【第23回】2016年9月1日   筑波大学名誉教授 今井雅晴

 私は7月に三重県のさる教務所の暁天講座で講演をいたしました。朝6時20分から1時間ばかりの講演です。早朝に宿舎のホテルで起床した時、曇っていたためもあって周囲はとても静かでした。しかし車でお迎えが来て、会場に行き、講演が始まるころ、周囲は「シャーシャーシャー」という蝉の鳴き声があたり一帯を覆っていました。(正確には、蝉は喉や口で鳴いているのではなく、お腹から音を出しているのですが、そのようなことは脇に置いておきます)。そういえばいつか大阪のさる教務所に暁天講座で招かれた時も、蝉がしきりに「シャーシャー」と鳴いていました。
 「蝉の鳴き声は?」と尋ねられた子どもが「シャーシャーだよ」と答えるのは愛知県から西の地方で、静岡県から東では「ミーンミンミンだよ」と答えると、ずいぶん昔に何かの本で読んだことがあります。ミンミンゼミです。つまり蝉の種類が違うのですね。今は温暖化のためでしょう、東京の拙宅周囲ではミンミンとシャーシャーが同居しています。

羽川藤永「朝鮮人行列図」。東京国立博物館蔵
羽川藤永「朝鮮人行列図」。東京国立博物館蔵

 江戸時代、朝鮮通信使が朝鮮から江戸の将軍に挨拶に来る慣行がありました(費用は日本側持ちだったそうです)。その通信使が、大阪のある浄土真宗寺院について書き残しています。その寺院では毎朝8時から住職の法話があったのだそうです。門徒はその時刻の前から待っていて、8時に門が開くとドッとなだれ込み、住職の法話を聞き、終わってそれぞれの仕事に向かう習慣だったそうです。通信使が驚いたのは、住職の話は毎朝同じ内容だったことでした。でも門徒たちはそれに満足して、むしろ同じ話であることに安心して1日の生活を始めることができたのです。
 ところで関東では暁天講座はあまり見られません。私は関西で始まったのかなと思っていましたけれども、実は北陸から始まった講座なのだそうです。

 

【2016年7月8月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2016年)7月・8月の著書などについて記します。
《論考》
①「親鸞聖人と神奈川県 ⑴」(連載)
(『組報 かまくら』第32号、浄土真宗本願寺派東京教区鎌倉組、2017年7月1日)
 神奈川県は親鸞が60歳のころに帰京するとき、神奈川県(武蔵国の一部と相模国)を通りました。親鸞の伝記の上で、神奈川県はその「通り道」のみのような扱いでした。しか親鸞55、6歳のころから、神奈川県の地域で布教などで活躍したのではないかと判断されます。本連載ではそのことを中心に全6回にわたって考察していきます。
②「聖徳太子」(連載「悪人正機の顔」第11回)『自照同人』第95号
(2016年7・8月号、2016年7月10日)
 悪人正機の考え方の中で、茨城県水戸市・善重寺蔵の聖徳太子立像(鎌倉時代後期制作、国指定重要文化財)はどのような位置にあると推定されるかについて考察しました。なお、本稿は連載「悪人正機の顔」の最終回です。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田(23)】
  ─「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」・又続─


 「かさまの念仏者のうたがひとわれたる事」という親鸞書状は、貴重な親鸞の真蹟(真筆、自筆)です。常陸国の真宗門徒にとっても、また西念寺にとっても貴重な財産です。本稿では、「念仏者」に注目したいと思います。「念仏者」は当時の社会、特に鎌倉幕府にどのように見られていたのか。危険視されていたのか?という問題です。この問題解決のための手がかりの一つは、親鸞60歳のころの帰京の理由に関する、念仏弾圧を逃れてという説です。

 

鶴岡八幡宮の舞殿(手前)と拝殿(奥)。
鶴岡八幡宮の舞殿(手前)と拝殿(奥)。

 親鸞は鎌倉幕府の念仏弾圧を逃れるために帰京した、という説が最近までありました。これは第二次大戦後の昭和20年代から40年代にかけて強かった説です。帰京の理由については、他に、『教行信証』を完成させるため、あるいは法然の書状類を集めて『西方指南抄』を編むため、さらには還暦になって故郷が懐かしくなって、などという説もありました。

