【第28回】2017年7月1日    筑波大学名誉教授 今井雅晴

 例年ならば今年もそろそろ梅雨末期に入ります。しかし今年の東京は、梅雨入り宣言が出された日(その日は雨でなく、一日中曇りでした)に「明日から雨か」と思いましたら、それから何日もずっと晴れ・曇りでした。私は楽ですが、雨量が必要な農家の方はお困りでしょう。
 歴史研究、なかでも伝記研究に天候のことを考慮して検討を進めると、ずっと豊かな成果が生まれることがあります。たとえば親鸞は、流罪にあって越後国に流されたのは2月でした。私たちは雪の中で菅笠を傾け、足を踏みしめながら歩く親鸞の姿を想像します。確かにそうでしょう。でも、その雪が降り積もる中、親鸞は越後国府へ行く道を知っていたのでしょうか? 夜はどこに泊まったのでしょうか? 流罪の罪人を泊めてくれる家を毎晩見つけることができたでしょうか。無理ではないか? それなら親鸞は野宿だったのでしょうか? 雪の中で。 しかも親鸞は一人ではなく、貴族の妻の恵信尼を同行していたのです。こんな旅行は無理に決まっています。ではどのようにして越後に到着したのでしょうか?

京都市。六角堂境内の観音菩薩坐像
京都市。六角堂境内の観音菩薩坐像

 また、29歳の親鸞は比叡山を下りて京都・六角堂で百日間の参籠に入りました。それは何月ごろだったでしょうか? 季節はいつごろだったのでしょうか? もちろん、記録はありません。しかし参籠を伝える恵信尼書状を見ると、親鸞は95日目の暁に観音菩薩のお告げをいただき、続いて吉水の法然を訪ねたとあります。それは六角堂参籠と同じく、百日間だったそうです。その恵信尼書状に、親鸞は「ふる(降る)にも、てる(照る)にも、いかなるだい風(大風)にもまいり(参り)てありしに」(雨が降っても、ひでりで暑くても、大風が吹いても毎日法然を訪ねました)とわざわざ書いてあります。
百日間は3か月あまりですから、推測するにこれは7月(梅雨の時期)・8月(暑い夏の太陽)・9月(台風の大風の時期)のことではないでしょうか、と教えて下さった方がいます。なるほど。とすると、親鸞が六角堂に籠ったのはその前、4月・5月・6月ではなかったか、という推測に発展します。
 ちなみに、上掲の恵信尼書状の「まいりてありしに」は親鸞の行動について述べています。述べているのは恵信尼です。恵信尼が数十年も過去の親鸞の行動を述べているのです。それがどうして過去のことと判明するかというと、「し」という言葉で判明するのです。「し」は過去のことを示す助動詞だからです。
 ところが非常に興味深いことに、「し」は自分の過去の体験を示す言葉です。したがって恵信尼は親鸞の法然訪問を自分の体験として語っていることになります。つまり恵信尼は親鸞の法然訪問を目の前で見ていたのです。もし恵信尼がその場にいなくて、あとで親鸞から聞いただけだったら、文章は「まいりてありけるに」となります。「ける」は他人から聞いた過去のできごとを示す助動詞だからです。
 伝記は、そして歴史は総合的に研究しなければなりません。思い込みも禁物です。親鸞、のころ常陸国は荒野だったなどというのは、思い込みの最たるものの一つです。

 

 

【2017年5月6月の活動】
著書の出版:ここでは、私の今年(2017年)5月・6月の著書・論考などについて記します。
《著書》
①『親鸞の妻玉日は実在したのか?─父とされる関白九条兼実研究を軸に─』

 (「歴史を知り、親鸞を知る」❿、自照社出版、2017年6月)
  親鸞の妻とされてきた玉日は、もうずいぶん前に実在の人ではないと結論付けられて います。それなのに、また近年、実在したと蒸し返す人たちがいます。伝説と史実を無 理に一つにしようとするのは誤りです。
《論考》
①「歌枕 室の八島」(連載「親鸞の東国の風景」第5回、

 『自照同人』2017年5月号・6月号)
  親鸞一家は下野を北上して常陸稲田に向かいました。途中、歌枕(和歌に取り上げら れる名所)として知られた「室の八島」を通りました。本稿は「室の八島」について歴 史的・文学的に述べています。

 

