今年の立秋は8月8日です。そのころになると、毎年のようにマスコミで取り上げられる和歌があります。平安初期の藤原敏行が立秋の日(旧暦の7月1日)に詠んだ和歌です。
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる (『古今集』)
「自然界の風景はまだ暑い夏の様子ですが、一陣の涼しい風が吹いたことで、ああ秋が来たんだと知らされました」という意味です。敏行は最高位が従四位上という中級の貴族ですが、和歌に巧みで三十六歌仙の一人に数えられました。
現代の私たちは立秋といえば、「今日から秋なんだ、涼しいんだ」「でも暑いなあ」「この日を立秋とするのがおかしいんじゃないか」と思ってしまいます。でも、本来は、「立秋は暑さの頂点。これから涼しい季節に向かっていく」という意味だそうです。これは中国から来た知識にもとづいています。それで、現代人の立秋についての考え方は誤っている、と書かれた本を今日も読みました。でも、誤りと決めつけるのも無理か、と私は思います。
敏行の生年は未詳ですが、没年は延喜元年(901) または同7年ということが分かっています。旧暦の7月1日は、ほぼ現在の8月上旬から8月下旬にあたります。まだまだ、とても暑い時期です。敏行も暑かったでしょう。でも時に涼しい風が吹いて、「ああ、秋が来たのか」とはっと実感することもあったと思われます。敏行は知識と実感とのはざまで「秋来ぬと…」の和歌を詠んだのでしょう。それが季節のことに敏感な私たちの心を惹きつける理由ではないでしょうか。
ところで、鎌倉時代後半に活躍した一遍は次の和歌を詠んでいます。
おもふこと みなつきはてぬ う(憂)しとみし
よをばさながら 秋のはつかぜ (『一遍聖絵』)
「したいことはいろいろありましたが、今はもう、まったくなくなりました。この世は煩わしいことが多いところでした。でも今はまるで秋の爽やかな風が吹き始めたようです」
一遍は法然の門弟である善慧房証空(浄土宗西山派の派祖)の孫弟子にあたります。踊念仏で知られている、時宗の開祖です。彼は、極楽往生のためには衣食住・家族すべてに対する執着心を捨てて念仏を称えよ、と説きました。それで捨聖(すてひじり)と呼ばれたこともあります。
この和歌を詠んだのは正応元年(1288)6月1日でした。各地を歩き回って布教し続けていた一遍は、五十一歳、病気になっており二か月後には亡くなってしまいます。この年の6月1日は、現在の暦に直すと6月27日です。まだむし暑い梅雨の真っ最中でした。でも一遍は、すべてを捨てきって思い残すことがないという心境を、夏の中の秋を思わせる初めての涼しい風にたとえたのです。
なお、写真に掲載の愛媛県松山市・宝厳寺の一遍立像(室町時代制作、国指定重要文化財)は、2013年8月10日の火災により全焼しました。完全に灰になってしまったようで、焼け焦げなど見つかりませんでした。私は自分の博士論文『時宗成立史の研究』を出版した時(吉川弘文館、1981年)、その本のグラビアを飾ってもらったのがこの一遍立像でした。とても残念です。
【2015年7月・8月の活動】
著書の出版:ここでは、私の本年7月・8月の出版などについて記します。
《論考》
➀「西行の地獄」(連載「悪人正機の顔」第5回)
『自照同人』第8号(2015年7・8月号、7月10日)
この連載の第3回で取り上げた平清盛と同い年の西行は、和歌に優れた僧として、また桜を愛した僧として知られています。しかしその西行も地獄を見ていたと思わざるを得ません。それはなぜだったのか、ということを検討しました。
【連載・親鸞聖人と稲田(17)】
―稲田頼重の兄塩谷朝業⑶―
➀ 武士の親子兄弟A
塩谷朝業のころの武士の親子兄弟は、生きることにおいてとても厳しいものがありました。殺し合いです。たとえば鎌倉幕府を立ち上げて初代征夷大将軍となった源頼朝の場合を見てみましょう。
●注:名前の次に✕印を付けた人物は、殺された人です。
源義朝――――――義平✕平治の乱で戦死
✕平治の乱で├―朝長✕平治の乱で戦死
戦死 ├―頼朝―――――――――千鶴丸✕祖父伊東祐親に殺される
│ ├―頼家✕祖父北条時政に殺される