 鎌倉幕府の念仏弾圧を逃れてという説が成立した背景には、親鸞は幕府という権力者の集団には敵対していたという考え方があったのです。親鸞は庶民の味方、だから庶民に重い税金をかけ、庶民を弾圧する権力者に協力をしたはずはない、という考え方があったということです。
 しかし、はたしてそうだったでしょうか。親鸞が信奉した阿弥陀仏は、広大無辺の慈悲によってすべての人を救うのではなかったでしょうか。阿弥陀仏は権力者を救わないのでしょうか。権力者は地獄に堕ちるしかないのでしょうか。現代風に言えば、会社の平社員は救っても、社長さんは救わないのでしょうか。そんなはずはないでしょう。この考え方は根本的に誤っていたと言わざるを得ません。


 ところで、では鎌倉幕府はほんとうに念仏を弾圧したのでしょうか。まず、鎌倉幕府の基本法典である『御成敗式目』全51条を見てみましょう。これは貞永元年(1232)に執権北条泰時のもとで編纂されました。するとその第2条に、
  寺塔を修営し仏事を勤行すべき事
とあり、また第40条に、  
  鎌倉中の僧徒、恣(ほしいまま)に官位を争ふ事
とあります。第40条の方は、「鎌倉に住む僧は順序を超えて僧としての位を求め、治安が乱れている、これは止めなさい」という内容です。教理のことではなく、治安問題です。しかも、鎌倉の外(そと)については何も言っていないのです。
 『御成敗式目』で仏教や僧について指示しているのは、この二か条だけです。念仏者については触れていません。

北条泰時墓。鎌倉市大船常楽寺
北条泰時墓。鎌倉市大船常楽寺


 北条泰時は叔父の北条時房、異母弟の北条重時ら近い親族以外では、北関東の大豪族である宇都宮頼綱をもっとも信頼していました。頼綱の妻は泰時の叔母です。また泰時の孫で後継者の経時の妻は、頼綱の孫娘でした。さらに泰時は源頼朝以来の幕府の役所(大倉山の麓。現在、頼朝の墓があるあたり)を捨てて、新しい場所を求めて役所を建てようとしました。自分主導の政治が始まったことを示すためです。その時に選んだ場所が宇都宮辻子(鶴岡八幡宮三の鳥居近くにある南北の道路)付近でした。頼綱の屋敷があった所です。

倒れた鶴岡八幡宮の大銀杏の切り株と、新しく育つ若木(右)。右上は拝殿。
倒れた鶴岡八幡宮の大銀杏の切り株と、新しく育つ若木(右)。右上は拝殿。

 すなわち泰時は幕府を頼綱の屋敷地に移したのです。そして頼綱は法然最晩年の有力門弟、法然没後はその高弟の証空の指導を受け続けていた人物でした。法然没後の専修念仏者に対する延暦寺の攻撃を、頼綱は数百騎の軍勢を率いて防ぎました。つまり、頼綱は熱心な念仏者でした。
 その頼綱を強く信頼する泰時が、「念仏弾圧」を進めるとは考えられません。親鸞60歳の帰京は、まさに御成敗式目が発布された年のことです。


 鎌倉幕府の法令は『御成敗式目』だけではありません。その後も、それぞれの社会情勢に応じた法令を発布しています。それらをあわせて「式目追加」と称しています。その動きの中で、弘長元年(1261)、鎌倉幕府は「関東新制条々」なる法令を発布しました。全61条です。その第41条には「僧坊にて酒宴并に魚鳥会を禁断すべきの事(僧侶の部屋で酒宴をしたり、鳥や魚を食べる会を開くのを禁止することについて)」という題がついています。
  群飲(ぐんいん)を成し飽満(ほうまん)に及ぶは、既に禁戒に背く。何ぞ放逸(ほ
  ういつ)を好むや。しかのみならず、俗人・児童を相(あ)い交うるの間、専ら肉物
  を以て其の肴(さかな)に充(あ)て用ふと云々。太だ物宜に背く。永く禁制せしむ
  可き也。
「大勢の僧侶が集まって飲み会を開き、大酒を飲むのは、それだけで戒律を破るけしからんことである。まして、なんで勝手に暴れまわることを好むのか。それだけではなく、俗人や少年をその飲み会に加わらせ、肉だけを酒の肴にしていると聞く。非常によろしくないことだ。永久に禁止させなさい」。
 幕府は一般的に僧侶が戒律を破り、治安を乱すことを固く戒めていたのです。