【連載 親鸞と山伏弁円】
      
 西念寺の境内に親鸞と山伏弁円とのゆかりを示す遺品があります。今は切り株だけになってしまった桜の木です。もとは「弁円懺悔(ざんげ)の桜」と呼ばれていました。『親鸞伝絵』によれば、弁円は稲田草庵に親鸞を襲い、逆に帰服したとあります。桜はその時の記念というわけです。
 親鸞に帰服した時、弁円は次のような和歌を詠んで気持を表現したといいます。

  山も山 道も昔に かはらねど
    かはりはてたる わがこころかな

「昨日まで見ていたあの山は今日見ても変わっていない。また昨日まで見ていたこの道も今日見ても変わっていない。でも、私の心は親鸞聖人に出会ってほんとうに変わってしまった。そのためだろう、見慣れた山や道も変わったように見えるのです」。

 

弁円懺悔の桜。西念寺
弁円懺悔の桜。西念寺

 この話を伝え聞いた笠間時朝という武将は大変感激したそうです。そして稲田草庵の庭、弁円が帰服した所に一本の桜の木を寄進して植えました。それが本当のことなのかどうか。それは分かりません。でも切り株は弁円の帰服を示す象徴ということで意味があるというべきでしょう。
私は今年6月に『親鸞聖人と山伏弁円と板敷山』という本を出版しました。その出版に至る従来の弁円伝に対する疑問を軸に、以下述べたいと思います。
 なお、笠間時朝は親鸞を稲田に招いた宇都宮頼綱の甥です。系図で示すと次のようになります。

   ┌宇都宮頼綱
   ├─塩谷朝業(しおのや・ともなり)─笠間時朝
   └─稲田頼重              (笠間郡の領主)
       (稲田郷の領主─西念寺の伝)

 


 『親鸞伝絵』には、親鸞の42歳から18年間の関東の生活を三つの挿話で示してあります。第一は親鸞と稲田です。第二は親鸞と弁円です。第三は親鸞の箱根権現訪問です。このうち、第一は、どこを根拠地として親鸞が布教したかということを述べています。そしてその活動が成功したことも述べています。第二は、関東には親鸞に抵抗した者もいたけれども、結局は帰服した例とし弁円が取り上げられています。第三は、権現云々より、箱根権現の支配者が親鸞と親しい聖覚法印という人物であったから取り上げた挿話と言えそうです(『親鸞聖人と箱根権現』「歴史を知り、親鸞を知る」❾、自照社出版、2016年)
 弁円については、江戸時代の二十四輩順拝記等からひんぱんに取り上げられるようになります。それが江戸時代・明治時代・大正時代と時代が進むごとに、弁円はより悪い人間として表現されていくのです。これは枕石(まくらいし)の日野左衛門と同じです。左衛門はそんなに悪い人間ではなかったのに、どんどん悪い人間として表現されるようになって現代に至っています。そのトドメは倉田百三の小説『出家とその弟子』でした。左衛門にとってこの小説はいい迷惑です。


 山伏弁円は、外の世界から入ってきて人気を博している親鸞を憎み、ついには殺害しようとします。その目的で稲田草庵から9キロほど南にある板敷山に何日も籠りました。板敷山は稲田から南方の常陸国府・鹿島神宮方面への通り道でした。当時、街道や幹線道路は山の尾根や山腹にありました。板敷山はとても低い山なので街道に使うにはちょうどよかったのです。
板敷山はとても低いので、普通の地図には山として記されていません。何も書いてありません。しかしたしかに『親鸞伝絵』には「板敷山といふ深山」と書いてあります。覚如がそのように書きました。
親鸞の遺跡参拝の皆様に、「板敷山に登りましょう」とお誘いすると、皆さん一様「え?」と尻込みされます。「深山」ですから、どんなに高い山かと思っておられたからでしょう。でも「大丈夫ですか? ではせっかくですから」と、全員が登られます。板敷山の頂上まで登ると、「こんなに低い山だったのですか」と拍子抜けされ、また逆に「ここがあの弁円ゆかりの所ですか」と感動深く思われるようです。頂上はちょっとした平地になっていて、そこには「山伏弁円護摩壇跡」や記念の石碑が建っています。周囲にはうっそうとした木々が茂っていますので、「深山」の趣がないわけではありません。
また「山伏弁円護摩壇跡」の前を通って、かつての街道の名残があります。その道を東の方に進むと、険しい崖を下るようになり(ほんの短い距離です)、下って右折すると現代の県道に出ることができ、それを左折して進むと、大覚寺の大きな縦長の看板が左側に立っている所に至ります。
 ところで恐らく覚如は板敷山に登ったことはなかったのでしょう。前述のように板敷山は決して「深山」ではありません。覚如はとてもすばらしい親鸞の伝記『親鸞伝絵』を書きました。伝記執筆の能力はすばらしいものがあります。でも執筆当時、覚如は数え26歳です。ですから伝記執筆に当たっての史料調査不足、親鸞ゆかりの地で訪ねてない所もあったのでしょう。止むを得ません。ここで覚如を批判するつもりはありません。後世の私たちが足りない部分を補うべきだろうと思うばかりです。
 弁円は板敷山に籠って親鸞が通りかかるのを何日も待ちました。『親鸞伝絵』の該当する部分の絵には、弁円の手下らしい者も複数描かれています。弁円ゆかりの大覚寺(石岡市大増〈おおます〉)の伝えでは、弁円には35人の配下の山伏がいたそうです。

