【連載・世界の宗教を学ぶ (1)ヒンドゥー教】
先回まで、六回にわたり世界の三大宗教、つまり仏教・キリスト教・イスラム教について学んできました。しかし世界には、このほかに多くの宗教があります。それらの宗教もできるだけ多く学ばなければ、宗教をよく知ったとはいえません。そこで今回からは、そのほかの主要な宗教、たとえばヒンドゥー教・道教、あるいは日本の神道など、六つの宗教を取り上げ、学んでいきたいと思います。これによって宗教の多様性を知り、同時に宗教の本質的な意味を見出すきっかけにしていきたいと思います。またこのような学びによって、世界にはさまざまな世界観があることを知り、人生観形成にも役立てられればと思います。
ではまず、今回はインドにおこり、今でもインドを中心に東南アジア各地に信者を有するヒンドゥー教について学んでみたいと思います。
(1)その歴史
近代インドの有名な宗教家・哲学者であるヴィヴェーカーナンダ(1863~1902)は、ヒンドゥー教の神の特徴について、彼の著作『バクティ・ヨーガ ―愛と信仰のヨーガ―』(日本ヴェーダーンタ協会、1991、以下この書から引用)で興味深い説明をしています。
「もしあなたがまずしいなら、それをたわむれとしておたのしみなさい。もしあなたが金持ちなら、金持ちのおもしろさをおたのしみなさい。もし危険がくるなら、それもまたよいたのしみです。幸福がくるなら、もっとおもしろいでしょう。この世はまさに運動場、ここでわれわれは、ゲームをして十分にたのしむのです。神はつねにわれわれとともにあそんでおられ、われわれは彼とともにあそんでいます。神はわれわれの永遠のあそび友だちです」。
何と大らかな神でしょう。キリスト教やイスラム教の神とは随分違う神のようです。宗教の関係する紛争が多い現代、このような神について学ぶことも意義のあることと思います。殺伐とした事件をおこし、不平不満から激しいバッシングを繰り返すようになった現代の日本人に、本当の心の豊かさへの道を示してくれているようにも思えます。
そこで、まずこの宗教の歴史に触れてみますと、ヒンドゥー教は、その起源となったヴェーダ(インド最古の宗教文献)の宗教(バラモン教)から、紀元前500年頃、仏教やジャイナ教(マハービーラの開いた、きびしく戒律を守り、苦行を実践することによって輪廻から解脱することを説いた教え)が成立した後、インド土着のさまざまな民間信仰や習俗などを吸収しておこった、と考えられています。このためつかみどころのないほど幅が広く、多神教の典型であるともいわれています。特定の開祖をもたず、自然発生的に生じたものであり、高度に展開された哲学性をもつ反面原始的な信仰や呪術も含んでいます。それだけにとても寛容な特徴をもっています。ビシュヌやシバといった有名な神々から山川草木の神に至るまで、さまざまな神が崇拝され、神々は排他的ではありません。ですから自分に合った神、自分の好きな神、自分を楽しくしてくれる神を信じ、愛し、それによって神と合一し、心身ともに一体となろうとする形態をとるようになり、さまざまな神々が仲良く共存する宗教となりました。
(2)信愛という信仰
その信じ方をバクティ(信愛)といいます。むずかしい信仰ではなく、ただ素直に愛情をこめて信じればよいのです。仏教やジャイナ教のようにきびしく修行したり、戒律を守る必要もあまりありません。ひたすら神を愛し信じるのです。そうすれば、たとえ悪人であっても、神は善人として見てくれるというのです。このような信仰の形は、庶民の気持ちをつかみ、やがてインドでは仏教やジャイナ教より人気を博することになったのです。ではこの信愛という信仰についてもう少し詳しく見てみましょう。
ヴィヴェーカーナンダは次のように表現していますが、思わずはっとさせられます。「神はわれわれの夫です。われわれはすべて女性、この世界に男はいません。たった一人の男がいるだけ、そしてそれは彼、われらのいとしいお方なのです。あの、男が女にあたえる、または女が男にあたえるすべての愛は、ここでは主にささげつくされなければなりません」。
しかし疑問も生じます。男女の愛はそれほど純粋で高次元のものでしょうか。愛しているといいながらケンカが絶えません。宗教的な愛と同一視してもよいものでしょうか。
これに対して、ヴィヴェーカーナンダはいいます。「夫のために夫を愛したものはいない。夫が愛されるのは、彼の内にアートマン、主がおられるからである」と。単なる夫婦の愛ではないのです。それを包んではるかに高い愛が説かれているのです。
真の愛とは、夫を愛しつつ夫の本質であるアートマン(我、霊魂)、さらにはアートマンと一つである宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を愛しているというのです。このような高い次元で信愛が完成され、「ほんとうに無限の愛の海であるところの彼のもとに、行かなければなりません」というのです。夫の中に神がおられると信じて夫を愛するその妻のように信愛をささげる、というところにヒンドゥー教の根本的な信仰の特徴があります。
(3)ヒンドゥー教の神々
ところでヒンドゥー教の神々は人間を超越し、命じ、支配する神ではありません。常に人間に働きかけ、人間を引きつけようと努力する神です。「主は巨大な磁石であり、われわれは鉄のけずりくずのようなものです。……人生の膨大な努力とたたかいのすべては、われわれをして彼に近づかせ、ついには彼と一体にならせるためのものであります」。
生きるための苦労は、神と一体にしていただくための神のわざだというのです。つまり、みずからと一体にさせるために、ひたすら人をわが身に引きつけようとしてくださる神を、感謝に満ちて信愛するところに、この宗教の神と信仰の特徴があるのです。
またヴィヴェーカーナンダによれば、すべての人間は神の子どもであり、神の体であり、神の現われだというのです。動物もそうです。「人はもはや人とは見えず、神としか見えません。けものはもはやけものとは見えず、神と見えます。トラさえも、もうトラではなく、神のあらわれです。このようにして、バクティのこの強烈な状態においては、礼拝はあらゆる人に、あらゆる生命に、あらゆる生きものにささげられます」。
このように確信できるようになれば、苦痛や不幸も神の使いであると思えるようになるわけですし、生きものの中に不平等はなく、争いはなくなります。いずれにしてもこの世界に生じるあらゆることを神の現われ、神のなさること、神からの使いであると受け取りつつ、苦しみを超えさせていただいていると信じるところに、この宗教の特徴が考えられます。
こうして見てきますと、人間もトラも、そして他のものすべてが神の子どもであり、神の体、神の現われであると受け取る思いは、地上のあらゆるものを尊重する態度になります。ここに実は宗教共存のための重要なヒントも隠されているといえましょう。