【第27回】2017年5月1日   筑波大学名誉教授 今井雅晴

親鸞の時代の桜。『西行物語絵巻」より
親鸞の時代の桜。『西行物語絵巻」より

 新緑の若葉の色が目にしみる季節になりました。今年は桜の咲く時期が遅く、さらに気温の低い日も続いたので、「桜が楽しめるだろうか」と心配しました。しかし結果は、今まで経験したことないくらいに長い間、桜が咲き続けました。拙宅の前にある非常に広い公園ではいろいろな種類の桜の木が植えてあります。その中でも早咲きで知られた河津桜が、もう2月中旬には咲き始めました。そして絶えることなく、現在では何という種類でしょうか八重桜が満開です。重そうに花の房が下を向いて垂れ下がっています。
 そういえば、日本各地で見られるソメイヨシノの苗木の育成は、もうほとんど行なわれていないそうですね。テングス病という病気にかかりやすいので敬遠されているのだそうです。一般にソメイヨシノの寿命は数十年と言われていますから、後継者がないということになると、将来予測される状況はただ一つです。それは日本の国土からソメイヨシノが消えてしまうということでしょう。春といえば入学式。新入生に降りかかる桜吹雪。定番だったこのような情景が、数十年後には間違いなく姿を消していることでしょう。

 

【2017年3月4月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2017年)3月・4月の著書・論考について記します。
《著書》
①『親鸞の妻 玉日は実在したのか?─父とされる関白九条兼実研究を軸に─』
 (「歴史を知り、親鸞を知る」10、自照社出版、2017年3月1日)
  親鸞の妻(というより、交際した女性)は何人であったか未詳です。その中で、親鸞
 の妻は関白九条兼実の娘玉日であったという説が、以前からありました。本書は、それ
 は歴史上の事実ではないということを論証したものです。

《論考》
①「下野国と、縁ある豪族」(連載「親鸞の東国の風景」第6回)『自照同人』第99号  (2017年3月・4月号、2017年3月10日)
  下野国はどのような歴史的展開をたどったか。そこに住む親鸞と縁ある豪族にはどの
 ような一族があったかなどについて検討しました。
②「ブットンくん〜台湾の国際学術大会にて〜」

 (『南御堂』第658号、真宗大谷派難波別院、2017年4月1日)
  「願いをもって活動するゆるキャラたち─真宗大谷派のゆるキャラを一挙に紹介」と
 いう特集に台湾の国立政治大学での学会で発表した内容を述べました。
③「レポートの書き方」

 (『学びの友』第44巻第8号、中央仏教学院通信教育部、2017年4月1日
 通信教育生を対象に、レポートの書き方について述べました。
④ 「親鸞聖人晩年の京都での課題」

 (『名古屋教学』第18号宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌記念号、真宗尾張同学会、

 2017年4月10日)
 真宗尾張同学会例会での同名の講演の講演録です。
⑤「親鸞聖人と鎌倉幕府─『口伝抄』の一切経校合をめぐって─」(同上)
 真宗尾張同学会例会での同名の講演の講演録です。
⑥「親鸞聖人と箱根権現および聖覚法印」(同上)
 真宗尾張同学会例会での同名の講演録です。

 

【連載 親鸞と聖覚】

 親鸞の吉水草庵時代の法兄に聖覚という僧侶がいます。この人物についてはすでに前
回に取り上げました。聖覚の念仏についての考え方は親鸞と近いものがありました。親鸞は信仰上、聖覚を大変信頼していました。その後約20年、親鸞は鎌倉で聖覚に再会したのではないか、と私は考えています。
 聖覚はどのような人物だったのでしょうか。あらためて、いかなる家に生まれ、吉水草庵の外ではどのような生活をしていたのか、という点から見ていきたいと思います。彼は食うや食わずの聖(ひじり)のような低い身分の者ではなかったのです。


