山門
山門

門前より、大木に囲まれた長い石畳の参道を抜けると、山門に至る。茅葺きで、鎌倉~室町期の建設とされている。山門に向かい左手には「浄土真宗立教改宗の聖地」の大きな石碑が、右手には北条時頼公の歌碑がある。

 

 いやたかき鷲の峯間に説く法を 

 昔ながらにここに移して
                                     

――「鷲の峯間」はインドの霊鷲山のこと。釈尊が大経と観経を説かれた聖域である――

 

ご本堂と吾国山(わがくにさん)
ご本堂と吾国山(わがくにさん)

吾国山を仰ぎ、聖人は比叡の峰々に想いを馳せられた。

 

聖人越後国より常陸国に越えて 笠間郡稲田郷というところに隠居したもう。幽棲を占むといえども 道俗あとをたずね 蓬戸を閉ずといえども 貴賤ちまたにあふる。仏法弘通の本懐ここに成就し衆生利益の宿念たちまちに満足す。このとき聖人 仰せられてのたまわく 救世菩薩の告命をうけしいにしへの夢 すでに今(と)符合せり。(御伝鈔)

――『御伝鈔』は、親鸞聖人のご曾孫にあたる覚如上人が聖人の33回忌に関東を巡られて書かれたご一代記で、全国の真宗寺院で毎年の「報恩講」に拝読される――

 

ご本堂
ご本堂

ご本堂の阿弥陀如来像は、慶長2(1597)年の宇都宮氏断絶に際して城内より持ち出され、後に遠縁にあたる当山に寄贈されたものと伝わる。左右には親鸞聖人と恵信尼公のお像が安置されている。享保6(1721)年に当山第19世の了智が建立した旧本堂は、天狗党の乱の余波で明治4(1871)年に焼失した。このため、仮本堂を経て現在の御本堂が平成7(1995)年に第27世の実乗(現住職)により再建された。

 

お葉付きイチョウ
お葉付きイチョウ

 

稲田ご草庵の庭前に聖人がお手植えになったと伝えられる。県天然記念物。


    聖人が葉に実を包みて
    播き給いしよりこの不思議あり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御頂骨堂
御頂骨堂

聖人ご往生の折、当山第2代の教念は恵信尼公の深い思し召しをご息女の覚信尼公に伝え、御尊骨を稲田に具し奉ったと伝えられる。大正14(1925)年に立教開宗七百年を記念して現在のお堂が再建され、真宗10派本山法主のご参拝をいただいた。

 

 

 

 

 

見返り橋
見返り橋

文暦元(1234)年頃、聖人は約20年に渡ってお住まいになった稲田を離れ、ご帰洛された。お名残を惜しまれて、しばしの間たたずまれたと伝えられる見返りの橋は、この付近にあったとされている。


  別れじを さのみなげくな法の友
 また会う国の ありと思えば

 

 

 

 

 

太鼓堂
太鼓堂

天保14(1843)年、当山第23世の良栄により建立された。堂内にある直径2尺8寸(約84cm)の太鼓は、法要の開催などを近在の人々へ伝える際に使用された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太子堂への春の山道
太子堂への春の山道

天正13(1585)年、笠間城主の笠間時広は水谷幡竜(みずのやばんりゅう)との戦いに敗走して当山に入り、聖人御自作と伝わる聖徳太子像の尊前で自害を図った。当山15世の了与は、これを止め単騎長槍を執って幡竜の陣に向かい和議を結ぶ。これに時広は厚く感謝し、太子堂と仏供田を寄進建立したと伝えられる。現在のお堂は、延享4(1747)年に第19世の了智が再建したもの。

  

 

 

玉日姫御本廟
玉日姫御本廟

玉日姫と恵信尼公の関係・ご消息については諸説あるが、稲田禅房の東 800mの丘にご本廟が遺されている。終生お仕えした池田権頭是貞により、この地に葬られたと伝えられる。ご遺徳を偲ぶために全国に玉日講が結成されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3月31日に行われました当山27世「葬儀およびお別れの法会」にご参列を賜りました皆さま、またお心遣いを賜りました皆さま、ご厚情に深く感謝申し上げます。皆さまのお力をお借りして、法会を無事に終えることができました。ありがとうございました。法会の様子は、左端「ご報告の部屋」をご覧ください。また、当日は一般のご参拝の方々に多大なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。(4月1日)

 

  

 「春の市民大学講座」(3月24日)は無事に終了しました。特に西洋哲学(デカルト)につきましては予想を超えるご来場者があり、関心の高さを感じました。ご参加の皆さま、お疲れ様でした。次の市民大学講座は7月20・21日です。ご参加を心よりお待ち申し上げています。(3月24日)

 

 

 

 

 会うことに意義があったと信じたい。再会は3度目の逢瀬?^_^;に繋がる。

 

 思い起こしてほしい…あの米ソ冷戦が激化していった時代、米英仏ソの4大国首脳がジュネーヴに参会して笑顔で写真に収まり(1955)、フルシチョフが訪米してアイゼンハウアーと会談したこと(59)が、(米大統領はケネディ代わったが)キューバ危機(62)の解決に繋がっていったのは間違いない。

 

 それにしても、「世界を俯瞰する外交」はどうした? これが「制裁・圧力」と言い続けて他人頼みの強硬外交を繰り返してきた結果なのか? 自らが位置する東アジアが大きく地盤変動しつつある時に、全く‘蚊帳の外’に置かれているのは噴飯物でしかない。

 

 再び思い越して欲しい…欧州に多大な惨禍をもたらした第一次世界大戦(1914~18)が終わった100年前、ウィルソン米大統領の唱えた「新外交new diplomacy」  が流行語となって、パリ講和会議(19.1-6)で恒久的平和に向けて熱い議論が繰り返されていた時代を。その時に日本は、「五大国  Big5」(米英仏伊日)の一員として講和会議に加わりながら、経験と語学力の不足そして何よりも平和に向けた ‘理念’ の欠如から、会議では孤立した挙げ句に沈黙を続けて「silent partner」と密かに軽蔑されたのだった。

 

 さらに「民族自決」という国際的潮流を見誤った日本は、朝鮮半島では「三・一独立運動」(19.3)を徹底的に弾圧し、大陸部では権益拡大を強引に追い求めて「五・四運動」(19.5)を引き起こした。…そして日露戦争の勝利でアジアの希望の星と思われていた日本は、アジアの民衆から失望され孤立していく。

 

 知る人によれば、友人を大切にする ‘良い人’ だそうだ。落ち着いた住宅街にあるお坊ちゃま大学を出た(少し単純な思考回路を持つ)男が、したたかな思惑を持った人々に操られて暴走した結果が、孤立した今の状況なのだろう。戦争への道を決定づけた上で内閣を投げ出した近衛文麿と酷似していると思うのは、私だけではないだろう。

 

 しかしながら、個人を批判しても仕方あるまい。二人とも、世論の支持を頼りに暴走していったのだから。あの時代に近衛内閣と大陸への強硬策を熱く支持した日本国民たちも、今の時代に(住民投票に示された)地方の民意を完全に無視し、かつ無形の圧力をかけて公文書や統計数字の偽装を官僚に強いる内閣に高い支持を寄せ続ける国民たち(特に若年層男性)も、時代を超えて共にその責任は重い。

 

 すべては、私たち国民のせいなのだ。(2019.3.4)

 

 

 

 

庵田米を販売しています。左端の「庵田米の販売について」をご覧ください。

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。