【2013年1月・2月の活動】
著書の出版
ここでは、本年1月・2月の出版活動について記します。
《著書》(再版)
➀『親鸞と如信』
自照社出版(電話075-251-64011)1800円
如信は毎年、祖父親鸞の祥月命日に奥州から京都へ上りました。その時、如信は稲田に立ち寄り、そこの米を背負って上洛したという伝えがあります(本書76-77頁)。
《編著》
②『エジプト アインシャムス大学に赴任して(続々)』
自照社出版、1500円
本書には、私のエジプト・カイロ大学での講演の講演録の「鎌倉時代の念仏僧・親鸞とその妻の恵信尼の研究」と、同じくカイロ日本文化センターでの講演録、「日本語と日本人のこころ④―人称代名詞(「わたし」「あなた」など)の種類の多い日本語―」「日本の伝統と文化④―日本人の自然観の展開と生け花の成立―」等も収めました。
《論考》
③「聖典ゆかりの土地と人々 プラス 親鸞聖人と関東と門弟たち」
『季刊せいてん』no.101(2012年冬の号、2012年12月発行)
浄土真宗本願寺派総合研究所(電話075-371-4171)、700円
④「家族―仏教の視点から―」『同朋』第65巻第1号、
真宗大谷派宗務所(電話075-371-9181)、300円
[連載・親鸞聖人と稲田⑵]
―稲田頼重(上)。親鸞を迎える―
建保二年(1214)、親鸞聖人は妻の恵信尼さま、7~8歳の小黒女房(おぐろの・にょうぼう)と4歳の信蓮房(しんれんぼう)とともに越後を出発し、稲田に到着しました。稲田に迎えたのは稲田九郎頼重(いなだ・くろう・よりしげ)であったと西念寺では伝えています。彼は宇都宮頼綱という豪族の弟で、その猶子でもあったといいます。頼綱は法然の最晩年の有力な門弟でした。
① 越後から稲田までの旅―食事は恵んでもらっていたのか?―
親鸞一家は、越後から関東までの旅において毎日の食事はどうしていたのでしょうか。
従来、「食事くらい何とかなる、旅の途中で農民たちが恵んでくれるよ」、という意見が当たり前のように言われていました。また目的地のはっきりとした当てもなく、一家はなんとなく関東へ流れていったようにも言われていました。
しかしどうでしょう。道端の農家が、いつも食事を恵んでくれるでしょうか。幼児二人も連れて、日が暮れても人家が見つからなかったらどうしましょうか。当てのない、行き倒れになるかもしれないそんな旅を、貴族出身の恵信尼さまが承知するでしょうか。今の私たちの生活で考えてみましょう。夫が「布教で遠くへ行きたい。一家で行こう」と言い出したとして、「ではお食事は?」「途中で誰かが恵んでくれるよ」「でもどこまで行くのです?」「さあ、まあ、遠くだよ」「信蓮房はまだ満2歳ですよ」「歩かせよう。大丈夫だよ」……妻は目の前が真っ暗になるに違いありません。親鸞聖人と恵信尼さまはその旅がおできなる、はずはありません。必ずや親鸞聖人一家を迎える人が関東にいたと考えるべきです。それが稲田郷の領主の稲田頼重であったと、西念寺では伝えているのです。
➁ 聖徳太子堂に泊まって来たのか?
