【連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―(6)】
〈第五段階…喜びを正しく人に伝える〉
私は、親鸞とルターの二人の生き方を考えると、五つの段階を通して信仰が得られ、深めてられていったといえるのではないかと考えています。五つの段階とは、かけがいのない自分を大切にし、自分と向き合う第一段階、挫折を知り、大いなるもの(仏や神)に出会う第二段階、大いなるものの働きかけに気づく第三段階、大いなるものを信じる喜びを得る第四段階、そして喜びを正しく人に伝える第五段階です。
先回は第四段階について考えましたので、今回は第五段階について考えてみます。
親鸞は、常陸の国笠間郡の稲田に草庵を結び、以後二十年ほど、ここで『教行信証』の執筆に心血を注ぎ、同時に粘り強く関東一円に信仰の喜びを正しく伝えようとしました。その伝道の姿をよく表わす話があります。
当時このあたり一帯は、弁円(1251没)という山伏の勢力範囲でした。ところが親鸞が念仏の教えを説き、信仰の喜びを伝えるようになると、次第に弁円の信者が減ってきたため、彼は親鸞を妬み憎むようになりました。彼は親鸞を呪い祈祷を繰り返しますが、効き目はありませんでした。業を煮やした彼は、時折親鸞が近くの板敷山を通るという情報を得、そこで待ち伏せ殺害しようと計画しました。しかし何度待ち伏せても行き違ってしまい、焦った彼は剣をもって直接稲田の草庵に乗りこみました。
ところが弁円の前に現われた親鸞の姿は、弁円が思い描いていた姿とはまるで違っていました。弁円が剣をもって怒り狂っているのに、親鸞は数珠だけをもち、平然としているのです。動揺した表情は微塵もありませんでした。その顔には、かえって親しみさえこめられていました。弁円は拍子ぬけしてしまいます。親鸞の気持ちがまるでわからなかったからです。しかし親鸞にしてみれば、心待ちにしていた人間がやってきたのです。阿弥陀仏が最も救おうとしている人間が目の前に現われたのですから。敵が現れたのではなく、自分と同じ罪深い仲間が現われてくれたのです。「よくぞ参られた」という心境であったろうと推察されます。
弁円の殺意は消えてしまいました。茫然とする弁円でしたが、もとを正せば彼も道を求めてきびしい修行を積んだ身でした。親鸞の心がやがて彼の心に入り、浸みこみました。現世利益ばかりを追い求めるようになってしまった弁円の心の奥に、求道一筋に励んでいた頃の心を思い起こさせたのでしょう。仏に救われ、喜びの中に生きている親鸞の姿に、現世利益のために肩肘張って生きている自分の心が解きほぐされていくのを感じたに違いありません。目覚めさせられたのです。
親鸞は、涙にくれて弟子にして欲しいと頼む弁円を受け入れますが、彼を弟子とは呼ばないで同朋、同行と呼びました。そのわけは、親鸞が彼を救うのではなく、ともに阿弥陀仏に救われる存在になったのですから、師と弟子の関係などはあり得なかったのです。よく知られているように、『歎異抄』では次のように述べられています。「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」(第六条)
この文の意味は、私のはからいで人に念仏をもうさせるのであれば弟子であるともいえ
るでしょうが、阿弥陀さまの働きによって念仏もうさせていただく人々を、弟子であるなどとはとてもいえることではない、というものです。弁円は親鸞から明法という法名を与えられました。
信仰の喜びを伝えるということはともに信じ、ともに念仏を称える仲間となるということです。無理に教えこんで信者数を増やすなどということとはまったく違うことなのです。
一方、ルターが信仰の喜びを正しく人に伝えるためにしたことはいくつかあるのですが、ここで取り上げたいのは、聖書を当時庶民が使っていたドイツ語に翻訳したという点です。
