新年あけましておめでとうございます。
このたび西念寺様のHPに、私のコーナーを設けていただくことになりました。親鸞聖人の稲田草庵以来の伝統ある西念寺様のHPにコーナーを設けていただくことは、とても光栄なことと思っております。
私は歴史学の立場から親鸞聖人・恵信尼さま、さらには門弟の方々の伝記、浄土真宗史の研究を進めております。このコーナーでは、主に稲田に関する私の研究や講演活動と、「親鸞聖人と稲田」と題する連載を掲載していく予定です。どうぞよろしくお願いを申し上げます。
[2012年の活動]
⑴ 書籍の出版
昨年(2012年)は以下の著書を出版しました。
《著書》
①『五十二歳の親鸞』(「関東の親鸞」シリーズ➅)
真宗文化センター(電話03-3434-8007)、500円
②『関白九条兼実をめぐる女性たち』(「歴史を知り親鸞を知る」シリーズ⑤)
自照社出版(電話075-251-6401)、800円
③『親鸞をめぐる人びと』
自照社出版、2000円
④『現代語訳 恵信尼からの手紙』
法蔵館(電話075-343-5656)、1600円
⑤『五十三歳の親鸞』(「関東の親鸞」シリーズ➆)
真宗文化センター、500円
⑥『下野と親鸞』
自照社出版、1500円
《編著》
⑦『エジプト アインシャムス大学に赴任して(続々)』
自照社出版、1500円
《監修》
⑧『越後の恵信尼』
ゑしんの里記念館(電話0255-81-4541)、800円
⑨今井雅晴先生古稀記念論文集編集委員会編『日本の中世文化と浄土真宗』
思文閣出版、13000円
今年度もすでに何冊かの出版を準備しております。いずれ、順次このコーナーで紹介していきたいと思っています。
⑵ 講演など
この項では、直接、稲田に関わる講演などの活動について記します。
➀笠間市観光協会 講演「笠間の親鸞」:2月29日
➁「山伏弁円の道を歩く会」:4月22日
この会は、弁円ゆかりの大覚寺様と真宗文化センターとの共催で、大覚寺から板敷山を越えて西念寺まで歩くという企画でした。残念ながら降雨のため西念寺まで歩けず、途中で終わりにしました。この会は毎年催す予定です。
この会については、『親鸞の水脈』第12号(真宗文化センター発行)に、参加した東洋大学の大学院生・学部生の皆さんが「山伏弁円の道を歩く会」と題した報告を掲載しています。
➂稲田禅房サマーセミナー(第17回親鸞講座)
講演「浄土教の中の親鸞―源信、法然、親鸞、一遍―」:7月21日
➃「親鸞聖人の道を歩く会―稲田から高田まで―」準備会:12月10日
以前から「親鸞聖人の道を歩く会―稲田から高田まで―」を実施したいと考えていました。そこでその準備のため、現地の人に案内していただき、12月に10人ほどで稲田から高田までの山道を歩きました。ただし全行程歩くと直線でも二十数キロありますので、ひとまず1時間半ほど歩いたころで、違う道を引き返しました。心地よい疲れでした。
この準備会の様子は、参加者の一人によって『親鸞の水脈』第13号 (2013年4月刊行予定)に報告が掲載されます。
[連載・親鸞聖人と稲田 ⑴ ]
―越後での生活の見直し。伯父日野宗業の助け―
この連載は親鸞聖人と稲田について、いろいろな人物やできごと、歴史や地理的環境などを取り上げて述べていきたいと思います。その際には、新しい研究成果をできるだけ反映させていきます。それも浄土真宗史だけではなく、日本史や文学史、宗教史などの新しい成果も取り入れていくつもりです。
今回はその第1回として、親鸞聖人が稲田に来る前に7年間住んでいた越後の生活を見直したいと思います。「越後の親鸞聖人は、慣れない田圃の労働で苦労をされた。食うや食わずで大変だった」という従来の見方は改めたいということが主旨です。その手掛かりが親鸞聖人の伯父の一人である日野宗業(ひの・むねなり)です。
① 「建保」の年号と日野宗業
建保(けんぽう)2年(1214)、親鸞聖人は越後から関東へ移ってきました。妻の恵信尼さまと小黒女房(おぐろの・にょうぼう。7~8歳。数え年)と信蓮房(しんれんぼう。4歳。同)と一緒です。この「建保」という年号(元号、げんごう)については、興味深いことがあります。「建保」は親鸞の伯父日野宗業が後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)に申し上げて採用されたものだ、ということです。
日野経尹━━範綱━━信綱(尊蓮)━━広綱
┗ 宗業
┗ 有範━━親鸞 ┏━━━━小黒女房
|━━━━━━━信蓮房
恵信尼 ┗━━━━覚信尼
※経尹(つねまさ)
よくいえば個性が強く、貴族社会から締め出されました。そのため、子どもたちはとても苦労しました。
※範綱(のりつな)
『親鸞伝絵(御伝鈔)』によれば、親鸞聖人の出家の時に付き添って行ってくれた人です。
※信綱(のぶつな。尊蓮)
親鸞聖人の主著『教行信証』の書写を最初に許された人物です。
※広綱(ひろつな)