│ └―実朝✕甥公暁に殺される
├―義門 早世
├―希義✕兄頼朝挙兵に協力、戦死
├―範頼✕兄頼朝に殺される
├―全成✕甥頼家に殺される
├―義円✕兄頼朝挙兵に協力、戦死
└―義経✕兄頼朝に殺される
義朝は、保元の乱の敵方で捕虜とした父為義、および異母弟とはいえ弟5人、さらには戦争に加わらなかった幼い弟数人も呼び出して殺しています。
➁ 武士の親子兄弟B
では鎌倉幕府の執権として権力を握った北条氏はどうだったでしょうか。
北条時政―――宗時✕頼朝挙兵に協力、戦死
├―政子――頼家✕祖父時政・叔父義時に殺される
│ └実朝✕甥公暁に殺される
├―義時――泰時
├―阿波局
│ ┣――時元✕伯父義時に殺される
│ 阿野全成✕甥頼家に殺される
├―女子
│ ┣――重保✕祖父時政・伯父義時に殺される
│ 畠山重忠✕時政・義時に殺される
├―女子
│ ┣――重政✕祖父時政・伯父義時に殺される
│ 稲毛重成✕時政・義時に殺される
├―女子
│ ┣――通久
│ 河野通信▲義時と対立、奥州に流される
├―女子
├―時房
├―女子
│ ┣――泰綱
│ 宇都宮頼綱▲義時と対立、出家
├―女子
│ ┃
│ 大岡時親▲義時と対立、出家
├―女子
│ ┃
│ 平賀朝雅✕義時に殺される
├―政範 早世
└―女子
┃
坊門忠清▲義時と対立、行方不明
彼らは、女性も含めて、すさまじいばかりの親子関係の人生を送っていたことが分かります。特に、夫と息子を自分の親兄弟に殺された女性たちの気持はいかばかりだったでしょうか。
(参考:拙著「関東の親鸞シリーズ」➉『五十六歳の親鸞・続―北条氏の家族の悲劇―』真宗文化センター、2014年、500円)
➂ 異母兄弟の争い
上にあげた源氏と北条氏の例と比較すると、朝業と兄の頼綱は信じられないくらい協力的で、宇都宮一族を守って勢力を発展させています。これは朝業と頼綱が同母の兄弟であったということが根本にあります。北条氏でも、同母の義時と時房は生涯協力し合っています。義時没後、時房は甥の泰時に忠誠を誓って支え続けます。異母兄弟は、幼いときからずっと生活を別にしていますし、半分他人みたいなものです。また父の後継者になれるかなれないかでその後の人生は大いに違いますから、他人よりも激しい競争相手であるということができます。
当時の武士の慣行では、父の跡継ぎの資格を持つ者は父の長男(男としての第一子)ではなくて、父の正妻の息子でした。死別や離婚等で正妻が変わり、新しい正妻ができてそこに男子が生まれれば、その男子が跡継ぎの資格を得ます。跡継ぎは変わるのです。正妻から生まれた跡継ぎの男子を「当腹(とうぶく)の嫡子」といいます。
「当腹」というのは、「現在の正妻のお腹」という意味です。「当」の意味が現代とは異なります。「当時」といえば、現代では「昔、そのころ」という意味ですが、鎌倉時代は「いま、現在」という意味です。
➃ 朝業と宇都宮一族の結束
朝業が、承久元年(1219) に源実朝が暗殺されると本領の川崎城に帰って出家したことは、この連載の前回で述べたとおりです。貴族社会と異なり、武家社会では出家しても幕府で勤務することは問題ありませんでした。しかし朝業は引退して宇都宮氏の惣領(形だけであっても)を頼綱の系統に戻します。やがて惣領は頼綱からその息子泰綱に譲られます。数年後のことでした。朝業の息子三人のうち、長男親綱には本領の塩谷郡を譲ります。次男の時朝には実質的に支配運営してきた笠間郡を与えます。ただ時朝は頼綱の養子になっており、実質的な惣領の頼綱から譲るという形を取ったようです。そして朝業は京都の善慧房証空の門に入ります。証空にはすでに頼綱が指導を受けていました。そして朝業は、寺院で修行する僧ではなく、歌人として生きる歌僧の道を選びます。
朝業・頼綱そして時朝は藤原定家の指導を受けて和歌に優れていました。頼綱らは宇都宮一族、その関係者や友人を集めて宇都宮歌壇なる集団を作りました。そのころの和歌の集団として、京都歌壇・鎌倉歌壇・宇都宮歌壇が知られています。宇都宮歌壇は、長い間下野国宇都宮での集団と考えられてきましたが、実は京都で形成された集団でした。
