【2013年3月・4月の活動】
著書の出版
ここでは、本年3月・4月の出版活動について記します。
《著書》
➀『恵信尼さま物語』
東海教区寺院女性・女声コーラス“萌木の響き”
結成15周年記念演奏会実行委員会
恵信尼の誕生から結婚までを描きました。
➁『五十五歳の親鸞―嘉禄の法難のころー』(関東の親鸞シリーズ⑧)
真宗文化センター(電話03-3434-8007)
嘉禄の法難における宇都宮頼綱・塩谷朝業兄弟の活躍、さらには親鸞のかつての
法兄である聖覚と隆寛についても述べています。
《論考》
➂「如信と常瑞寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第7回)
『自照同人』第75号(2013年3・4月号)。自照社出版(電話075-251-6401)
如信は親鸞の孫で、後に覚如によって本願寺第二世とされました。「(奥州)東山の如信上人」と呼ばれ、稲田の人たちとも親しかったようです。
《対談》
➃「関東の門弟との共通課題から信心の独自性
―大阪教区・難波別院宗祖親鸞聖人750回御遠忌讃仰特別企画㊤―」。
大谷大学准教授三木彰円氏と。『南御堂』第609号(2013年3月号)
真宗大谷派難波別院(電話06-4708-3275 編集部)
親鸞聖人の関東での活動、稲田での『教行信証』執筆の背景や意義などを中心に対談しました。
➄「問いや課題を持つことで生み出す生きる力
―大阪教区・難波別院宗祖親鸞聖人750回御遠忌讃仰特別企画㊦―」。
『南御堂』第610号(2013年4月号)
➃の続きです。
[連載・親鸞聖人と稲田⑶]
―稲田頼重(中)。常陸国稲田郷―
西念寺の伝えでは、稲田の領主稲田頼重は下野国の大豪族宇都宮業綱(成綱)
の末子で、文治5年(1189)の誕生とされています。親鸞聖人が関東へ来た建保2年(1214)には26歳であったということになります。これは数え年です。では稲田はどのよう所で、頼重はどのような生活を送っていたのでしょうか。
➀ 稲田郷と福原郷の領主
さらに西念寺の伝によりますと、頼重は稲田郷と南西の福原郷の領主であったといいます。稲田郷は東西約4キロ、南北2、数キロのジャガイモのような形をしています。福原郷は東西約3キロ、南北5キロあまりの長方形に近い形をしています。
頼重は、5人いたという業綱の息子たちの末子とはいえ、長兄頼綱の養子にしてもらっています。3歳の時だといいます。父業綱はその翌年に亡くなっていますので、頼綱に頼重を託したのかなと思います。ただ頼綱の年齢を計算すると、頼重3歳だと頼綱14歳です。一般的には、男性は15,6歳で大人、女性は13歳で大人です。頼綱はこの年齢ではちょっと若すぎるかなと思います。
★頼重関係系図
宇都宮業綱(成綱)―頼綱
├弟
├弟
├朝業(塩谷)―時朝
└頼重(稲田)
稲田「郷」を直接支配する領主がいないことは考えられませんので、それが宇都宮頼綱の弟であったとされているのです。
➁ 宇都宮頼綱の弟・養子にしては領地が少ない?
私は以前からずっと疑問に思ってきたとことがあります。それは、下野国中部から南部および笠間郡を所領とする大豪族宇都宮頼綱の弟・養子にしては、頼重の領地は少なすぎるのではないかなということです。稲田・福原というたった2郷しか領有していないのですから。しかもそこへ、関東ではまだ無名であるとはいえ、法然門下の法兄親鸞を迎えるということはどういうことだろうと思っていました。頼綱は、法然の熱心な門弟で、実信房蓮生という法名をもらっていました。親鸞より5歳の年下です。
➂ 稲田郷の特色
しかし稲田は経済・政治・宗教的に非常に重要な地域であったということが分かりました。そこへ信頼できる弟を配置したのかな、と思うのです。重要な地域というのは、次のようなことです。
第一に、地形からみて農林水産物が豊かな地域であったろう、ということです。
第二は、南北に通る街道の宿場町であったことです。
第三は、常陸国の七大神社の一つがあったことです。それは稲田神社です。
第四は、大きな神社の門前町であったということです。
以下に、それぞれの内容について見ていきたいと思います。
➃ 稲田は農林水産物が豊かな地域
私は近年、稲田付近のお米が非常においしいことを実感しています。棚田のお米です。おいしいお米の収穫のためには、お米の種類・肥料・水・草取りなどの手入れがそれぞれ重要です。その中で棚田に流れてくる水には、汚い、例えば生活排水などが入る余地はありません。清水がそのまま棚田に流れ込みますから。おいしいわけです。
