最近、時宗の開祖一遍に関する本を書きました(実際に刊行されるのはこの冬の予定)。一遍は法然の曾孫弟子にあたる念仏僧です。法系譜でみれば、
法然―証空―聖達―一遍
└親鸞
となります。一遍は鎌倉時代の中期から後期にかけて活躍しました。日蓮が活躍した時期と重なります。正直なところ、近年では一遍に関する優れた研究が出ているとは言い難い状況です。私が東京教育大学大学院博士課程で提出した博士論文の題は『時宗成立史の研究』でした。一遍の伝記及びその後継者の活動をまとめたものです。歴史学的研究です。指折り数えてみれば、もう40年近くも前のことになります。その後、思いつきで一遍研究の原稿を書く人がいたりして、まずいなと思っていました。本格的な一遍伝研究・一遍思想研究が多く出ることを望んでいます。
【2014年5月6月の活動】
著書の出版
ここでは、私の本年5月・6月の出版などについて記します。
《著書》
➀『親鸞聖人の家族と絆』(「歴史を知り、親鸞を知る❼」自照社出版、2014年)
東日本大震災以降、「絆」が強く意識されるようになりました。本書は、親鸞聖人がどのように両親や子どもたち等の家族を想っていたか、それを和讃・『歎異抄』その他を手がかりに検討したものです。
《論考》
➀「念信と見返りの桜」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第9回)
『学びの友』42巻9号(2014年5月号)
下野国高田を訪ねた親鸞聖人が出会ったとされている明星天子。それについて語られている内容、および聖人と真仏との出会いを考えてみました。
➁「小黒女房と専敬寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第14回)
『自照同人』第82号(2014年5・6月号)
小黒女房は、親鸞と恵信尼の間の最初の娘です。越後で生まれたと推定されます。それからから関東で生活し、成人後また越後に帰りました。二人の子どもが生まれましたけれども、恵信尼より早死にしました。この小黒女房と関わりが深かったと推定される新潟県上越市安塚区小黒(小黒)には、真宗大谷派の専敬寺があります。小黒女房と専敬寺との関係は不明ですが、同じ土地なので本号で紹介しました。
➂「親鸞聖人の越後流罪―孤独の学びから、念仏布教へ―」
『山口真宗教学』第25号(2014年4月)
親鸞聖人は35歳の時に越後に流されました。従来、越後の生活は苦しかった、親鸞聖人は大変だったと言われてきました。本稿はその見方に再考を求めるものです。
➃「順信と鹿島灘」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第10回)
『学びの友』42巻10号(2014年6月号)
順信は鹿島神宮の神官の一人で、親鸞聖人の門弟となって鹿島門徒を率いました。彼には鹿島灘を詠みこんだ歌がある、とされています。聖人没後にはその遺族を強く支えました。
【連載・親鸞聖人と稲田⑽】
―恵信尼さまと三善氏(下)【三善為康と三善康信】―
➀ 西念寺の恵信尼さま
西念寺本堂には恵信尼さまの坐像が安置されています。それは内陣の、本尊阿弥陀仏立像が安置されている所の左奥です。茨城県中部・北部の真宗寺院には、本尊の両脇奥の右に親鸞聖人坐像、左に開基坐像が安置されていることが多いのです。西念寺でも右の奥は親鸞聖人坐像です。ところが左の奥、開基坐像の位置に恵信尼さまの坐像が安置されています。非常に珍しい例です。それだけ、西念寺とその付近では恵信尼さまが尊敬され続けてきたということでしょう。毎年9月には「玉日様報恩講」として恵信尼さまの報恩講も催されています。
➁ 恵信尼さまの家系
今回は、恵信尼さまの祖父にあたる三善為康の信仰を中心に述べていきます。加えて、恵信尼さまの従兄弟に当たる三善康信についても紹介したいと思います。康信は後白河法皇と源頼朝の信任があつかった人物です。まず、あらためて恵信尼さまの家系を確認しておきましょう。
三善清行…(中略)…為長―為康━康光━康信
└行康
└為教━恵信尼
★清行➜平安時代中期の大学者。競争相手である菅原道真(学者・右大臣)を九州太宰府に流す策略に加わっていたそうです。
★為長➜算学の学者で、大学の算博士。越後介などの国司を歴任。
★為康➜越中国の出身。為長に入門、養子となり家学を継ぐ。算博士。越後介などの国司を歴任。
★為教➜為康の養子と推定。越後介。
