【第4回】 2013年7月1日     筑波大学名誉教授 今井雅晴

【2013年5月・6月の活動】
著著の出版
ここでは、本年5月・6月の出版活動について記します。
《著書》
①『常陸の親鸞聖人―常陸国府から鹿島神宮へ―』
 自照社出版(電話075-251-6401)、840円
 本書には、稲田草庵から常陸国府までの行程のことも記してあります。「歴史を知り、親鸞を知る」シリーズ➏です。常陸国に関する文学作品や和歌も取り入れています。親鸞聖人の活躍の世界を浮かび上がらせたものです。
《論考》
①「親鸞の家族と「きずな」」
 『中外日報』平成13年5月11号
 2011年3月の東日本大震災後の私たちの生きるべき道と、それに関して親鸞がどのように考えていたかを述べました。
➁「如信と崇泰院」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第8回)
 『自照同人』第76号(2013年5・6月号)。
 自照社出版
 崇泰院は、京都東山の浄土宗・知恩院の塔頭です。最初の親鸞廟堂のあった所です。如信は毎年そこで行われたであろう親鸞の祥月命日の法要に列席していました。後に報恩講と呼ばれるようになった法要です。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田⑷】
  ―稲田頼重(下)。「稲田九郎」―
➀ 『親鸞聖人門侶交名牒』
 親鸞聖人の門弟を一覧表にした、『親鸞聖人門侶交名牒』という史料があります。通称して、妙源寺本(愛知県)、光明寺本(茨城県)、万福寺本(山梨県)などといわれる史料をはじめとして、中世のものが数点知られています。これは、何かの必要があって幕府なり・朝廷なり、どこか公の役所に報告する必要があった時の写しが残ったのだろうと考えられています。現在は、その写しを転写したものの何点かが残っているのです。これらの交名牒は、転写の過程で少しずつ異なる表記になってしまっている部分もあります。しかし、右にあげた妙源寺本以下の三本に共通して、親鸞の門弟として次の記述があります。

 

➁ 「稲田九郎」
  頼重 常陸笠間住 (読み方:ひたち・かさま・じゅう
     号稲田九郎  いなだ・くろうとごうす)
「頼重房。彼は常陸国笠間に住んでいまして、稲田九郎と号しました」。
 「住」というのは、現在とは異なり、「住んでいる武士身分の者」という意味です。したがって右の交名牒には、「俗名を稲田九郎という名の武士で、法名(房号)を頼重房という親鸞聖人の門弟がいました」ということが記されているということになります。
 親鸞にとって、「稲田九郎」と号した頼重房は特別の人物だったのでしょう。それはほとんどの門弟が「常陸住」とか「常陸北郡住」など、領主として住んでいる地名が記されているだけなのに対して、頼重房の場合には俗名まで記されているからです。このような書き方は頼重だけです。
 西念寺所蔵の史料や交名牒には、頼重房の法名は教養であったと書かれています。そこで、正式の名のりは頼重房教養であったということです。そしてこの人物こそ、稲田頼重であるとされています。 

 

③ 武士の名のり
 ここで武士に名のりについて見ておきましょう。武士は、姓(せい)と名字(みょうじ)と仮名(けみょう)と実名(じつみょう)という四種類の名のりを持っています。例えば、宇都宮頼綱の姓は藤原、宇都宮は名字、仮名は弥三郎、実名は頼綱です。
 姓は天皇との関係を示す誇りある称号です。平、源、藤原などがそうです。ただし、平・源など無数にいるので、地名などを採って、「どこそこの誰々」と呼ぶ習慣がありました。それが名字です。
 また、実名はその本人以外の誰でもが呼んではいけません。その本人の精気が吸い取られてしまうからだそうです。実の親であっても呼んではいけないのです。必要があれば、その代わりに、仮りの名すなわち仮名を呼ぶのです。
 稲田九郎についていえば、稲田は名字、九郎は仮名です。では実名は何だったのか。この研究はあと一歩のところに来ています。
 ちなみに、「幼名」という言葉がありますが、これは成人になる前の名前です。当時、男性は15,6歳で大人になります。その式で仮名と実名を決めるのです。
 古代には、女性は定まった名はなく、婚約者が決まったらその女性の名前(呼び名。言い名)を婚約者がつける風習があったといいます。それで婚約者のことを「いいなづけ(言い名付け)」というのだそうです。

 

