15回 記念研修会」で「親鸞聖人とともに歩んだ恵信尼さま」と題した講演の講演録に加筆したものです。
《論考》
①「鎌倉の怒り天神」(連載「悪人正機の顔」第8回)
『自照同人』第92号(2016年月1・2月号)
本稿は、鎌倉市二階堂にある荏柄天神社に安置されている荏柄天神坐像について考察し
たものです。本像には弘長元年(1261)5月8日の造立銘があります。親鸞が亡くな
る前の年です。本像はなぜ恐ろしげな顔をしているのか。悪人正機と鎌倉幕府に集う武士
の観点から考えてみました。
【連載・親鸞聖人と稲田⒇】
─「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」─
➀ 原本と写本、写し
親鸞の書状は40数点あるとされています。このうち、親鸞自身の自筆(真筆、真蹟)が残っているのは12、3点です。数え方によって、残存数は多少異なります。歴史学研究では原本がもっとも重要な史料になりますので、親鸞伝研究では真筆・真蹟はとても貴重です。
原本作成の時に控えとして写しておいたもの、あるいは原本作成からあまり遠くない時期に写されたものを写本といいます。後世になってから、例えば何百年もたってから写されたものは単に「写し」といいます。
➁ 「かさまの念仏者のうたがひとはれたる事」
その数少ない真筆の親鸞書状の一つに、「かさまの念仏者のうたがひとはれたる事」と呼ばれているものがあります。「かさま」は「笠間」で常陸国笠間郡のことでしょう。他に、親鸞関係で笠間という地名はありませんから。
この書状の末尾に、
建長七歳乙卯十月三日
愚禿親鸞八十三歳書之
とあります。それで本書状は親鸞が八十三歳の時に書かれたものと確認できます。
➂ 「愚禿(ぐ・とく)」の意味するところ
「禿」というのは、現代の常識とは異なった内容です。現代では頭に毛のない状態を示すのが普通でしょう。しかし親鸞のころは「おかっぱ」という意味だったのです。髷(まげ)を結っていない、ザンバラ髪です。幼児の頭の毛の状態でもあります。
当時、俗人の男子は15,6歳で成人式をあげました。この時、必ず後頭部で髷を結います。そして烏帽子を被ります。この烏帽子は、外ではもちろん、部屋の中でも、寝室でも被っていなければならないものでした。これに対して出家して僧侶となった者は髷を落とし、髪の毛を剃ります。
親鸞は流罪の時に僧侶としての身分を正式に取り上げられました。憤慨した親鸞は、以後「非僧非俗」、僧でもなければ俗人でもない姿で布教に当たると宣言しました。これは『教行信証』に記されているとおりです。
その結果、成人式前の男子のように、親鸞の頭は髷を結わないおかっぱの状態となったのです。「愚禿親鸞」とは、世間的な知識などまったくない、ただ念仏一筋の私親鸞ということを表現しています。
この書状を書いた時も、親鸞は髪を剃らないおかっぱであったということです。それは35歳の流罪の時からずっと続いていたはずです。私たちは勝手に頭を剃り上げた僧侶姿の親鸞を思い浮かべてはいけないのです。
➃ 「かさまの念仏者たちのうたがひとわれたる事」執筆の目的
─他力・自力について答える─
笠間といえば親鸞の一番の本拠地であった稲田草庵があったところです。親鸞がそこを離れて京都に移ってから23年ほど経っています。でも親鸞にとって特に思い出の深い所でしょう。そこの門弟たちが念仏についての疑問を示してきたのです。この書状の最初の部分に、
それ、浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり、このことすでに天竺
の論家、浄土の祖師のおほせられたることなり。
とあります。なんと親鸞の思想の基礎である他力・自力から説明し直さなければならない状態だったのです。教義の理解はなかなか難しいものだ、と思わざるを得ません。この書状を執筆した目的は、そのことを説明することにありました。
➄ どのような仏・祖師の名が何回出ているか。
この書状には、まず阿弥陀如来の名が出ています。当然でしょう。阿弥陀如来の名は5回出てきます。釈迦如来も5回です。仏菩薩では、あと弥勒仏が1回出てきます。