いずれにしても、宇都宮一族はそのような形で貴族・武士・僧侶に人脈を伸ばし、それを確実なものにしていったのです。
➄ 歌人朝業
朝業は建保元年(1213)に妻を失っています。その時詠んだ歌とその詞書、
年来あひぐし侍りし女、
はかなくなり侍りしかば、
夢のここちし侍りて、
夢かとて さらばなぐさむ かたあれな
うつゝともなく おもふおもひの
「それは夢なんだよと慰めてくださる人が欲しいものです。妻が亡くなったのは現実とは思えないのです」は、朝業の家集である『信生法師集』に収められています。出家したかったのだけれど、この時はまだ幼い子どもたちのことを思うと出家できなかった、とも同前書にあります。
6年後、仕えていた源実朝が暗殺されます。それについて『信生法師集』に次のようにあります。文中、「大臣殿」とは右大臣実朝のことです。朝業は本領の塩谷郡に帰り、持仏堂に籠る日が多くなりました。出家したかったといいます。でも幼い子どもたちを捨てて出家はできないと悩みました。
大臣殿の御事によりて、よをすて侍らんとおもひ侍りしころ、
母もなくて、いとき こども、みすてがたく侍りしかば、
或る日、いつものように持仏堂に籠っていると、
持仏堂のうちに人けしきの侍りけるをきゝつれば、おさなき物共、仏に申ことかな ふあれば、父が我をすててゆくとどめ給へと申こととて、なげき侍と申をきゝし に、何となくあはれに心ぼそくおぼえ侍、
と、子どもたちが「かなうことならば仏様、父が出家して私を捨てていくのを止めさせてください」と頼んでいる声が聞こえ、心が乱れたというのです。
しかし結局、朝業は家を出ました。次の日の旅宿に、8歳の娘が次の歌を送ってきたといいます。文中、「とく」は「急いで」という意味です。
うらめしや たれをたのめと すてゝゆく
われをおもはゞ とくかへりこよ
➅ 宇都宮氏に尽くす朝業
嘉禄元年(1225)二月、朝業は京都を出て鎌倉に向かいました。三月四日、北条政子の許可を得て、源実朝のために念仏供養をしました。続いて信濃国に流されていた旧友の伊賀光宗に会いに行き、さらに善光寺に参詣しました。このことは『信生法師集』の前半に書かれています。その部分のみ、『信生法師旅日記』と呼ばれることがあります。
光宗は、泰時が第三代執権になるまで、幕府の政所の執事(次官)でした。その妹は第二代執権義時の妻で、そこに生まれた政村20歳が第三代執権になるはずでした。政村が義時の当腹の嫡子だったからです。しかし尼将軍と呼ばれた実力者政子は42歳で軍事・政治・外交に経験豊かな泰時を選び、政村を押し立てていた伯父の伊賀光宗を信濃国に流しました。ただ、政村には手をつけませんでした。元仁元年(1224)のことです。
政子と泰時は、やはり北条一族を結集して政局を乗り切っていこうと、まもなく光宗の呼び戻しを模索します。その際、光宗が政子や泰時を恨みに思っていないか、反抗的な態度ではないかと、信頼できる人物を送って調べさせたのです。そこで選ばれたのが朝業でした。結果、光宗は翌年に鎌倉に戻り、幕府の政務に復帰しました。
朝業は、北条氏に信用されており、裏方で宇都宮一族のために働いていたのです。
➆ 朝業の没
朝業が亡くなった年ははっきりしていません。ところが『続拾遺集』雑の部に、頼綱の次の和歌が詞書とともに載せてあります。文中、「うつの山」というのは静岡市と藤枝市との境の「宇津の山」で、「身まかりければ」は「亡くなったので」という意味です。
信生法師ともなひて、あづまのかたにまかりけるに、うつの山の木に歌を書き付けて侍りける後、程なく身まかりたりければ、都にひとりのぼり侍るとて、かの歌のかたはらにかきそへ侍りける。
うつの山 現にて又 越え行かば
夢とみよとや あと残しけむ
「信生と一緒に東国に行きました時、宇津の山で詠んだ歌を木に書き付けました。でも信
生は間もなく亡くなってしまいました。そこで都に一人でひき返そうと思い、あの歌の傍
に惜別の歌を書き加えました。
宇津の山をまた実際に越えて行くことがあれば、私たち兄弟の思い出は夢の中のこと だったと思おう、とあの時に歌を書き付けたのだろうか」。
兄頼綱に見守られて亡くなった弟朝業。二人はほんとうに仲がよかったのでしょう。