【連載・親鸞とルター―世界から見た親鸞像―(2)】
〈第一段階…かけがえのない自分を大切にし、自分と向き合う〉
先回私は、親鸞とルターの二人の生き方を考えると、五つの段階を通して信仰が得られ、深めてられていったといえるのではないかという点を指摘しました。五つの段階とは、かけがいのない自分を大切にし、自分と向き合う第一段階、挫折を知り、大いなるもの(仏や神)に出会う第二段階、大いなるものの思いやりや働きかけに気づく第三段階、大いなるものを信じる喜びを得る第四段階、そして喜びを正しく人に伝える第五段階です。
そこで、今回はこの第一段階について、二人の生涯をたどりなから考えてみます。
9歳の時から比叡山で学問と修行に打ちこんできた親鸞は、19歳の頃、これに一区切りつけるため、観音菩薩の化身とまで思い尊敬していた聖徳太子ゆかりの河内国磯長の聖徳太子廟(大阪府南河内郡太子町)に参詣しました。太子の墓に参詣し、寺の許しを得て岩屋に三日間籠ることになったのですが、実は二日目の深夜、恐ろしい夢を見たのです。尊敬する太子が夢にあらわれ、汝の命はもはや十数年しかないと告げられたというのです。
突如として死との対決を迫られることになった親鸞は、自分自身と向き合わざるを得なくなったのです。それまでは父のため母のため、あるいは自分の出世のための勉学でもあり、修行でもありました。しかし死を目前にして、どう生き、死ぬべきかを問い、かけがえのない自分と向き合う求道こそが真の勉学であり、修行であると気づかせられたのです。
学問をすれば知識は増えますが、求道が中心になると、知識は逆に迷いを深める材料にもなります。自分は肝心なことは何も知らない愚かな存在だ、悟りに近づくどころかいよいよ煩悩に縛られ地獄に近づいているという挫折感が、激しく親鸞を責めるようになります。のちに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第二条)と語った原点はすでにこの頃生まれていたはずです。
さらに太子廟から比叡山にもどった頃、親鸞の地位が堂僧と決定されました。愕然とし、失意に襲われたはずです。「堂僧」とは高僧となるべきエリートコースの「学生」とは違って、常行三昧堂で不断念仏を勤めたり、貴族のために行われる法要を手伝ったりする地位の低い僧であったからです。世俗化していた当時の比叡山では、学生は栄華をほこる名門貴族の出でなければならなかったのです。父母の願いを裏切ることになった親鸞は、挫折感から、さらにきびしく自分と向き合うことになります。
またこの頃、愛欲つまり性欲の問題でもきびしく自分と向き合うことになります。赤松俊秀氏によれば、「ことに常行三昧堂の堂僧はよく招かれて貴族の邸に行って不断念仏を行なうことが多かっただけに、女性の活躍する俗世間に接する機会が多かった」(『親鸞』)といわれます。「物心のつかない幼い時に出家したものがようやく成人して、経典を学んで出家の意義を知り、棄欲に徹しようとして持戒に励みかけたところに青年期がやってくる。当然の事実として愛欲の思いが高まって、道を求める真剣な心をさいなんでやまない」(同)。誠実に自分と向き合おうとするとき、性欲の問題も避けては通れません。僧たるべき自我と、その自我内から生まれる破戒への避けがたい衝動をもつ自我が分裂し、アイデンティティの危機を生むことにもなったはずです。のちに「破戒の論理の存在しない妻帯」(笠原一男『親鸞と蓮如―その行動と思想―』)を執拗に求め、やがては結婚し妻を観音菩薩の化身とまで考え、高度な次元で性の問題をとらえ直していったことを考えるとき、この堂僧時代の愛欲と自我との分裂が大きかったこと、さらにはこの問題を正面から受け入れ、向き合い、執拗に掘り下げていく態度はこの時期に芽生えていたと思えます。しかしどれほど自分に問い詰めても解決は得られませんでした。ついに29歳のとき、山をおります。
1505年7月2日、エルフルト大学の学生であった21歳のルターは、両親のいた町からエルフルトに帰る途中、シュトッテルンハイムという村のはずれで激しい落雷に遭遇しました。目の前に雷が落ち、友人はこれに打たれて死亡、彼はその場に投げ倒されました。おびえたルターは「私は修道士になります」と叫び、修道院入りを決意してしまいます。父の猛反対を押し切って大学をやめ、16日には友人を呼んで別れを告げ、翌日エルフルトのアウグスティヌス派の修道院に入ってしまったのです。
彼は修道院で課せられた規律を完璧なまでに守り、さらに労働・断食・徹夜などのつとめを果たします。しかし彼の苦悩は深まっていくばかりでした。きびしい修行を通して真剣に自分と向き合っても、自分の中には自分だけを愛する自己愛、自我愛しか見出せなかったからです。元来集中力のあった彼の心の目は、自己の内面を激しくえぐりはじめます。
翌々年4月には司祭に任命され、5月にはじめてミサを執行することになりますが、このミサに際して恐るべき体験をします。ミサとはパンと葡萄酒の外観のもとにあるキリストの肉と血を聖壇の上で神に捧げ、十字架の特性を再演するのですが、このためには司祭は罪をすべて懺悔し、赦免されていなければなりませんでした。しかし彼の罪の意識は深まるばかりであったのです。
このため彼はミサの途中で、言いようのない恐怖心にとらわれ、逃げ出したくなる衝動にかられます。すでに2年近く暗い修道院の部屋で自分と向き合い、自分を見つめ続けてきましたが、自己愛や我欲を捨て去ることができず、罪に縛られたままであることを自覚せざるを得なかったからです。そんな自分が天使にまさる権能をどうして実行できるのか。しかもこの頃の彼にとっての神は、罪を赦すやさしい神ではなく、子どもの頃から教えこまれた人を裁く恐ろしい神でした。ミサから逃げ出すという罪深い思いに駆られるのも仕方がないことでした。この日の体験は、さらに激しい修行に追いやることとなりました。
彼は胸の内を打ち明けています。「人間というものは、なすとなさざるとを問わず、あらゆることにおいて神や隣人のそれよりも自己の利益、欲望、名声を求めるものだ。したがって人間のあらゆるわざ、あらゆる言葉、あらゆる考え、あらゆる生活はすべて邪悪であり、神的ではないのである」(『善きわざについて』)。さらに「それゆえたとえこの聖職に身を置くとも無駄である。お前の善きわざもすべて無益なのである」(ジェイムズ『宗教的経験の諸相』)と告白しているのです。自分に自己愛しか見出せないルターにとって、神は次第に憎悪の対象になり、あげくの果てには、その神を「打ち殺したい」(ベーマー『若きルター』)という衝動にかられるようにもなりました。どうしようもない挫折感に落ちこみ、自分と向き合う姿勢も極限に至ることになります。
こうして親鸞もルターも徹底的に自己と向き合い、挫折に陥りますが、この挫折が実は大いなるものとの出会いをもたらすことになります。この点については次回に譲ります。