【第24回】 2016年11月1日   筑波大学名誉教授 今井雅晴

 今年も秋が深まってきました。さしも暑かった夏も終わり、大きな被害をもたらした台風も、もう日本列島上陸はない気配です。親鸞のころの気候はどうだったのでしょうか。そのころの暦は月の満ち欠けを軸にした太陰暦で、1ヶ月は29日か30日でした。その関係で、4年に1回の割で閏月がありました。それは、その年には2月の次に閏2月が来る、といった具合でした。閏月はいつも2月ではなくて、適当に(むろん、暦を作成する陰陽師たちが一定の法則に沿って)各月に分散していました。ですから農作業もやりにくいこともあったでしょう。暦に頼るのではなくて、実際の天候や野山の風景の移り変わりをもとに農作業を行なうことが多かったと考えられます。

鎌倉時代の桜。『西行物語絵巻』いわゆる山桜です。まだソメイ ヨシノはありません。
鎌倉時代の桜。『西行物語絵巻』いわゆる山桜です。まだソメイ ヨシノはありません。

 それは、たとえば桜が咲き始めたら田おこしをする、などです。「桜(さくら)」という名は、「さ」と「くら」を合わせたものと言われています。「さ」は春の神様のことです。冬の間じゅう、山の奥に入っているのだそうです。それが早春になると田に帰ってきて、ある木の上に座るのだそうです。座る所が「鞍(くら)」です。春の神様が座る所が「さくら」すなわち桜で、桜の花が咲けば、「あ、春の神様が来たな、そろそろ田おこしを始めよう、農作業を始めよう」ということになったのだそうです。

 江戸時代から「おめでたい」に掛けて、魚では「鯛(たい)」が尊重されるようになりました。しかし親鸞の時代に尊重されていたのは「鯉(こい)」でした。滝を登ったり、勢いのよい魚だったからでしょう。また鯛のように限られた深海にいるのではなく、日本中に広く分布していたからでもあるしょう。

 動物では鹿や猪もずいぶん食用にしました。親鸞も、「自分の食用のために殺したのでなければ、動物の肉を食べるのは問題ではない」としていました。「四つ足の動物を食用にしてはいけない」という思想が広まったのは、江戸時代になってからでした。
 親鸞のころは1日の食事も2回でしたし、一日の仕事開始のために役所の門が開くのは日の出の時でしたし、ずいぶんと生活の様式が現代とは異なっていました。
 親鸞の伝記や浄土真宗史を研究する際には、当時の社会の様子を十分に念頭に置いて、慎重に進めなければなりません。

 

【2016年9月10月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2016年)9月・10月の著書などについて記します。
《著書》
①『六十歳の親鸞─帰京。関東に別れを告げる─』

 (関東の親鸞シリーズ15【最終】)
 親鸞が関東に別れを告げて帰京した60歳の時の状況を明らかにしたもの。このシリーズはこの15で最終にしました。
《論考》
①「親鸞の風貌」(連載「親鸞の東国の風景」第1回)

 『自照同人』第96号(2016年9・10月号、2016年9月10日)
 『自照同人』に連載していた「悪人正機の顔」は、前号の第95号に第11回を掲載したのを最後に終わりにしました。「親鸞の東国の風景」は新しい連載です。親鸞は鎌倉時代の建保2年(1214)年から貞永元年(1232)、42歳から60歳までの18年間、東国に住んで活動していました。本連載は、この間に親鸞が見た東国の環境と生活に注目し、それを「風景」として探ってみようという趣旨の連載です。第1回は、親鸞が東国でどのような風貌をしていたのかということについてです。
②「親鸞と高田の真仏」『親鸞の水脈』第20号(真宗文化センター、2016年9月10日)
 高田門徒の本拠である大内荘(現在の栃木県真岡市の大部分と益子町・芳賀町の一部)とその付近における親鸞と真仏の行動をその俗縁(親族・姻族、知人)関係から探ってみようとしたものです。
③「報恩講に寄せて」『報恩講』(本願寺出版社、2016年9月1日)
 『報恩講』は、浄土真宗本願寺派の2016年報恩講の施本です。拙稿は論考ではないのですが、ここに掲載しておきたいと思います。