 

稲田草庵の親鸞と弁円。『親鸞伝絵』より
稲田草庵の親鸞と弁円。『親鸞伝絵』より

 ここで私の疑問は、弁円はなぜ稲田草庵を襲わなかったのかということです。弁円の本拠地は、現在の茨城県常陸大宮市東野(とうの)の楢原谷(ならはらだに)という所でした。そこにあった法徳院が弁円の寺です。そこから南、正確には南南西の方向約39キロの位置に板敷山があります。山伝いに行けます。高い山々の連続ではないし、まして山伏なら楽に行けたでしょう。
 ところが、なんとその南南西の方向30キロほど行った所に稲田草庵があるのです。親鸞を殺害したいのなら、わざわざ草庵を9キロも越えて板敷山で待ち伏せなどせず、稲田草庵を襲えばいいではありませんか。弁円はなぜそのように稲田草庵を襲わなかったのでしょうか? 


 何日待ち伏せを続けても、親鸞に出会えない弁円。「おかしい。では稲田草庵へ行ってみよう」。なに、それなら最初から稲田草庵を襲えばいいのです。それに板敷山でどうしても出会えないなら、手下を稲田草庵付近に送り込んで、親鸞が草庵を出るところを確認すればいいのです。板敷山まで9キロ、親鸞の後をつけさせればいいではありませんか。


 しかし結局、稲田草庵を訪れた弁円。凶暴な山伏?の訪れに対し、親鸞はどうしたか。この時、親鸞は草庵に在宅中でした。弁円は手下の山伏を使って親鸞が在宅かどうか調べさせたのでしょうか。
 怒って顔を出すか。恐れてこわごわ出てくるか。それとも無理にでも笑って出てくるか。無表情を装うか。これらの予測はすべてはずれました。『親鸞伝絵』に、親鸞は、「左右なく出会ひたまひにけり」とあります。「すっと出て来られた」のです。それを見た弁円は感激し、たちまち親鸞に帰服したと『親鸞伝絵』は伝えています。これはどういうことでしょうか。いくつかの解説書には、「親鸞は何のわだかまりもなく」と現代語訳してあります。しかし私に言わせれば、この現代語訳では「左右なく」の極めて重要な意味が分からないだろうと思うのです。
 連載の本稿では、拙著『親鸞聖人と山伏弁円と板敷山』の内容紹介にとどめました。読者の皆様なら前述した重要な点についての回答をどのようにお考えになるでしょうか。
私の考え方の基本は、弁円を悪者にし、「彼みたいにはならない」として済ませてきた私たち自身の心を見直そうというところにあります。

新型肺炎感染予防のため、「春の永代経法要」は、非公開で勤行することになりました。御迷惑をおかけしますことを深くお詫びするとともに、皆さまのご健康を心から祈念しておりす。   

   (2020年3月24日)

 

「夏の市民大学講座」7月18日・19日の予定です。詳細は、左端下部の公開講座・Seminar のご案内をご覧ください。

   

冬期(11月中旬~3月下旬)の開門時間は8:30~16:00です。

 

4月以降も暫定的に上記の開門時間を続けます。ご自宅待機にお疲れになったためでしょうか御参拝の方が増えつつありますが、ご体調には十分にご注意ください。状況によっては閉門することも検討中です。       (3月30日)

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

 庵田米の新米が入荷しました。宿坊にてお買い求めください。お電話でのご注文も承っています(郵送には送料がかかります)。詳細は、左側の「庵田米の販売について」をご覧ください。(2019年10月7日)

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。