覚信尼の夫です。
元号は、上からのお声がかかった数人の学者がそれぞれ自分の学識を絞って提案します。その中から天皇・上皇なり摂政や関白なりがもっともよいと判断した元号を選びます。近年では、「平成」の元号が決まった時、当時の小渕敬三首相が半紙に書いて笑顔で国民に指し示したことが思い出されます。
② 日野宗業は後鳥羽上皇と九条兼実のお気に入り
専制君主として知られた後鳥羽上皇が、気に入らない学者を提案者に選ぶはずはありませんし、ましてその年号を採用するはずもありません。宗業は後鳥羽上皇のお気に入りだったのです。実際に宗業は、はじめは関白九条兼実に学者としての力を非常に高く評価され、上皇と兼実の引きで従三位(じゅ・さんみ)という高位に昇っています。日野家は中級の貴族ですし、ましてその分家の嫡男でもない宗業が登れる位ではなかったのです。
③ 越後権介日野宗業
宗業は、親鸞聖人が越後に流された時、その一か月前から越後権介(えちごの・ごんのすけ)として以後の4年弱、その後は前越後権介(さきの・えちごの・ごんのすけ)として親鸞聖人一家の越後での生活を守りました。
「介」というのは、国司の第二等官(次席)です(第一等官は「守(かみ)」です。越後守といったような)。「権介」というのは、すでに介がいるのに、もう一人任命された者です。当然、その国の支配・管理に必要な人間ではありません。しかしそうであっても、その国に対しては絶大な権威を有します。
当時の官職は適材適所ではなく、希望する者の中から選ぶのです。宗業は、親鸞聖人一家の越後での生活を守るために、九条兼実や後鳥羽上皇に頼んで越後権介に任命してもらったに違いないのです。
したがって、親鸞聖人を守ることを宗業が後鳥羽上皇の了承を得ていないはずはありません。宗業は、上皇に嫌われてまで親鸞聖人一家を保護することはあり得ないでしょう。
また「知行国(ちぎょう・こく)」「知行国主(ちぎょうこく・しゅ)」という、平安時代からの用語があります。平安時代後期から鎌倉時代には、ある国の国司を任命する権利は誰か貴族あるいは皇族に与えられていました。その国のことを知行国といい、任命する権利を持っている人のことを知行国主といったのです。
つまり、例えば越後介を任命する場合、天皇・上皇や摂政・関白などがいきなり誰かを任命するのではなく、知行国主の意向を聞き、それによって任命したのです。そして越後国の知行国主は長い間九条兼実でした。その権利は後鳥羽上皇に移った時期もあったようです。したがって越後国は後鳥羽上皇や九条兼実が強い権限を持っていた国であると判断できるのです。また当時の役職は、適材適所というよりも、希望する者たちの中から人事権を持っている者が選ぶのが当たり前でした。
④ 後鳥羽上皇・九条兼実・日野宗業の合意
九条兼実に高く評価され、後鳥羽上皇にあつく信任されていた日野宗業が、親鸞聖人を守る目的で越後権介に任命してもらい、親鸞聖人を越後へ流してもらったのです。いわば親鸞聖人の越後流罪とそこでの生活は、後鳥羽上皇・九条兼実・日野宗業三者合意の上だったのです。越後の親鸞聖人は、国司の甥として生活と身分は保証されていたとみるべきなのです。越後へ見境なく放り出され、よく言われてきたような、慣れない田畑を耕す仕事で生活を支えなければならない、ということではなかったのです。
浄土真宗史では、後鳥羽上皇は親鸞聖人を越後流罪でひどい目に合わせたとして完全な敵役(かたきやく)になっていますが、必ずしもそうではなかったのではないか、と私は考えています。
⑤ 法然・隆寛・源頼朝・日野範綱は田を耕したか?
ところで、親鸞聖人と同じ理由で四国に流された法然が田や畑で生活のために泥にまみれて苦労した、などという話は聞いたことがありません。同じ時に流罪にされた親鸞の先輩・同輩6人についても、その話はありません。後に嘉禄の法難(一二二七年)で東国に流された隆寛(りゅうかん)についても同じです。隆寛は、親鸞が尊敬した兄弟子の一人で、『唯信抄』の著者です。
さらにいえば、伊豆国に流された源頼朝も、播磨国に流された日野範綱(親鸞聖人の伯父です)も、まったく同じです。苦労しながら田を耕したという話はありません。確実な史料上の根拠もなく、どうして親鸞聖人だけが田畑での苦労を言われてきたのでしょうか。それは越後流罪がいかにひどいことだったかを強調するためだったのでしょう。
しかし、その考え方は改められなければなりません。越後では伯父越後権介日野宗業の保護があり、恵信尼さまの実家三善家からの経済的援助もあったはずです。三善家の領地も越後にはあったことですし、そこから援助が来ないはずはありません。
私は、親鸞聖人7年間の越後生活が楽だったと主張するつもりはまったくありません。大変な苦労があったのです。何が苦労だったのかは、また別の観点から検討すべき事柄なのです。
次回は、稲田の領主であったとされる稲田頼重の立場について見ていきたいと思います。