【連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―(5)】
〈第四段階…大いなるものを信じる喜びを得る〉
私は、親鸞とルターの二人の生き方を考えると、五つの段階を通して信仰が得られ、深めてられていったといえるのではないかと考えています。五つの段階とは、かけがいのない自分を大切にし、自分と向き合う第一段階、挫折を知り、大いなるもの(仏や神)に出会う第二段階、大いなるものの働きかけに気づく第三段階、大いなるものを信じる喜びを得る第四段階、そして喜びを正しく人に伝える第五段階です。
先回は第三段階について考えましたので、今回は第四段階について考えてみます。
法然の導きによって、親鸞は阿弥陀仏の深い思いやりに気づき、「如来よりたまわりたる信心」という信仰に至りました。如来つまり阿弥陀仏からたまわった信心というのは、信仰も仏さまからいただくものであるということです。信仰は、人間が勝手に人間の側からすることではなく、苦しむ人間を何とかして救い上げようとされる仏さまの願い、すなわち本願によって引き起こされるものだと親鸞は気づいたのです。この気づきによって親鸞は、この上ない喜びを得ることになったのです。もはや自分で何かをしようとするのではなく、この仏さまの働きに身を任せ、感謝の生活に徹しようと心が定まったのです。この喜びは親鸞の生き方を大きく変えることになりました。その一例は、彼の結婚です。
親鸞は仏教史上、はじめて正式に結婚した人である、と私は考えています。なぜ「正式に」かといいますと、それまで僧の結婚は認められていませんでしたが、彼は仏道において結婚は一切障碍にはならない、いや、結婚して二人で信仰をたまわり、喜び、深め合うことこそが肝要だと確信し得て結婚したからです。つまりそれが仏の願いにかなう道だと確信し得たからこそ「正式」なのです。妻を隠しもったりすることとはまったく違うことです
結婚の相手は、現在の新潟県副知事に当たる越後介(えちごのすけ)という地位にあった三善為教(みよしためのり)の娘恵信尼(えしんに)であったとされます。90歳まで生きた親鸞を最後まで支え、しかも高い教養をもった女性でした。
ここで親鸞の女性観について考えてみますと、親鸞においては信じる心も阿弥陀仏からいただくものでしたから、男女の区別はまったく関係ないことになります。信心の世界では「男女老少をいわず」(『教行信証』信巻)ということになり、男女の区別などすでに超えられているのです。
また念仏についても、親鸞は「男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに……時処諸縁もさわりなし」(『高僧和讃』)と述べています。つまり男女、貴賎すべての人において、いつ、どこで、どんな状態で念仏を称えようと、まったく障碍はないというのです。念仏の前には男女の差、貴賎の差など、まったく問題にならないというのです。
男尊女卑の時代にあって、高度な次元から一気に差別を取り除いてしまったのです。こうして彼は恵信尼とともに本願に感謝し、念仏を称える喜びを分かち合い、念仏停止の弾圧に会って流された苦しい越後の生活を深い喜びの生活に変え、克服していったのです。
終生、妻の恵信尼は親鸞を観音の化身と仰いでいましたが、親鸞もまた彼女を六角堂の観音の化身だと考え、互いに尊敬し合っていたといわれます。革新的な結婚観であり、女性観であったといえますが、その根拠になったのは、単なる人間的な愛情ではなく、これを超えた深い信仰に基づく宗教的な慈愛であったといえるでしょう。
一方、ルターの結婚もキリスト教の歴史における最初の正式な結婚であったといえます。
1525年6月13日、ルターは突然ヴィッテンベルクの修道院で結婚式をあげました。相手はルターが修道院を脱走させたカタリーナ・フォン・ボラという女性でした。
式の二週間後に行なわれた祝宴の招待状に、「私は死ぬ前に、神から命ぜられたままの生活に入ろうと決心しました」と書いています。農民戦争の最中であったため、いつ暴徒に襲われ殺されるかも知れない彼は、いつ死んでもよいように、結婚せよと命じる神の意志を実践しようとしたのです。ローマ教皇によって支配される修道僧の独身制度に真っ向から反対していた彼は、「何人も男と女とを離すべきでないと命じられた神の掟が、教皇の掟をはるかに優越している」と考え、これを実践しようとしたのです。それゆえ人々に結婚をすすめ、修道女の脱走も手助けしたのでした。
ルターにおいても「信仰」は神から与えられ、たまわるものでした。親鸞もそうであったように、信仰を二人で深め合うことは、二人が神の言葉に耳を傾けることであり、信仰を証しすることであったからです。
カタリーナは聡明な女性で、家庭のきりもりにすぐれ、ルターには救い主のような存在になりました。愛称で「ケーテ」と呼び、「フランス、さらにはベネチアを与えるといわれても、私はケーテを渡さない」とまでいいました。どれほど深く愛していたかがわかりますが、その愛は一般的な愛ではなく、「神が彼女を私に与え、神が私を彼女に与えられた」という愛でした。ここに信仰にもとづく愛と結婚の姿があるといえましょう。
彼らの住まいとなった修道院には多くの人々が宿泊するようになりました。学生たちや、やがて生まれる子どもたち、さらには親戚の子どもたちも引き取り20人にも30人にもなる大きな家庭となりました。
ちなみに、ルターは大学時代や修道院時代には孤独におちいりがちでしたが、この頃には人づき合いもよくなり、よく話し、笑うようになりました。人々にも孤独を避けるようにと語り、人との交わりをすすめるようになります。「人々は一人でいる時には、他の人と交わっている時よりはるかに、またずっと大きな罪を犯すものである。……キリストは約束しておられる、『二人または三人が私の名によって集まるならば、その人々の中央に私はいよう』と。……そして私もまた経験したのだが、孤独である時ほど罪に陥りやすかったことはない。神は人間を交わりのために造られたのであって、孤独のために造られたのではない。神が人間を男性と女性に創造されたことが、その一つの証拠である」(フリーデンタール『マルティン・ルターの生涯』より)と述べています。親鸞も「一人いて悲しい時は二人いると思え、二人いて悲しい時は三人いると思え、その一人は親鸞なり」といいました。修道院の部屋は病人たちを収容したり、追われる人の避難所にもなりました。
彼は子どもたちのオシメを洗ったといわれます。人々には奇異の目で見られましたが、「笑わせとくがいいさ。神と天使たちは、天でほほ笑んでおられるのだ」といったといわれます。親鸞もおそらくオシメをほしたことでしょうし、本願寺第八世・蓮如がオシメをほしたことはよく知られています。信仰の喜びがそのようにさせたのでしょう。