★康信➜後白河法皇の蔵人頭(秘書部長)である藤原経房の五位出納(秘書課長)。鎌倉幕府の問注所執事(最高裁長官)を兼ねる。
➂ 三善為康の観音信仰
本連載の前回に為康の経歴などは述べましたので、前回の予告に従って今回は為康の信仰を述べていきたいと思います。
為康は幼少のころから観音菩薩を熱心に信仰していました。そのために如意輪観音の大呪(だいじゅ)を何度も唱えたといいます。「大呪」というのは、長いのや短いのなどいくつかある呪文のうち、長い呪文のことです。天仁3年(1110)、62歳以降は1日に千回唱えたそうです。
➃ 為康の50代からの阿弥陀信仰
為康は30歳ころから阿弥陀信仰に目覚めたようですが、本格的に信仰し始めたのは50歳を過ぎてからでした。毎日念仏を1万回称えたそうです。49歳の時、生涯を終わって死のうとする時に阿弥陀如来が諸菩薩を連れて迎えに来てくれた夢を見ました。しばらくして難波の四天王寺に参籠し、その夢が正しいことであると確認できたとして、ますます念仏を熱心に称えるようになりました。また、念仏を称えて極楽往生した人のもとを訪ね、その伝記を調べて『拾遺往生伝』・『後拾遺往生伝』を編んでいます。
為康は82歳以降、毎日、『般若心経』 300巻・念仏1万遍・『阿弥陀経』9巻・『金剛般若経』3巻・如意輪菩薩の「大呪」千遍・『阿弥陀経』9巻の読誦を行ないました。
➄ 為康の信心の念仏
保延5年(1139)6月3日、為康は病気になり、起き上がることができなくなりました。91歳もの高齢になっていました。「間もなく臨終を迎えそうなので、念仏のみを行なうこととする」。このように為康は言ったそうです。すると息子の行康が、
出家・持戒は法器に協(かな)ふ可きか。如何(いかん)。(『本朝新修往生伝』)
「出家して授戒してもらえば、その功徳によって極楽往生できると思います。如何でしょう」
と為康に勧めました。
貴族たちは大病したり臨終が近くなったりすると出家することが一般的でした。出家するということは、現世の職などを捨てて釈迦の弟子になるということを意味します。それは大きな功徳があり、大病が治り、あるいは極楽往生が期待できるとされたのです。為康がいっこうに出家の話を持ち出さないので、行康は心配だったのでしょう。
すると為康は、断然、次のように返答しました。
往生極楽は信心に在るべし。必ずしも出家に依るべからず。念仏の功(く)積もりて、畢命(ひつみょう)を期(ご)となさば、十即十生、百即百生なり
「極楽へ往生するためには信心が大切です。出家することでなくてもいいのです。信心にもとづく念仏を一生の間称えていれば、十人が十人、百人が百人、全員がすぐさま極楽往生します」。
為康は出家による極楽往生を断然拒否し、信心による念仏を選んだのです。法然の専修念仏説にもとづく信心と同じではないにしても、平安時代にこのように信心を強調した記録を、私は見たことがありません。
為康はその年の8月4日の夜に亡くなりました。親鸞聖人は90歳で亡くなりましたが、為康はそれを1歳越えた年齢ということです。普通の人の平均寿命は40代の前半ですから、その2倍以上の人生を生きたことになります。為康は『拾遺往生伝』や『後拾遺往生
伝』を編んだ熱心な念仏者として当時の貴族社会で知られていましたから、その「信心の念仏」はさらに強い印象を与えたと思われます。
このような信仰は家の伝統にもなっていきます。まさに為教―恵信尼と続く三善家は、その伝統を承けていたと推定されます。
➅ 為康と黒谷の念仏者
為康はまた、比叡山黒谷の念仏者とも親しかったのです。『拾遺往生伝』に、次の文が引用してあります。
保安四年、台嶺黒谷の聖人浄意、魯山(ろさん)の朱鈸(しゅはつ)、弟子為康、合力(ごうりょく)してこれを撰せり。
「保安4年、比叡山黒谷の念仏僧である浄意、京都大原の朱鈸、それから私為康が協力してこの本を編集しました」。
「この本」というのは、『後拾遺往生伝』であるという説が有力です。黒谷には教団の組織からはずれた念仏僧が多く住んでいました。魯山とは京都の大原で、ここにも念仏僧が大勢集まっていました。為康は黒谷や大原の念仏者たちと親しかったのです。親しかったから彼らと本の編集ができたのです。
念仏者たちは生活のために貴族たちから寄付をもらわなければなりません。教団から離れて自由に生きることができる彼らは、その代償として自分で生活費を稼がなければなりません。為康が彼らと親しかったということは、彼らに生活費を与え続けているということです。