 

【連載 親鸞と慈円と青蓮院 ⑴ 】

 ここでは、『親鸞伝絵』に親鸞の出家の戒師として慈円が示されているのはなぜか、やがて青蓮院との関係が示されていくのはなぜか、ということを見ていきます。ただいま、来年のサマーセミナーのテーマを検討中です。それに関わり、昨年のサマーセミナーで触れた親鸞出家をめぐる問題を改めて明らかにしていきます。

箱根神社(箱根権現)の前に立つ鳥居。芦ノ湖の中
箱根神社(箱根権現)の前に立つ鳥居。芦ノ湖の中


 覚如は『親鸞伝絵』を執筆するにあたり、親鸞の関東時代の42歳から60歳までのことを3つの挿話で18年間を代表させています。それは親鸞聖人と稲田草庵のこと、親鸞への山伏弁円の帰服、そして親鸞の箱根権現訪問です。
親鸞と稲田草庵、および親鸞と山伏弁円のことはよく理解できます。稲田草庵は関東の住居としてもっとも重要な所です。山伏弁円は、親鸞の布教活動は必ずしも楽な毎日ばかりではなかった、しかし抵抗した人たちも結局は親鸞の威に打たれて帰服したという話の代表例です。
 しかし、3番目の箱根権現訪問はどういうことでしょうか。なぜ箱根権現なのでしょうか。いわゆる神祇不拝のどうこうとかいった問題ではなくても、18年間の関東での活動の中でまだ他に言うことがあるだろうということです。たとえば『教行信証』の執筆、とか。鎌倉での一切経校合作業に参加、とか。それなのに、3つの挿話の中の重要な一つとして箱根権現を語っているのはどうしてでしょうか。むろん、そこには覚如の重要な意図があったに相違ないのです。その人間性から判断して、政治的意図であったろうと推測されます。
 

慈円画像。伝住吉具慶筆
慈円画像。伝住吉具慶筆


 さて、では覚如はなぜ『親鸞伝絵』に「親鸞は伯父範綱に連れられ、慈円の下で出家した」と書きこんだのでしょうか。原文は次のようになっています。文中、
   「苗裔」は「子孫」
   「阿伯」は「伯父さん」
   「法性寺殿」は「藤原忠通」
   「月輪殿」は「九条兼実」
   「範宴少納言公(はんねん・しょうなごんの・きみ)」は寺院の中での通称です。この通称のことを、「公名(きみな)」といいました。この公名は俗人の太郎・次郎といった仮名(けみょう)に相当します。

  聖人の俗姓は藤原氏天児屋根尊二十一世の苗裔(中略)皇太后宮大進有範の子也。(中略)九歳の春比(はるころ)阿伯従三位範綱卿【于時、従四位上前若狭守、後白河上皇の近臣、聖人養父】前大僧正【慈円、慈鎮和尚是也。法性寺殿の御息、月輪殿は長兄】の貴坊へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまひき。範宴少納言公と号す。

 


 では慈円の政治的立場はどうだったでしょうか。
 慈円はこの時、右大臣であった九条兼実がもっとも頼りにした同母弟です。兼実の父忠通は10人の息子のうち3人に家を継いで摂政・関白になる資格を与えました。近衞基実・松殿基房・九条兼実の3人です。いずれも異母の兄弟です(ただし、基実の母と基房の母は姉妹)。基実と息子基通、基房には摂政と関白がまわってきましたが、兼実は当時の権力者平清盛との関係が悪く、15年間右大臣のままでした。焦った兼実は息子良通の妻に清盛の外孫の娘を迎えるなどして、清盛に接近を図っていました。
  
  藤原忠通─┬─近衞基実──基通
       ├─松殿基房
       ├─九条兼実──────────良通
       └─慈円             ┃
            花山院兼雅(左大臣)  ┃
                ┠──────女子  
            平清盛─女子