 一方の親鸞は中級貴族の出身でした。父の朝廷での職は皇太后宮大進でしたから、これは従六位上位の者が任じられる職で、それだけで見たらもう下級貴族です。それ対して、聖覚は天台宗のもっとも高い僧位である法印大和尚位を授けられた誇り高い人物でした。聖覚の一族、特に伯叔父や伯叔母の夫たちはあるいは政界において、あるいは宗教界において顕職を得ていました。それは親鸞の父や伯父たちの比ではありませんでした。
 親鸞が出家の時に付き添ってくれたという伯父の日野範綱は、それでも後白河法皇の近臣として仕えました。当時全盛の平清盛を倒そうとした鹿ケ谷事件では、清盛方に逮捕され、拷問の上播磨国に流されています。もう一人の伯父の宗業は後鳥羽上皇に気に入られて最後は従三位まで昇り、親鸞の越後流罪の時には越後権介に就任させてもらってその流人生活を助けています。その系図は次のようになります。系図中、「家司(けいし)」とは上級貴族(従三位以上)の家で家来として働く中級貴族のことです。
 
  ┌日野範綱 後白河法皇の近臣
  ├──宗業 九条兼実の家司、後鳥羽上皇の近臣
  └──有範──親鸞
          ┠
   三善為教──恵信尼
     九条兼実の家司

 聖覚の立場を確認するために、彼の伯叔父・伯叔母の夫たちに関わる系図を見てみましょう。
  
  藤原通憲┬俊憲 従三位参議
      ├貞憲 従四位下少納言──貞慶 「興福寺奏状」の作者
      ├是憲 従五位下少納言 法然の門に入る。法名円照
      ├静憲 法印、法勝寺執行、『後三年合戦絵詞』制作
        ├澄憲 法印権大僧都───聖覚 法印権少僧都
      ├憲雄
      ├成範 正二位中納言
      ├勝憲 醍醐寺座主、東大寺別当、権僧正、密教の祈祷で知られた
      ├明遍 権大僧都、高野山蓮華三昧院を創立。法然の門に入る
      ├脩範 正三位参議。和歌に優れる
      ├光憲
      ├寛敏 広隆寺別当、法眼
      ├覚憲 大安寺別当、興福寺別当、権僧正、唯識・因明(論理学)に優れる
      ├行憲 少納言阿闍梨と号す
      ├憲俊
      ├憲俊
      ├憲慶 阿闍梨二位と号す
      ├女子 藤原隆季(正二位権大納言)妻
      ├女子 藤原長方(従二位権中納言)妻
      ├女子 藤原親信(正二位中納言)妻
      ├女子 藤原家房(従二位権中納言)妻
      └女子 源為国(崇徳院判官代。信濃村上氏の祖)妻
 
 まさに華麗な一族ということができます。聖覚は二十人前後いる息子たちの一人澄憲の息子でした。
 ちなみに法然や親鸞が流罪にされた承元の法難の遠因となった興福寺奏状(専修念仏者たちの許すべからざる行状をあげて、後鳥羽上皇に断罪を迫ったもの)は、笠置の貞慶が執筆しました。その貞慶は聖覚の従兄弟だったのです。さらに出家した伯叔父もいろいろな寺院で指導者として活躍しています。
 慈円は僧侶として無位無官の法然を嫌っていた気配です。しかしその門弟の聖覚とは仲よく、信頼し合っています。「近い親族だったら信仰上、敵対関係にはないだろう」とか、法然が慈円と不仲なら、法然の門弟が慈円の傘下に入ることはないだろう」とか、「専修念仏者同士だったら、みんな、仲よしだろう」と決めてかかるのは危険です。

 
 承久3年(1221)、聖覚は『唯信抄』を著わしました。親鸞49歳の時です。『唯信抄』は、法然の『選択本願念仏集』に示す念仏は信心をもとにして理解すべきである、と説いたものです。『選択本願念仏集』と親鸞の『教行信証』の橋渡しをする著書とされています。75歳の時に『教行信証』をほぼ完成させるまで、親鸞はやさしい教義書を執筆する気持はありませんでした。門弟たちから要求された時には『唯信抄』を筆写して送っていました。79歳の時にはついにその注釈書『唯信鈔文意』を執筆するに至ります。

