第11回 2015年1月1日    東京工芸大学名誉教授 加藤智見

【連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―(6)】

 

〈第五段階…喜びを正しく人に伝える〉
 私は、親鸞とルターの二人の生き方を考えると、五つの段階を通して信仰が得られ、深めてられていったといえるのではないかと考えています。五つの段階とは、かけがいのない自分を大切にし、自分と向き合う第一段階、挫折を知り、大いなるもの(仏や神)に出会う第二段階、大いなるものの働きかけに気づく第三段階、大いなるものを信じる喜びを得る第四段階、そして喜びを正しく人に伝える第五段階です。


 先回は第四段階について考えましたので、今回は第五段階について考えてみます。

 親鸞は、常陸の国笠間郡の稲田に草庵を結び、以後二十年ほど、ここで『教行信証』の執筆に心血を注ぎ、同時に粘り強く関東一円に信仰の喜びを正しく伝えようとしました。その伝道の姿をよく表わす話があります。
 当時このあたり一帯は、弁円(1251没)という山伏の勢力範囲でした。ところが親鸞が念仏の教えを説き、信仰の喜びを伝えるようになると、次第に弁円の信者が減ってきたため、彼は親鸞を妬み憎むようになりました。彼は親鸞を呪い祈祷を繰り返しますが、効き目はありませんでした。業を煮やした彼は、時折親鸞が近くの板敷山を通るという情報を得、そこで待ち伏せ殺害しようと計画しました。しかし何度待ち伏せても行き違ってしまい、焦った彼は剣をもって直接稲田の草庵に乗りこみました。
 ところが弁円の前に現われた親鸞の姿は、弁円が思い描いていた姿とはまるで違っていました。弁円が剣をもって怒り狂っているのに、親鸞は数珠だけをもち、平然としているのです。動揺した表情は微塵もありませんでした。その顔には、かえって親しみさえこめられていました。弁円は拍子ぬけしてしまいます。親鸞の気持ちがまるでわからなかったからです。しかし親鸞にしてみれば、心待ちにしていた人間がやってきたのです。阿弥陀仏が最も救おうとしている人間が目の前に現われたのですから。敵が現れたのではなく、自分と同じ罪深い仲間が現われてくれたのです。「よくぞ参られた」という心境であったろうと推察されます。
 弁円の殺意は消えてしまいました。茫然とする弁円でしたが、もとを正せば彼も道を求めてきびしい修行を積んだ身でした。親鸞の心がやがて彼の心に入り、浸みこみました。現世利益ばかりを追い求めるようになってしまった弁円の心の奥に、求道一筋に励んでいた頃の心を思い起こさせたのでしょう。仏に救われ、喜びの中に生きている親鸞の姿に、現世利益のために肩肘張って生きている自分の心が解きほぐされていくのを感じたに違いありません。目覚めさせられたのです。

弁円の回心を慶び笠間時朝が寄進したと伝わる桜の遺木(西念寺境内)
弁円の回心を慶び笠間時朝が寄進したと伝わる桜の遺木(西念寺境内)

 親鸞は、涙にくれて弟子にして欲しいと頼む弁円を受け入れますが、彼を弟子とは呼ばないで同朋、同行と呼びました。そのわけは、親鸞が彼を救うのではなく、ともに阿弥陀仏に救われる存在になったのですから、師と弟子の関係などはあり得なかったのです。よく知られているように『歎異抄』では次のように述べられています。「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」(第六条)
 この文の意味は、私のはからいで人に念仏をもうさせるのであれば弟子であるともいえ
るでしょうが、阿弥陀さまの働きによって念仏もうさせていただく人々を、弟子であるなどとはとてもいえることではない、というものです。弁円は親鸞から明法という法名を与えられました。
 信仰の喜びを伝えるということはともに信じ、ともに念仏を称える仲間となるということです。無理に教えこんで信者数を増やすなどということとはまったく違うことなのです。

 

 一方、ルターが信仰の喜びを正しく人に伝えるためにしたことはいくつかあるのですが、ここで取り上げたいのは、聖書を当時庶民が使っていたドイツ語に翻訳したという点です。