④ 「藤姓頼重房教養系譜」
 西念寺で所蔵している「藤姓頼重房教養系譜」によりますと、教養の項に次のように記されています。
  稲田九郎頼重、母は新院蔵人長盛の女。
  実は業綱、三才にして頼綱の猶子と為す。室は桃井遠江守義胤の女。承元元年稲田郷
  に止住す。建暦二壬申、霊夢を感じて、三月、親鸞聖人に請て弟子と為り頼重房教養
  と号す。二十四才。嘉禄元年、親鸞自らの寿像を与へて別当と為す。小野清慎作。
  宝治元年丁未六月十五日、五十九才にて寂す。
 文中、「猶子」というのは、養子と同様の立場ですが、養父の財産を譲り受ける権利はないとされています。「室」は妻のこと、「寿像」というのは、生前に造られた肖像(画)のことです。肖像画は、亡くなってから制作するのが一般的な風習でした。「別当」というのは、寺院の所有者のことです。
 新院蔵人長盛の女(「むすめ」と読みます)は宇都宮頼綱の母でもあります。

 

④ 武士の住居
 頼重の住居はどこだったのでしょうか。その前に、一般的に武士が住居を構えるのを好んだ場所を見ておきたいと思います。それは山の麓に近い、谷の奥です。奥から平地に向かって棚田を作っていきます。その両側の脇に農民を住まわせ、田を耕させるのです。
 領主である武士は住居の周囲に堀を掘って山水を暖めて田の方に流します。稲は南方系の植物なので、山の冷たい水は嫌うのです。そういう理由から、田は谷の一番奥が最も条件が悪いということになります。稲の生育が悪いのです。かといって、谷の一番出口は、日照りの時は水が流れて来なくて、これまた条件がよくないということになります。
 谷の奥から二番目の棚田が一番条件がよく、次はその下の棚田、その次はそのまた下の棚田で、最後が元へ戻って谷の一番奥の田なのです。
 農民たちは、当然ながら条件のよい棚田を耕したいのです。そこで毎年、耕す棚田を交換しました。その際、我がままを言って条件のよい棚田を譲らない者がいると困ります。そこで領主である武士が、きちんと、強制的に交換させるのです。これを勧農といいます。
逆にいえば、武士はそのような権利を与えられて農民の指導者となっています。刀を振り回して農民たちを脅して働かせるとか、年貢を搾り取るとか、そのようなことが本質ではないのです。
 時には横暴な武士もいたでしょう。その時には、農民たちは協力して農地から逃げ出します。それを逃散(ちょうさん)といいます。すると武士は年貢が採れなくて困り、農民たちに謝って帰ってきてもらいました。

 

⑤ 吹雪谷 
 国道50号から西念寺の駐車場を超えて進んでいくと、やがて山道に入ります。そのあたりを、昔、「吹雪谷」と呼びました。その奥のあたりが頼重の住居の候補の一つかなと思います。
 ただ、西念寺の裏山の親鸞聖人の御廟へ行く途中の地域では、以前に土器が発見されたそうです。つまり、それは人が生活をしていたことを示しています。むろん、正式の発掘で調査ではありませんので、いつの時代の住居遺跡かはまだ不明です。

 

⑥ 武士の生活
 武士は、ふだん、農民を指揮して農業に励んでいます。合間をみて、馬を乗りこなす練習をし、また弓の練習をします。戦争での主な武器は刀ではなく、弓や石です。刀ですと、敵に接近して戦わなければなりません。武士だって死にたくないのです。弓や石なら遠くから飛ばせばいいのですから、少しは気が楽です。
 また馬は、戦場まで乗っていくだけです。戦場では降りて戦うのです。当時の馬は小さく、背中までは 130センチくらいの高さしかなかったようです。鎧兜に身を包み、刀をさして80キロから90キロにもなる重さの武士を乗せて、縦横に走り回ることはとてもできませんでした。
 さらに、戦う前に名のりをあげるという話がありますけれども、あれは『平家物語』が作った虚構だといいます。つまり、そんな事実はなかったのです。確かに、いくら大きな声で喚いても、ちょっと離れた所にいる敵には聞こえなかったでしょう。聞こえるような近くにいたのでは、お互い、危なくて仕方がありません。弓で狙われたり、石を投げつけられたりしますから。

 

⑦ 稲田頼重の墓所
 西念寺の裏山の親鸞聖人の御廟へ行く途中の右手に、稲田頼重の墓所が建てられています。南向きの、静かな場所です。
 ★参考 拙著『親鸞をめぐる人びと』自照社出版、2012年。2000円

 ご年配の受講者が多い状況を勘案して、「夏の市民大学講座」中止することに致しました。

 経済活性化を優先する crazyな政府の方針に反しますが、コロナ再拡大が進んでいる現状では市民大学講座を開催するべきではないと考えた次第です。ご迷惑をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。どうぞ皆さまお元気でお過ごしください。再びお目にかかれる日を楽しみにしております。

          (2020年7月5日)

 

   

夏期(3月下旬~11月中旬)の開門時間は8:30~16:30です。

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。