堤防を造る技術や、不必要な水を捨てる技術がまだ開発されていなかった戦国時代末期まで、日本の田圃の主流は山麓に作られる棚田でした。人家の多くもその付近に造られました。そこなら大雨が降っても大丈夫です。水はさっさと流れていき、田畑や家に大水がかぶるという危険性は少なかったからです。
稲田とその付近には小高い丘陵が展開しています。棚田にはぴったりです。また猪や兎、川や沼の魚などもたくさん獲れたでしょう。稲田郷は豊かだったはずです。鎌倉時代、魚のなかでもっとも尊重されていたのは鯉です。後世になりますと、鯛ということになりますが。
⑤ 鎌倉時代の食事
鎌倉時代、食事は1日2回でした。朝起きてひと仕事してから第1回目の食事です。午前9時、10時でしょう。第2回目は4時前後でしょう。
私は近年、何度かエジプトの大学へ客員教授で赴任しました。それで分かったことは、多くのエジプトの人たちの朝食は午前9時、10時で、昼食は午後3時、4時ということです。アメリカの大学にも何度か赴任しました。アメリカの大学には昼休みがありません。昼食は、適当な時間を見つけてとるのです。その時に知り合ったドイツ人は、ドイツでは夕食がないと言っていました。「じゃ、夜、おなかがすいたらどうするんだ」と聞きましたら、困ったように考えながら「冷蔵庫を開けて何か食べる」と言っていました。どうも、夜はおなかがすかないようです。1日3回食事をとる日本人は勤勉ということでしょう。
親鸞は「浄肉文」を書いて、「自分のために殺すのを見ていない肉」「それを聞いていない肉」「その疑いのない肉」なら、僧侶が食べても罪にならないと説きました。「浄肉文」は三重県・専修寺に親鸞自筆が所蔵されています。つまり、結局のところ、自分が殺した動物の肉でなければ食べても問題ないということですね。
米・麦・粟・稗などの穀物は当然食べたでしょうし、薯蕷(とろろ)がご馳走として喜ばれたことは分かっています。ただし、蕎麦を食べる習慣はありませんでした。おいしいとは思われなかったのです。飢饉の時のための備蓄品でした。やっと室町時代から「蕎麦がき」として食べることが始まりました。「おいしい」と日本人が思うようになったのは江戸時代になってからです。
⑥ 稲田は南北に通る街道の宿場町
「宿場町」というのは江戸時代的ないい方です。鎌倉・室町時代は「宿(しゅく)」といいました。奈良・平安時代は「駅(うまや)」です。「駅家(うまや)」とも書きました。公用の馬を準備していたので「うまや」と称したのです。
稲田には、南北に通る街道の「大神駅(おおかみの・うまや)」という宿場町がありました。宿場町では月に3回、市が開かれるのが普通でした。鎌倉時代の紀行文『東関紀行』には、尾張国の萱津(かやづ)の東宿(ひがしじゅく)での市のにぎやかな様子を、
萱津の東宿の前をすぐれば、そこらの人あつまりて、
里もひびくばかりにののしりあへり。
と記しています。
「大神」というのは、異論もあるようですが、稲田神社のことと考えてよいだろうと思います。とても大きな神社でしたから。
⑦ 名神大社の稲田神社
稲田神社の祭神は奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)です。『古事記』に
出る素戔嗚尊の妃と同一人物であるとされています。
平安時代、朝廷が全国の有力神社を把握するために設けた4段階の位置づけ(名神大社・大社・中社・小社)の中で、稲田神社は名神大社でした。
弘安2年(1279)に常陸国府で作成した「常陸国作田惣勘文」(通称「弘安の大田文」。国中の田の面積の一覧表)によりますと、稲田神社は17町あまりの田を領有していました。1町は10反で当時3,600坪、1坪は6尺3寸四方ですので、17町あまりというのは20万平米以上ということになります。当時、畑や山林は記録に残しません。
稲田神社は全体として広い領地を持った有力な神社でした。笠間郡で名神大社は稲田神社だけです。
⑧ 稲田は大きな神社の門前町
「門前町」という用語も、もっと後の時代になってからの言葉です。大きな神社には、多数の僧侶と少数の神官が住んでいました(逆さまではありません)。当然、人の出入りは多かったはずですし、経済活動も盛んだったことでしょう。
⑨ 稲田は重要な拠点
以上のように見て来ると、稲田は笠間郡の中で、後に笠間時朝が笠間城を築
いた佐白山付近より、政治的にも経済的にも宗教的にもずっと重要な拠点であ
ったと判断されます。そこへ頼綱が肉親の弟を送り込んだということでしょう。
頼重の領地は少ないですが、宿場や市、稲田神社門前からはかなりの収入が見
込めたということではないでしょうか。
頼重は稲田神社と折り合いをつけつつ、宇都宮一族のために働いていたので
す。頼重の館(たち。屋敷)跡は不明です。