 「関東新制」第50条には、「念仏者の事」という題がついています。幕府の指導者たちは念仏者のことをどのように考えていたのでしょうか。
  道心堅固(どうしん・けんご)の輩(ともがら)に於いては、禁制の限りに非ず。而
  (しか)るに、或は女人(にょにん)を招き寄せ、常に濫行(らんぎょう)を致す。
  或は魚鳥を食らひ、酒宴を好む。かくの如きの類(たぐい)、遍(ひと)へに其の聞
  こへ有り。件(くだん)の家に於いては、保(ほ)の奉行人等に仰せて破却せしむべ
  し。其の身に至りては鎌倉中を追放せらるべき也。 
「修行の心を強く持っている念仏僧は、取り締まりの対象にしていない。しかしながら、例えば女性を呼び入れて、いつも勝手な行ないをする。あるいは魚や鳥を食べ、酒を飲む会をしきりに行なっている。このような僧が多いということがしきりに聞こえてくる。その僧が住んでいる家は、その地区を管理している役人に命じて壊させよ。そしてその僧は鎌倉の外に追い出すように」。
 「道心堅固」の念仏僧ならば問題ない、と幕府は言っています。つまり幕府は念仏禁止などとは言っていないのです。私たちは勘違いしてはなりません。幕府の指導者たちが警戒していたのは、念仏者で治安を乱している者たちです。為政者としてそれは当然のことでしょう。それは現代だって同じでしょう。


 「関東新制」第51条の題は、次のような文章です。
  僧徒、頭を裹(つつ)みて鎌倉中を横行(おうこう)するの
「宗派を問わず、僧侶が頭を布でくるんで鎌倉の町の中を歩き回まわるのは禁止。取り締まる」というのです。治安問題からの禁止令です。鎌倉は狭いところですし、また幕府内部での争いも多かったので、治安問題について幕府は敏感でした。
 同じく「関東新制」第52条の題には、「編笠を着して鎌倉の中を勝手に歩きまわるのは禁止、取り締まる」とあります。これも治安問題の観点からの禁止令です。
 幕府は仏教の教理に踏み込み、あれは賛成、これは反対などという意図はまったくないのです。つまり、念仏禁止などということではありません。


 「御成敗式目」や「関東新制条々」等の治安に関する法令の威力が及ぶのは鎌倉の町の中だけです。「関東新制」第50条「念仏者の事」に、「其の身に至りては鎌倉中を追放せられるべき也」とあることに注目しましょう。これは、鎌倉の町の外の治安問題には幕府は手を出せないということでもあるのです。幕府にはそのような権利はないのです。それはそれぞれの地域の領主の権限なのです。そして幕府にとっての犯罪人がある領主の領地に逃げ込んでも、その領主の了承がなければ幕府は勝手に逮捕に踏み込めません。鎌倉時代はそのような時代だったのです。現代の国家とは異なるのです。
 もし鎌倉の外の地域に幕府の意図を及ぼしたかったら、「関東新制条々」第57条の題に、
  諸国に至りては、守護地頭に仰せて固く科断(かだん)せしむべきなり。
「各国については、守護や地頭に命じて厳しく取り締まり、罰するようにさせよ」と、幕府指揮下にあるそれぞれの国の守護・地頭に命じなければならなかったのです。しかし幕府が「念仏者」に関する法令(例えば「関東新制条々」第50条)について、このような文を加えた例は見当たりません。
 幕府に権限があり、また幕府が関心があったのは鎌倉の町の中の念仏者だけでした。常陸にいる親鸞が弾圧される理由はないのです。


