7月30日~8月1日までの三日間、真宗教団連合中央研修会の講師を務めてきました。第一日目は午後に築地本願寺で「関東の親鸞聖人―関東伝道八百年にあたって―」という講題で講演をしました。第二日目と第三日目は観光バスで北関東の親鸞遺跡を巡り、私が案内しました。真宗十派の方々80人近く参加されました。バスは2台、両方のバスに交互に乗って説明をしました。まさに酷暑の中での参拝旅行でしたが、皆様とてもご熱心でした。十派の方々に一度にお目にかかれることはないので、とてもよい機会でした。
【2014年7月8月の活動】
著書の出版
ここでは、私の本年7月・8月の出版などについて記します。
《著書》
《論考》
➀「稲田の頼重」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第11回)
『学びの友』42巻7号(2014年7月号)
稲田に親鸞聖人を迎えたとされる稲田頼重。兄宇都宮頼綱の指示により越後から親鸞一家を迎えたとして、その心理を推し測ってみました。
➁「信蓮房と聖の窟」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第15回)
『自照同人』第83号(2014年7・8月号)
信蓮房は、親鸞と恵信尼の間の最初の息子です。越後で生まれ、一家が関東へ来る時には四歳でした(数え年)。それから関東で生活し、成人後また越後に帰りました。越後では恵信尼のよき相談相手でした。その信蓮房が修行したという洞窟があります。通称、聖の窟と呼ばれています。寺院ではありませんが、本連載で取り上げることにしました。
➂「親鸞と恵信尼の結婚」
『歴史書通信』No.214(2014・7)
親鸞と恵信尼の結婚、および結婚生活について関東までを述べました。
➃「箱根権現の神官」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第12回)
『学びの友』42巻12号(2014年8月号)
親鸞聖人は60歳のころ京都に帰りました。途中、箱根権現の意を受けた老年の神官に歓待されました。本稿ではその状況について神官の立場から検討してみました。
【連載・親鸞聖人と稲田(11)】
―『教行信証』の執筆―
➀
西念寺の参道から山門をくぐると、すぐ右に「浄土真宗開闢之霊地」と彫り込まれた大きな石碑があります。「この西念寺の地が、浄土真宗が開かれた所」という意味です。この石碑は富山県各地の玉日講の人たちの寄進によって建てられたものです。石碑を守る石垣に「滑川玉日講」などと地名が刻んであります。
また本堂の中、内陣と外陣を分ける部分の正面上に、「真宗最初門」という扁額が架かっています。「真宗に入るための最初の入り口」という意味です。扁額というのは横に長い額のことです。
石碑・扁額ともに、「浄土真宗はここ稲田草庵の地で始まったのだ」と言っています。その根拠は、この稲田で『教行信証』が執筆されたから、ということです。親鸞聖人の家庭生活の基盤や、いろいろな参考文献が読める手近な図書館(現代風に言えば)などの観点から見れば、『教行信証』が稲田草庵で書かれたことはまず間違いないでしょう。
➁
『教行信証』が執筆されたのは、元仁元年(1224)のことでした。親鸞聖人が関東へ入ってちょうど10年目でした。『教行信証』は『教行証』と呼ばれることもあります。正式の名称は『顕浄土教行証文類』です。これは「極楽浄土が存在するということを顕(あきら)かにする教えと、その修行方法と、その結果往生できる浄土について記した、経典等からの引用した重要な文を集めた書物」という意味です。
⑥
そもそも、法然の専修念仏説の歴史的意義は、万行の中から称名念仏を救いの唯一の方法として選び取ったことにあります。そのことは『選択本願念仏集』という書名自体に示されています。この書名は、「阿弥陀仏の本願による称名念仏の救いは、法然が選び択った。しかしその前に阿弥陀仏が選び択っていた。さらにそれを、仏教を始めた釈迦も選び択っていた、だから称名念仏の救いは正しい」という内容なのです。
➆
ところが、法然の専修念仏説は理論的組み上げが不十分でした。ですからたちまち明恵のような強力な反論が出たのです。『摧邪輪』の出版に驚いて抵抗する専修念仏者たちを、翌年、明恵は念を押して『摧邪輪荘厳記』を著わして叩きました。そこで着実な理論的組み上げは、法然を信奉する門弟たちの重大な役割となりました。その門弟たちの一人が親鸞聖人でした。親鸞聖人は明恵と同い年です。『教行信証』は、華厳宗を背負って立つ学僧として仏教界に著名な、明恵に対する専修念仏者の再反論の書とも見られています。ですから経典類からの引用に満ちた、漢文で格調高い文章にして著わす必要があったのです。専修念仏説は正しい、そのことは経典から証明できる、という主張が『顕浄土真実教行証文類』という書名に示されているのです。