それから、親鸞聖人一家は、旅の途中では道路沿いの聖徳太子堂(太子堂)に泊まって夜を過ごしたとも言われてきました。しかしそんなに都合よく夕方に太子堂が見つかるはずもありません。それに、一家が関東に来た建保2年以前に、越後から常陸の間に太子堂があったという歴史的記録は一つもありません。親鸞一家が太子堂に泊まったとするのは夢まぼろしです。
➂ 関東の大豪族宇都宮頼綱
宇都宮頼綱(うつのみや・よりつな)は下野国(栃木県)中部から南部にかけての広い地域を勢力圏としていました。親鸞聖人が関東へ来る9年前の元久(げんきゅう)2年(1205)年には常陸国笠間郡も支配下に置きました。
★頼綱・頼重関係系図
北条時政━義時━泰時
┗女子
│━泰綱
│┗女子(藤原為家の妻)
宇都宮宗円━□━□━業綱(成綱)━頼綱
┗頼重
宇都宮氏は「藤原」を称して、初代宗円(そうえん)以来業綱までの4代にわたり、正妻は必ず京都の貴族から迎えていました。従って貴族たちとの結びつきも強く、頼綱の娘は和歌で知られた藤原定家(ふじわら・ていか、さだいえ)の後継者為家(ためいえ)の妻となっています。頼綱に至ってはじめて関東の武士の女性を正妻としたのです。北条時政(ときまさ)の娘、義時の妹です。そこで生まれた泰綱(やすつな)が跡継ぎで、彼は次の執権に就任する北条泰時(やすとき)ととても親しくなっていました。
④ 宇都宮頼綱は法然の門弟
また浄土真宗の歴史の観点から特筆すべきことがあります。それは、頼綱は法然の最晩年の有力な門弟で、実信房蓮生(じっしんぼう・れんしょう)という法名を与えられていることです。頼綱が法然門下の優れた親鸞聖人のことを知らないはずはありません。
本来、親鸞聖人は鎌倉を目ざしていたと思います。それを聞いた頼綱は、「ぜひ私の領地へおいでください」と稲田に招いたのでしょう。鎌倉のことについては次回以降に述べます。それにいくら昔だって親子4人、他人の領地に勝手に住めるはずはありません。親鸞聖人一家が事実として住んだ所が宇都宮一族の領地ならば、頼綱が知らないはずはないのです。逆に、頼綱と親鸞聖人との話し合いが前もってできていたと考えるべきなのです。
⑤ 稲田頼重―頼綱の弟で猶子
西念寺の「藤姓頼重房教養系譜(とうせい・らいじゅうぼう・きょうよう・けいふ)」によれば、頼重が亡くなったのは宝治(ほうじ)元年(1247)6月15日、59歳とありますから、逆算すれば誕生は文治5年(1189)のこととなります。そのころは数え年です。父は業綱(なりつな。成綱)で、業綱には息子が5人いました。長兄が頼綱、末弟が頼重です。11歳違いです。親鸞が関東に来た時、頼重は26歳でした。
ところが業綱は頼重が4歳の時に亡くなっています。それに関わっているのでしょう、頼重は3歳の時に頼綱の猶子にしてもらっています。
⑥ 鎌倉時代の親子―武士団の団結―
鎌倉時代の武士団は、一族が強く団結して事に当たりました。親の財産、特に領地は、基本的にはすべての息子・娘に分けて与えられました。息子・娘はその領地を経営し、兵力を養い、いざという時にはその兵力を合わせて外敵と戦うのです。
ところで猶子というのはどのような立場なのでしょうか。猶子とは「猶(なお)、子のごとし」とも読みます。養子に次ぐ待遇です。養子は、名字を受け継ぎ、財産をもらえる権利があるという立場です。猶子とは、もとは名字を受け継ぐ権利があるだけでした。しかし養子も猶子も、義理の父の強い保護を受けられることは間違いありません。
ただし財産を譲ることに関して「悔い返し」という親の権利がありました。いったん譲っても、親は取り返すことができるという権利です。現在では親が土地の名義を子どもに変更すれば、勝手には取り戻せません。しかし鎌倉時代はできたのです。そのためにはただ一つ、「お前は親不孝だ」といえばよかったのです。実際に親不孝でなくてもです。
⑦ 頼重、親鸞を迎える
つまり頼重は大豪族頼綱に守られている代わりに、頼綱の命令に背くことはできませんでした。その頼綱の指示で、頼重は親鸞一家のお世話をすることになったということになります。「分かりました。丁重にお迎えします」ということで、頼重は越後まで迎えに行き、あるいは途中まで出迎えて稲田まで安全に連れてきたものでしょう。専修寺本『親鸞伝絵』には、下野国を歩いている親鸞聖人に常陸国を指し示す烏帽子姿の武士が描かれています。手に数珠を握っています。信仰のあつい仏教徒であることを表しています。
やがて頼重は聖人の門人になりました。
次回は稲田頼重(中)で、領主としての立場や親鸞聖人の門弟としての立場などを見ていきます。