ヴァルトブルク城。ルターが翻訳を行った部屋も残っている。
ヴァルトブルク城。ルターが翻訳を行った部屋も残っている。

 ルターは1521年、38歳のとき、ローマ教会から破門され、追放されたのですが、ザクセン選帝侯フリートリヒによってヴァルトブルク城にかくまわれることになりました。このとき仲間から聖書をドイツ語に翻訳するようにとすすめられます。正しく改革を進めるためには、改革の原点となるべき聖書の教えが正しく人々に伝えられることが前提となるからです。聖書の翻訳は彼自身も以前から考えていましたので、この城で翻訳に専念することにしました。
 当時すでに幾種類かのドイツ語訳聖書はあったのですが、すべてラテン語の聖書から訳されたものでした。そこで彼はギリシァ語の原典から翻訳することにし、全身全霊を傾けて没頭します。翻訳の仕方は単なる文法的な翻訳ではなく、信仰による訳であり、訳を通して深く神の意志を聴き取ろうとするものでした。
 たとえばルター研究者のフリーデンタールは「ルターは彼にとって重要な個所であるパウロのロマ書の一節を、『人は律法のわざの助力なしに、ただ信仰によってのみ義とされると私たちは考える』と訳した。『信仰によってのみ』sola fide という考え方は彼の教えの根本的なテーゼの一つになったが、これに対してさっそくきびしい反論が投げかけられることになった。ルターは、solaつまり、『によってのみ』alleinという言葉が聖書にはないことをよく知っていた」(『マルティン・ルターの生涯』)と指摘していますが、たとえその語が原文になくても、信仰上そのように訳すべきであると考えた場合、彼はそのように訳したのです。聖書の言葉をそのまま文法的に読むだけではなく、文の裏に隠れている神の意志を聴きとり、それを正しく人に伝えようとしたからです。
 実は親鸞にもこのような態度があります。たとえば『無量寿経』の有名な「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心回向……」の「至心回向」の部分を彼は「至心に回向せしめたまえり」と読んだのです。文法的に読めば、回向するのは人間であるのに、親鸞は阿弥陀仏ご自身が回向してくださっていると読み、訳したのです。親鸞の信仰がそう読ませたのです。親鸞もルターもただ自分の理性で文法的に読むのではなく、彼らに真意を伝えようとする仏や神の意志を汲んで翻訳したのです。このような態度の中に信仰を正しく伝えようとする信仰の原点があり、それこそが信仰の喜びを知った人の姿です。
 またルターは、翻訳に際して次のことも心がけました。「家庭の母たちや道ばたで遊んでいる子どもたち、市場で出会う人々に問いかけ、このような人の口のきき方に注意し、これによって翻訳を進めなければならない」(『翻訳についての手紙』)。神の意志に顔を向け、聴き、同時に限りなく庶民の心に降りていき、彼らの心に伝わる言葉に翻訳しようとしたのです。いかに信仰の喜びを正しく人に伝えようとしていたかがわかります。権威や権力によってではなく、神とイエスと聖書にこめられた人間への愛、思いやりをそのまま家庭の母や道ばたで遊ぶ子どもたちに伝えようとしたのです。信仰の喜びが強いエネルギーになったのでしょうが、わずか三か月で翻訳を完成させました。このような聖書翻訳の精神がプロテスタントの発展に寄与したことはいうまでもありません。
 こうして二人は信仰の喜びを、謙虚に、そして強く人々に伝えていったのです。

 

 以上、五段階を経て彼らが信仰を得、深め、人々に伝えていったプロセスをたどりつつ、世界から見た親鸞像について検討してきました。もちろんルターとの比較はキリスト教のプロテスタントとの比較であったにすぎませんが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は元来砂漠に生まれた同根の宗教ですから、かなり世界の宗教の中での親鸞の位置が明らかになったと思われます。その他の宗教との比較から見た親鸞像についても、いずれ明らかにしてまいりたいと思います。

 「連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―」というテーマについては、ひとまずこれで終ります。ここまでお読みいただけましたこと、心より感謝致します。次回3月からは、新たなテーマで連載を続けさせていただきます。

 ご年配の受講者が多い状況を勘案して、「夏の市民大学講座」中止することに致しました。

 経済活性化を優先する crazyな政府の方針に反しますが、コロナ再拡大が進んでいる現状では市民大学講座を開催するべきではないと考えた次第です。ご迷惑をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。どうぞ皆さまお元気でお過ごしください。再びお目にかかれる日を楽しみにしております。

          (2020年7月5日)

 

   

夏期(3月下旬~11月中旬)の開門時間は8:30~16:30です。

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

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