 親鸞の父有範も、親鸞に先立って出家したと考えられます。その理由は政治的失敗であろう、前年の治承4年(1180)の以仁王の乱に始まる、平清盛打倒の企てに参加して失敗し責任を取らされたのであろうとされてきました。そういうことなら、慈円が戒師になってくれる可能性は薄いでしょう。
  
  ┌日野範綱
  ├──宗業
  └──有範──親鸞

 

親鸞の伯父日野範綱が仕えた後白河法皇。法皇が亡くなった時、範綱はその遺骸を棺桶に入れる役割を担当しました。 よほど「法皇のお気に入り」と思われていたのでしょう
親鸞の伯父日野範綱が仕えた後白河法皇。法皇が亡くなった時、範綱はその遺骸を棺桶に入れる役割を担当しました。 よほど「法皇のお気に入り」と思われていたのでしょう


 では親鸞の伯父の日野範綱と日野宗業について見ていきましょう。
 親鸞を慈円のもとに連れて行ったとされる伯父藤原範綱は後白河法皇の近臣で、特に親しく仕えていました。法皇は清盛の権勢拡大を嫌い、常にその勢力を抑える策略を巡らしていました。治承元年(1177)、法皇の意を受けた藤原成親・俊寛らが起こした鹿ケ谷事件では範綱も平家方に捕まり、拷問の上、播磨国に流されています。帰京後は再び法皇のために熱心に働いています。その範綱が慈円に親鸞の戒師をお願いできるかどうか。ちなみに慈円もまだ27歳と若く、まだ天台座主になったことはありません。最初に就任したのはそれから11年後です。慈円自身も、平家全盛のもとで天台座主就任を睨んだ動きをしなければならないのです。
 慈円も親鸞も藤原氏という同族だから、慈円は戒師を引き受けるだろうという簡単な話ではありません。
 親鸞のもう一人の伯父日野宗業は、親鸞出家の年の9月以降、兼実の絶大な支援を受けます。それはこのころの兼実の日記『玉葉』を見れば明らかです。兼実は宗業の学問的能力を絶賛しています。しかし「春比」(『親鸞伝絵』。この年の春は、1月・2月・閏2月・3月)にはすでに40歳ながらまだ修行中の身で、学者として立つ上での資格取得に懸命でした。とても親鸞の援助に回れる余裕も力もありません。
 もちろん、甥が出家するのを手伝えないほどまったく余裕がなかったわけではないでしょう。


 親鸞が関東に到着したころ、範綱はかなり前に引退しておりました。実質上活躍していたのは宗業の方です。後鳥羽上皇の近臣で、上皇の大のお気に入りでした。いま主流になっている日野氏関係系図では、日野範綱が出家のために親鸞を慈円のもとに連れて行ってくれたことになっています。でも一つだけなのですが、実は宗業が連れて行ったという系図もあるのです。
しかし後鳥羽上皇が承久の乱で敗れて隠岐の島に流されてしまった時、宗業もともに没落した気配です。宗業の息子たちはかなり低い職にしかはつくことができませんでした。範綱の息子たちよりもぐっと格下の職ばかりです。
事実はどうであったのかという追求をしなければなりませんが、少なくとも覚如はこの宗業が親鸞を出家させてくれたとは『親鸞伝絵』に書けなかったのではないか、と私は考えています。覚如は政治的な判断を優先しようと考える人物でした。
 いずれにしても、『親鸞伝絵』になぜ「親鸞は慈円の下で出家した」と書いてあるのでしょうか。本連載では、いずれ私の考えるところを述べたいと思います。

 ご年配の受講者が多い状況を勘案して、「夏の市民大学講座」中止することに致しました。

 経済活性化を優先する crazyな政府の方針に反しますが、コロナ再拡大が進んでいる現状では市民大学講座を開催するべきではないと考えた次第です。ご迷惑をおかけしますことを深くお詫び申し上げます。どうぞ皆さまお元気でお過ごしください。再びお目にかかれる日を楽しみにしております。

          (2020年7月5日)

 

   

夏期(3月下旬~11月中旬)の開門時間は8:30~16:30です。

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

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