次いで、インド・中国の祖師として天親菩薩と善導和尚が1回ずつです。日本では、恵心院の和尚(源信)が1回、そして法然が「聖人」と表現されて2回です。さらに親鸞と性信が1回ずつです。
当時、何か主張がある場合の説得し方は現代とは異なっていました。現代でしたら、何らかの根拠はあるにしても「私はこのように考える」と、自分を表面に押し立てて主張することが十分可能です。またそのことが喜ばれる傾向にもあります。
しかし親鸞の時代は違ったのです。「私はこう考える」という言い方は説得力を持ちませんでした。「経典にはこのように書いてあります。これはこのような意味なのです」とか、「あの仏はこのように言われています」「あの有名な僧はこのように説かれました。それはこの経典に書いてあります」と言わなければいけなかったのです。あくまでも経典やそれに基づく有名な祖師たちの解釈をもとにして自分の主張を導く形にしなければならなかったのです。
ですから他力・自力に関わって阿弥陀仏が群を抜いて多い5回は当然ながら、釈迦も同じく5回登場するのはとても上手な登場のさせ方と判断できます。釈迦の回数が少なければ、「いったい仏教は誰が開始したと思っているんだ」という批判が来るからです。日蓮宗(中世では、法華衆と称しました)の宗祖日蓮は、まさにそのような批判を鎌倉の専修念仏者に浴びせています。
天親は『浄土論』の著者で、後に真宗七高僧の第二祖とされました。善導は『観無量寿経疏』の著者で同じく後に真宗七高僧の第五祖とされました。源信は『往生要集』の著者で真宗七高僧の第六祖です。それぞれ重要な人物で、1回ずつです。そして法然が「聖人」として2回です。
➅ 法然はどのように登場しているか。
ここで興味深いのは法然の登場の仕方です。書状の最初から六分の一のあたりに「阿弥陀の御ちかひ」とあり、続いて、
如来の御ちかひなれば、他力には義なきを義とすと、聖人のおほせごとにてありき。 義といふことは、はからうことばなり
とあって、もっとも重要な他力について説明しています。「他力には義ということはないのです。義というのは、人が勝手にいろいろと理屈を考え出すことです」というのです。
そして書状の六分の五のあたりに、信心は「釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便より」いただいたとした上で、
しかれば諸仏の御おしえをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。 この念仏する人をにくみ、そしる人おも、にくみそしることあるべからず、あわれ み をなし、かなしむこころをもつべしとこそ、聖人はおほせごとありしか。
と、念仏の行者のあるべき姿についても法然に教えられたと記しています。つまり、重要な二つの点は、(信頼する)法然から指導を受けたとしているのです。その法然は、釈迦・阿弥陀さらには諸仏の教えを尊敬すべき諸祖師を経由して受けている、だから間違いないと主張してもいるのです。釈迦と阿弥陀を一緒にあげる時は、阿弥陀・釈迦の順にせずに必ず釈迦・阿弥陀の順にしています。阿弥陀・釈迦の順にすると「誰が仏教を開いたと思っているんだ」という批判が来るからです。あらかじめそれを避けています。
➆ 性信と親鸞の登場
親鸞は主張したいことを全部述べた書状の最後に、次のように記しています。
これ、さらに性信坊・親鸞がはからひ申にはあらず候。ゆめゆめ。
「はからひ」とは、上記➅にあったように、人が勝手に理屈をこねることです。つまり性信と親鸞が勝手に編み出した考えではないことを強調しているのです。それによって親鸞と性信の説得力も増すのです。
ここで性信が登場するのは興味深いことです。親鸞が京都へ去った後、笠間において性信が多大の影響力を及ぼしていることが容易に推定されるからです。
そして最後の最後に親鸞が登場します。たとえば起請文において何社もの神社の神々を列挙する場合があります。その際、自分にもっとも身近な神社とその神は最後に書く慣行
でした。
「ゆめゆめ」とは、「けっして誤った考えで念仏を称えてはいけません」という文を を省略した形です。「ゆめゆめ」は「夢でもそんなことがあってはいけません」と強調しているのです。当時の結びの言葉の一つです。
この親鸞書状は、まさに当時の慣行に沿った書き方をしています。