西念寺の南方から東に流れる稲田川。やがて涸沼川に合流し、小鶴荘に至ります。
西念寺の南方から東に流れる稲田川。やがて涸沼川に合流し、小鶴荘に至ります。

 親鸞は稲田に住んでいました。稲田の東方数キロのところには、常陸国で二位、三位の広さを争う小鶴荘という大荘園がありました。現在の茨城町を中心とした地域です。そしてここは関白九条兼実の九条家領でした。九条家は親鸞の出身日野家や、妻恵信尼の出身三善家の主家にあたります。小鶴荘の役所を通せば京都との連絡は容易に取れたのです。親鸞はいつかの時点で『唯信抄』の存在を知ったものと推定されます。

 


 安貞元年(嘉禄3、1227)7月、鎌倉では北条政子の三回忌法要が挙行されました。それは2度にわたって行なわれました。まず第一の法要について、『吾妻鏡』同年7月11日条に次のように記されています。
  二位家第三年御仏事、丈六阿弥陀堂供養也。日次の事、度々沙汰有ると雖も、遂に以
  って今日に及ぶ。導師荘厳房律師行勇。請僧廿口。舞楽は之を略せらる。御布施三   十。物二十五。竹御所、御聴聞の為、渡御し給ふ。相州・武州・匠作井已下の結縁の  貴賎、勝計すべからずと云々

北条政子坐像。鎌倉市・安養院蔵
北条政子坐像。鎌倉市・安養院蔵

「今日、北条政子(二位家)様の三回忌法要がありました。丈六の阿弥陀仏を納める御堂の落慶式を背景にして行ないました。日程については、何度も変わりましたが、やっとこの日に落ち着きました。導師は荘厳房律師行勇でした。法要に参加した僧は廿人でした。いつも行なわれる舞楽は中止になりました。謝礼金は30人分で寄贈の品物は25個でした。鞠子(まりこ。竹の御所。源頼家の娘で政子の孫。第4将軍藤原頼経の妻)様が法話を聞く為に出席されました。北条時房(相州)・同泰時(武州)・同時氏(匠作)以下、多数の人たちが参列しました」。

 

 この三回忌法要は5月29日の予定でしたが、その前日、泰時の次男で跡継ぎであった時実が家来のために殺されたので、のびのびとなっていたのです。舞楽中止もそれに関係があるでしょう。

「春の市民大学講座」(3月11日)は、ほぼ席が埋まっている状態でした。ご参加の皆さまのご声援、さらに多額のご寄付、ともにありがとうございました。

(3月12日)

 

夏の市民大学講座」(7月21~22日)の詳細は、近日中に決定します。もう少々お待ちください。

(5月14日)



公開講座「解釈改憲の果てに」齊藤和夫先生は、自衛隊の追認と海外派遣を巡り憲法解釈の変更が積み上げられてきた過程を、解り易くお話くださいました。そのクライマックスが、あの集団的自衛権容認だった訳です。時間切れで「緊急事態条項」のお話を伺うことができなかったのが残念です(次の機会ですね)。

 

受講者アンケートを拝見させていただきましたが、皆さまの改憲問題への関心の高さを実感いたしました。知識を再確認して問題点を整理した上で、「なんとなく賛成or反対層」へ的を射た議論を広げていく必要があるように思いました。巧みなプロパガンダを行う政府の言うままにならない、賢い市民・国民でありたいものです。

セミナー「日本文化と仏教のかかわり―道元の教えを中心に―」では、皆川義孝先生が美しいスライドをお使いになりつつ、禅の思想が日本の食文化に大きく影響していることをお教えくださいました。公開講座の深刻さとは打って変わり、講義室はグッと和らいだ雰囲気です。終講後には「いやぁ~面白かった!」との声が…。永平寺で1年も修行された皆川先生ですので、お話に説得力がありました。また、立派な『英語対訳 典座教訓』を受講者の皆さまに頂戴しましたこと、駒澤女子大学さまに厚くお礼申し上げます。(3月12日)

 

次の「夏の市民大学講座」は、7月21~22日です。

詳細は左端下部の「公開講座・Spring & Summer Seminar のご案内」をご覧ください。皆さまのご参加をお待ちしています。

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。