 さらに念仏者の中でも親鸞だけについて言えば、親鸞は執権北条泰時の依頼で一切経校合という困難で長い年月のかかる作業を行なった人物です(拙著『五十六歳の親鸞・続々─一切経校合─』「関東の親鸞シリーズ11」真宗文化センター、平成26年)。幕府は親鸞の念仏・人間性を十分に認めていたのです。その幕府が「念仏禁止」の故をもって親鸞を弾圧し、関東にいられなくするとは考えられません。

新型肺炎感染予防のため、「春の永代経法要」は、非公開で勤行することになりました。御迷惑をおかけしますことを深くお詫びするとともに、皆さまのご健康を心から祈念しておりす。   

   (2020年3月24日)

 

「夏の市民大学講座」7月18日・19日の予定です。詳細は、左端下部の公開講座・Seminar のご案内をご覧ください。

   

冬期(11月中旬~3月下旬)の開門時間は8:30~16:00です。

 

4月以降も暫定的に上記の開門時間を続けます。ご自宅待機にお疲れになったためでしょうか御参拝の方が増えつつありますが、ご体調には十分にご注意ください。状況によっては閉門することも検討中です。       (3月30日)

 

 

 年末の強風も夜半には収まり、ここ北関東は穏やかな新年を迎えた。暖かい日差しの中でまどろんでいると、全てのことを忘れてしまいそうになる。一昨日に食べた食事が「もりソバ」であったのか「かけソバ」であったのかすら、記憶にない。諦めて机回りの整理をしていると、昨年4月に共に「」を見た友人たちの連絡先までなくしてしまった。


 ツマラナイことにこだわっていないで、溜まっている仕事に取り組むべきだと家族は笑う。しかし、正しい食事は健康の基礎であるし、住所録は交友関係に必須である。これらなしでは、真っ当な生活を送ることはできない。


 翻って考えて見るに、日本人は「水に流す」ことを好むようだ。新しい元号を歓迎して無批判に受容するなど、その典型である。しかし、昭和・平成・令和と替わるに従い「加害」の事実を水に流されては、被害者たちは堪らないだろう。「日本固有の文化」「国書からの初めての引用」として、新元号を受容する向きもあろう。しかし、元号は有名な前漢の武帝が採用したものだし、漢字自体が中国に由来しており、ともに日本固有の伝統や文化ではない()。


 あの震災より9年が過ぎようとしている。この間、「頑張ろうニッポン」のかけ声の下で、私たちの社会は発展してきたのだろうか? 民主主義は成熟したのだろうか? 「復興」を旗印に掲げたオリンピックも近い。金メダルの数に一喜一憂するような偏狭なナショナリズムを、自国でしか通用しない時間軸で過去を忘却しようとする国民を、そして贈収賄や忖度が横行して公文書や議会が軽んじられる政治を、大震災に対して暖かい援助の手を差し伸べてくれた世界の人々に、お目にかけたくないものである。
 全ては、日本列島に住む我々の意識にかかっているのだ。「バンザイ」の連呼など、もっての他である。

(註)

 忙中閑あり。年末にkindle「青空文庫」で藤村『千曲川のスケッチ』を、ようやく読み終えた。大学時代のクラブ山荘があるため、あの地域は毎年のように訪れている。登山とスキーと温泉で過ごした日々を想い出しながら…後記をみると、「大正1年」とあった。さて、その年に世界では何が起こっていたのか?

 大正1年=1912年と換算して初めて、浅間を仰ぎ見つつ藤村が過ごした山里の日常と、孫文が活躍した中国や大戦前夜の緊迫した欧州情勢が、重なり合って私の頭の中を駆け巡った。日本人の思考回路に元号使用が与える「負の影響」は、明白である。

  ちなみに、「1912年」と聞いても何も思い浮かばない人には、無責任に一票を投ずる前に、中学・高校生に戻ったつもりで歴史を学び直すことを強くお勧めしたい。歴史を知らずに現在を評価し、未来をデザインすることはできないのだから。    (2020年2月10日)

 

 

 庵田米の新米が入荷しました。宿坊にてお買い求めください。お電話でのご注文も承っています(郵送には送料がかかります)。詳細は、左側の「庵田米の販売について」をご覧ください。(2019年10月7日)

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。