黒谷から親鸞聖人の師匠である法然聖人が出ていることを忘れるべきではないでしょう。黒谷の念仏僧は何百人、あるいはそれ以上いた気配です。そこの念仏僧は、外から見たらすべて黒谷聖人です。それなのに、浄土真宗で黒谷聖人といえば法然聖人のみを指します。興味深いことです。
➆ 三善家と法然聖人
文治5年(1189)、法然聖人は摂政九条兼実に招かれて念仏の教えを説きました。誰が兼実に法然聖人を紹介したのか、まだ分かっていません。建久9年(1198)、法然聖人は兼実の要請で『選択本願念仏集』を著わしました。その3年後の建仁元年(1201)、親鸞聖人が法然聖人の門に入ったのです。
ところが、恵信尼書状第三通により、恵信尼さまは親鸞聖人より先に法然聖人の教えを受けていたことが推定されます。このとき恵信尼さまは二十歳です。妙齢の貴族の女性が一人で教団をはずれた一介の念仏僧のもとに教えを受けに行くことは考えられません。つまりは三善為教一家が法然聖人の教えを受けていたということなのです。
すると、祖父為康と黒谷の念仏僧たちとの親しい関係を考え合わせると、法然聖人を九条兼実に紹介したのは三善為教であった可能性もあるのではないか、と私は考えています。
➇ 三善康信―朝廷の実力者―
系図上では恵信尼さまの従兄弟に当たる三善康信は、朝廷の蔵人所(くろうどどころ)の出納(すいのう)という職にありました。蔵人所というのは、天皇の秘書官の役所です。上皇が実質的に政治を執る院政ならば、その上皇の秘書官です。
九条兼実や鎌倉幕府を開いた源頼朝と親しく、また彼らと競った後白河法皇(上皇)の蔵人頭(くろうどのかみ。蔵人所の長官。秘書官長)に、吉田経房という貴族がいました。彼は法皇のよき相談相手として、貴族や平清盛あるいは頼朝をほんろうし、頼朝をして「日本一の大天狗」と呼ばしめました。その経房の秘書課長だったのが三善康信でした。彼は蔵人所の出納という職にあり、位は五位だったので五位出納(ごいのすいのう)と通称されました。もともと「五位出納」は、法皇と蔵人頭の意を受けて、政界対策に走り回る職でした。行政や法律に詳しく、情報を巧みに取る能力がある人物でなければこの職は務まりません。上皇(法皇)―蔵人頭―五位出納が平安時代から鎌倉時代にかけての朝廷の権力の中枢でした。恵信尼さまの従兄弟康信は、なんとこの五位出納だったのです。
➈ 三善康信―幕府の実力者―
寿永2年(1183)、三善康信は現職のまま、鎌倉へ送られました。翌年、新たに作られた問注所(もんちゅうじょ)の執事となりました。現代でいえば最高裁長官ともいうべき重職です。つまり康信は後白河法皇と源頼朝の話し合いにより、朝廷と幕府の協力関係を進める実質的な責任者として、鎌倉で働くことになったのです。
現代において、長い間、朝廷と幕府は対立していたとみられてきました。鎌倉時代は幕府が朝廷を圧迫していく過程と見られてきました。しかし現在ではそのような見方は否定されています。むしろ朝廷と幕府は、特に鎌倉時代の初期において、協力関係にあったのだと見られています。高校・中学の教科書なども、その見方の上で作成されています。その協力関係の象徴が三善康信だったのです。では、なぜ頼朝が康信を受け入れたのか。なぜ頼朝のためにも働いてくれると信用することができたのか。それは康信が頼朝の乳人(めのと)の1人の甥だったからです。母の姉が頼朝の乳母(めのと)でした。
⑩ 三善康信―源頼朝の乳母の甥―
頼朝には3組の乳人がいました。「乳人」はお乳を飲ませる乳母(めのと)である女性だけでなく、その夫も指します。夫婦はその家族・近い親族で団結して、その赤ちゃんを一生守るのが当時の習慣でした。ですから、逆に、頼朝はその3人の乳人と親族を絶対的に信頼していました。康信は、頼朝に会う前から心情的に結ばれていたのです。
また康信の弟の康清も、康信と一緒に鎌倉に下ってきて頼朝に仕えました。幕府の中では公事奉行(くじぶぎょう)という重職についています。康清の領地は筑波山の西側に広がっていました。
康信が亡くなったのは承久3年(1221)のことですから、親鸞聖人と恵信尼さま一家が関東での生活を始めてから、すでに7年経っていました。
私たちは、親鸞聖人一家は誰も知り合いがいない関東の荒野へ流れ着いたと思ってきました。しかし、そうではなかったのです。恵信尼さまの従兄弟は鎌倉幕府の重鎮だったのです。お互いに連絡を取り合ったか取り合わなかったかは別にして、このようなことは忘れるべきではないでしょう。