【2013年9月10月の活動】
著書の出版
ここでは、本年9月・10月の出版活動について記します。
《著書》
➀『五十六歳の親鸞―家族と恩愛―』(関東の親鸞シリーズ➈、真宗文化センター)
主に常陸国下総国・下野国で活動していた親鸞聖人は、50代半ばになると相模国での活動に関心が移っていったようです。本書は、相模国での活動を検討する前に、親鸞聖人の関東での家族についてを総合的にまとめました。
➁『親鸞と東国』
吉川弘文館、定価2100円
本書には、親鸞の伝記・思想・関係寺院等を東国を中心に記述しました。
また本書は吉川弘文館が新たに刊行を始めた「人をあるく」シリーズの第1回配本です。それぞれ、ある人物と一定の地域とのかかわりを軸にまとめられていくものです。今後、毎月1冊ずつ、数十冊の刊行が予定されています(第1回と第2回のみ、3冊ずつ)。
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なお本書刊行記念の講演会が、11月5日(火曜)午後6時30分~8時に、JR東京駅前の 八重洲ブックセンター本店8階ギャラリーで開催されます。演題は「親鸞と東国―その 史実と伝承をあるく―」です。主催:八重洲ブックセンター、協賛:吉川弘文館です。
八重洲ブックセンターの電話番号は03-3281-8201です。
《論考》
➀「どんどん悪人にされた日野左衛門」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で―第1回)
『学びの友』42巻1号(2013年9月号)
『出家とその弟子』で有名な日野左衛門。一夜の宿を乞うた親鸞聖人を追い出し、雪の中に石を枕に寝かせた左衛門。でも本来の話では、左衛門は冷酷な悪人ではなかったのです。
➁「如信と正覚寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第10回)
『自照同人』第78号(2013年9・10月号)
正覚寺は茨城県那珂市菅谷にあります。境内に如信の廟が設けられています。如信の子孫が、中世後期に陸奥国から常陸国に入り、さらに南下していく途中で設けた寺院です。
➂「悪五郎と呼ばれた性信」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で―第2回)
『学びの友』42巻2号(2013年10月号)
親鸞門弟二十四輩第一とされた性信。群馬県の真言宗寺院に伝えられる、鎌倉時代末期制作の性信坐像には、恐ろしげな乱暴者の風貌と、上品で教養ある風貌とが混在しています。
連載・親鸞聖人と稲田⑹】
―太子堂と親鸞聖人の聖徳太子崇敬―
➀ 聖徳太子堂
西念寺の参道を歩いて山門をくぐると、右に親鸞聖人御廟に至る山道があります。その山道を登っていき、途中で右に切れる分かれ道を進みます。するとまもなく聖徳太子堂に到着します。「太子堂」と通称されています。この建物は、戦国時代の天正年間に笠間時広によって建てられたものとされています。
太子堂を周囲から眺めると、かなりの部分に新しい建材を使っているように見えます。ですから、すべてが建立当初のものではないでしょう。しかし建物正面の象鼻は、建立当初の建材そのままを使用しているかと思わせます。印象深い品のよさがあります。
太子堂には聖徳太子像が安置されていましたが、現在ではありません。他の場所に保管してあるそうです。
➁ 笠間時広の太子堂建立
西念寺の記録によれば、太子堂は次のような事情によって建立されました。笠間城の城主笠間左衛門尉時広は、西の方の領主である水谷出羽守幡龍(ばんりゅう)と戦って敗れ、西念寺に逃げ込んできました。これも西念寺の記録によれば、西念寺には親鸞聖人の持仏堂があり、そこには本尊阿弥陀仏と脇侍の聖徳太子像および法然上人像が安置してあったそうです。
時広はもはやこれまでと、聖徳太子像の前で切腹しようとしました。すると時の住職の了與(りょうよ)なる僧がそれを諌め、自分は長槍を取って馬にまたがり、たった一人で幡龍の陣に乗り込み、和議を申し込みました。幡龍は了與の勇気に恐れをなして和議を承知し、すぐ兵を引き上げたそうです。
了與は西念寺第15世で、その勇気は人に優れ、戦略に勝れていることは武将のごとくであったといいます。
時広は大いに喜んで、「聖徳太子はかつて逆賊物部守屋を討たれた。いま、その力が了與にも及んで敵軍を退かせてくれた、これは偏に聖徳太子の恩徳である」と、太子堂を建立し、15石の領地を付けたといいます。とすると、太子堂の本尊は親鸞聖人の持仏堂から移したものということになるのでしょうか。
➂ 聖徳太子の誕生
さて親鸞聖人の聖徳太子信仰はよく知られています。浄土真宗の中では、親鸞聖人独特のものだと思っている方もおられると思います。しかし実際のところ、聖徳太子に対する信仰は、親鸞聖人だけではありません。
もとはといえば、聖徳太子は用明天皇の皇子で、叔母の推古天皇の摂政でした。皇太子であったという説もあります。そのころ皇太子は一人でなくて、複数いました。その人たちは、普通は「大兄(おおえ。おいね)」という名を背負っていました。例えば聖徳太子の息子であった山背大兄皇子(やましろ・の・おいね・の・みこ)です。彼は皇太子候補者だったのですが、蘇我入鹿に殺されてしまいました。聖徳太子は大兄という名は持っていませんでしたが、有力な次代の天皇候補であったことは間違いないのでしょう。