➇
さて、『教行信証』が「文類」であるならば、経典類をたくさん読み、引用すべき適当な文章を探さなければなりません。親鸞聖人は、著書執筆のためというだけでなく、重要と思われる文章は京都時代や越後時代にメモを取って持ってきていたことでしょう。しかしだからといって、それだけで『教行信証』ができあがったとは到底思えません。どこか多数の経典がある寺院・神社に行って参考文献を漁ったはずです。当時、大神社にはどこでも多数の僧侶がいましたので、多くの仏教経典があったはずです。従来、親鸞聖人は参考にすべき経典を鹿島神宮に求めたと言われてきました。しかし、稲田草庵から鹿島神宮までは直線距離で六十キロ以上もありますから、歩いて二日、往復で四日の距離でしょうし、そう簡単に文献を調べには行けません。
➈
親鸞聖人が鹿島神宮に参詣したというのは、江戸時代以降の書物にしか出てきません。それに実は『教行信証』の参考文献を鹿島神宮に求めたという説は、江戸時代にはありません。明治時代以降の発生としか思えません。親鸞聖人鹿島神宮参詣を伝えるのは、古いのでは明和8年(1771)刊行の『大谷遺跡録』です。その巻三「鹿島大明神」の項に次のようにあります。
嘉禄二年十月中旬高祖【時に五十四歳】鹿島の神社に参り給ふ。
また享和三年(1806)刊行の『二十四輩順拝図会』後巻三「鹿島大神宮」の項に、
嘉禄二年十月中旬高祖親鸞聖人法﨟五十四歳の時、当国稲田の御坊より当社へ参詣ましましける。
とあります。親鸞聖人は、五十四歳の時に初めて鹿島神宮に参詣したというのです。『教行信証』の執筆は五十二歳の時ですから、これら二書によれば親鸞聖人は『教行信証』執筆のための参考文献は鹿島神宮には求めていなかったことになります。『二十四輩順拝図会』は明らかに『大谷遺跡録』を参照しています。だからこそ、なおさら江戸時代には鹿島神宮での参考文献参照説は成立していなかったと判断されることになります。
➉
そこで浮かび上がってくるのが、現在の西念寺のすぐそばにある稲田神社です。稲田神社は、朝廷の『延喜式』「神名帳」に示す神社の格付けの最上位である名神大社でした。『延喜式』では諸国の神社を朝廷の支配下に組織し直すため、有名神社を大社・中社・小社の三段階に分けて指定しました。そして大社の中でも特に伝統があり、所領が広く、聖俗界に権威がある神社を名神大社としました。一つの国で名神大社に指定されたのは二~四社程度なのですけれど、常陸国では例外的に七社もありました。むろん鹿島神宮も入っており、それと肩を並べる形で稲田神社も入っていたのです。稲田神社は、稲田草庵の背後の山である稲田山一帯に所属の神社・寺院が建てられていた気配です。支配する田だけで20万平米余りありました。普通、畑や山林原野等の面積は記録に残されませんので正確な数字は分かりませんが、膨大な面積だったと推定されます。稲田草庵も、この稲田神社領の一部だったと、現地を見ると推定できます。ただし、このころは土地の領有関係が錯綜していました。つまり、一つの土地に領主が複数存在していました。稲田草庵が建っていた所は次のような領有関係であったことが推測されます。上位の領主から、
宇都宮頼綱(本家)―稲田神社(領家)―稲田頼重(地頭)
あるいは、
稲田神社(本家)―宇都宮頼綱(領家)―稲田頼重(地頭)
という関係です。「本家」も「領家」も、「地頭」と同様に領主としての職名です。
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この稲田神社に多数存在していた仏教書を、親鸞聖人は日常的に閲覧して『教行信証』執筆に備えたであろうということです。多くの寺院・神社が存在した常陸国府や筑波山までは稲田から十数キロです。そちらにも参考文献を求めたことも十分にあったことと推定されます。鹿島神宮に行ったことがまったくなかったとは思えません。何といっても西国からの文化が常陸国では真っ先に伝えられる所ですから。
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それに稲田草庵から稲田川・涸沼川を経由して数キロ行けば、九条家領小鶴荘の事務所へ行けます。九条家は恵信尼さまの実家三善家が仕えている家です。ですから三善家あるいは九条家に、親鸞聖人が必要な文献や執筆に必要な紙を送ってくれるように頼むのも、十分に可能でした。
今回は『教行信証』執筆に絡む話を述べました。