ルターは1521年、38歳のとき、ローマ教会から破門され、追放されたのですが、ザクセン選帝侯フリートリヒによってヴァルトブルク城にかくまわれることになりました。このとき仲間から聖書をドイツ語に翻訳するようにとすすめられます。正しく改革を進めるためには、改革の原点となるべき聖書の教えが正しく人々に伝えられることが前提となるからです。聖書の翻訳は彼自身も以前から考えていましたので、この城で翻訳に専念することにしました。
当時すでに幾種類かのドイツ語訳聖書はあったのですが、すべてラテン語の聖書から訳されたものでした。そこで彼はギリシァ語の原典から翻訳することにし、全身全霊を傾けて没頭します。翻訳の仕方は単なる文法的な翻訳ではなく、信仰による訳であり、訳を通して深く神の意志を聴き取ろうとするものでした。
たとえばルター研究者のフリーデンタールは、「ルターは彼にとって重要な個所であるパウロのロマ書の一節を、『人は律法のわざの助力なしに、ただ信仰によってのみ義とされると私たちは考える』と訳した。『信仰によってのみ』sola fide
という考え方は彼の教えの根本的なテーゼの一つになったが、これに対してさっそくきびしい反論が投げかけられることになった。ルターは、solaつまり、『によってのみ』alleinという言葉が聖書にはないことをよく知っていた」(『マルティン・ルターの生涯』)と指摘していますが、たとえその語が原文になくても、信仰上そのように訳すべきであると考えた場合、彼はそのように訳したのです。聖書の言葉をそのまま文法的に読むだけではなく、文の裏に隠れている神の意志を聴きとり、それを正しく人に伝えようとしたからです。
実は親鸞にもこのような態度があります。たとえば『無量寿経』の有名な「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心回向……」の「至心回向」の部分を彼は「至心に回向せしめたまえり」と読んだのです。文法的に読めば、回向するのは人間であるのに、親鸞は阿弥陀仏ご自身が回向してくださっていると読み、訳したのです。親鸞の信仰がそう読ませたのです。親鸞もルターもただ自分の理性で文法的に読むのではなく、彼らに真意を伝えようとする仏や神の意志を汲んで翻訳したのです。このような態度の中に信仰を正しく伝えようとする信仰の原点があり、それこそが信仰の喜びを知った人の姿です。
またルターは、翻訳に際して次のことも心がけました。「家庭の母たちや道ばたで遊んでいる子どもたち、市場で出会う人々に問いかけ、このような人の口のきき方に注意し、これによって翻訳を進めなければならない」(『翻訳についての手紙』)。神の意志に顔を向け、聴き、同時に限りなく庶民の心に降りていき、彼らの心に伝わる言葉に翻訳しようとしたのです。いかに信仰の喜びを正しく人に伝えようとしていたかがわかります。権威や権力によってではなく、神とイエスと聖書にこめられた人間への愛、思いやりをそのまま家庭の母や道ばたで遊ぶ子どもたちに伝えようとしたのです。信仰の喜びが強いエネルギーになったのでしょうが、わずか三か月で翻訳を完成させました。このような聖書翻訳の精神がプロテスタントの発展に寄与したことはいうまでもありません。
こうして二人は信仰の喜びを、謙虚に、そして強く人々に伝えていったのです。
以上、五段階を経て彼らが信仰を得、深め、人々に伝えていったプロセスをたどりつつ、世界から見た親鸞像について検討してきました。もちろんルターとの比較はキリスト教のプロテスタントとの比較であったにすぎませんが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は元来砂漠に生まれた同根の宗教ですから、かなり世界の宗教の中での親鸞の位置が明らかになったと思われます。その他の宗教との比較から見た親鸞像についても、いずれ明らかにしてまいりたいと思います。
「連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―」というテーマについては、ひとまずこれで終ります。ここまでお読みいただけましたこと、心より感謝致します。次回3月からは、新たなテーマで連載を続けさせていただきます。