聖徳太子の本名は厩戸王(うまやど・の・みこ)といいます。「厩戸」とは、「馬屋の入り口」という意味です。太子は、お母さんの間人皇后(はしひと・の・おおきさき)が御所の馬小屋のそばまで来た時に産気づいて誕生した、とされています。これは、馬小屋で誕生したというイエス・キリスト伝説が遠く日本に入ってきて太子の誕生の話になったのだ、とまことしやかに言う人がいましたが、さてどうでしょうか。
➃ 日本仏教の祖
聖徳太子の言葉はさまざまに残されています。でも、ほんとうにそれらが太子の言葉かどうか、確定は難しいのです。その中で、次の漢字八文字は間違いないといわれています。
世間虚仮(せけん・こけ)、唯仏是真(ゆいぶつ・ぜしん)
これは「世の中は虚しく仮りのものだ。ただ仏の教えのみ真実なのだ」という意味です。
平安時代半ばころから日本では宗教改革の時代に入りました。そのころ、貴族は藤原氏のような権力を握った人たちと、脱落した人たちに分かれつつありました。一方では武士や農民等の社会的勢力が増してきました。それで従来の仏教では対応しきれなくなったのです。新しい仏教のあり方が求められていました。
宗教改革の場合、世界中どこでも、原点に帰ろう、最初の精神を思い出そうという動きが盛んになります。日本でも仏教の最初に帰ろうということになりました。そのために仏教を始めた釈迦を思い、インドへ行きたいと思う人も出始めました。しかし実際にはそれは無理です。そこで聖徳太子が思い起こされ、太子こそ日本仏教の祖だ、太子を大切にし、太子に学ぼうという動きが始まったのです。それは天台宗の中においてでした。
したがって平安時代後期から鎌倉時代にかけて、天台宗で修行をした僧侶には必ず聖徳太子信仰があったのです。鎌倉新仏教の祖とされている人たち、法然・証空(浄土宗西山派の祖)・道元・日蓮・一遍、そして親鸞聖人もみな然りです。逆に言えば、太子信仰を親鸞聖人のみの特色と考えるのは正しくありません。
➄ 親鸞聖人の家族と聖徳太子への崇敬
親鸞聖人はいつごろから聖徳太子を強く意識するようになったのでしょうか。それは若いころからに決まっているじゃないか、という考えに私は疑問を持っています。人は年齢が進むにしたがって考えが変わることもあるのです。親鸞聖人の聖徳太子についての気持は、80代になって執筆した聖徳太子和讃で初めて示されているだけです。その気持を、例えば20代のころから持っていたとは言えません。何とも言えません。
聖徳太子は「日本仏教の祖」であると同時に、結婚し家庭を持ち、その中で仏道に生きていました。親鸞聖人が恵信尼と結婚したのは恐らく31歳前後でしょう。しかし僧侶が正式に結婚した例はないといってよく、親鸞聖人としては家庭生活の手本はありませんでした。その手本を、仏道に生き家庭生活も行った聖徳太子に求めたのではないでしょうか。やがて親鸞聖人には子どもが生まれ、その子どもたちへの思いも深いものがあったと思われます。父親としての責任感、恵信尼の母親としての責任感も深まっていったものでしょう。それに伴って、聖徳太子への仏道と家族ともに生きたことに対する崇敬心は、ますます強まっていったのではないか、と私は考えています。それは家族についてのことはほとんど語っていない親鸞聖人が、聖徳太子について次のように語っていることからも推測されるのではないかと思うのです。
➅ 皇太子聖徳奉讃
親鸞聖人は聖徳太子に関する和讃を、3種類ほど、あわせて百数十種作っています。そのうち、88歳の時にまとめた「皇太子聖徳讃」11首の中に、次のA、B、Cの和讃があります。
A 一救世観音大菩薩
聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして
阿摩のごとくにそひたまふ
「救世観音大菩薩は聖徳太子の姿をとって現われ、お父さんが子どもを捨てないように私たちを捨てず、お母さんのように私たちに寄り添ってくださいます」 (第2首)。
聖徳皇というのは聖徳太子のことです。太子は観音菩薩の生まれ変わりとされていました。多々とは「お父さん、おとうちゃん」、阿摩とは「お母さん、おかあちゃん」という意味です。親鸞聖人は聖徳太子に父親と母親の理想像を見ていたのです。両親が子どもたちを慈しみ守る、家庭生活の望ましいあり方です。
B 無始よりこのかたこの世まで
聖徳皇のあはれみに
多々のごとくにそひたまひ
阿摩のごとくにおはします
「遠い昔からから今の世まで、聖徳太子は私たちをあわれんでくださる気持で、お父さんが子どもに寄り添うように私たちに寄り添ってくださり、お母さんのようにいてくださいます」(第3首)。
C 大慈救世聖徳皇
父のごとくにおはします
大悲救世観世音
母のごとくにおはします
「大きな慈しみの心をもっておられる聖徳太子は、父のようにいらっしゃいます。大きなあわれみの心を持っておられる救世観世音は、母のようにいらっしゃいます」(第6首)。
西念寺の太子堂は、親鸞聖人が在世中に建立されたのではないにしても、仏教の導き手として、家庭生活の導き手としての聖徳太子を象徴する建物として存在しているのです。