【第7回】2014年1月1日 筑波大学名誉教授 今井雅晴

 新年あけましておめでとうございます。本年2014年は、親鸞聖人が建保2年(1214)に一家をあげて越後から関東に入られてから、ちょうど800年という記念すべき年に当たります。「入関800年」です。私もさらに調査研究を続けていきたいと思います。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

【2013年11月・12月の活動】
著書の出版
ここでは、昨年11月・12月の出版について記します。
《著書》
➀『恵信尼―親鸞とともに歩いた六十年―』(法蔵館)
 本書は恵信尼の伝記です。ただし恵信尼関係の数少ない史料だけでは本格的な一冊にするのは困難ですし、また彼女の一生は親鸞聖人とともに歩んだことで完結したと考えられますので、「二人で一人」という内容の伝記にしました。表紙は上越市光源寺様所蔵の上品な「恵信尼影像」を使わせていただきました。この表紙には、私の恵信尼に対する思いが込められています。快く使用させて下さった光源寺様に感謝しています。

《論考》
➀「真仏とお田植の歌」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第3回)
 『学びの友』42巻3号(2013年11月号)
 真仏は高田門徒の真仏とは別人です。『親鸞伝絵(御伝鈔)』に出る、熊野参詣の逸話で知られる人物です。本稿はその真仏が自分の所領の大部へ親鸞を招いた時の話です。
➁「如信と願入寺」(親鸞の家族ゆかりの寺々 第11回)
 願入寺は茨城県東茨城郡大洗町磯浜町にあります。原始真宗を名のる真宗系の単立寺院です。江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)が如信の系譜をひく僧侶を招いて建立しました。
➂「入信と筑波権現」(親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で― 第4回)
 『学びの友』42巻4号(2013年12月号)
入信はつくば市大曽根・常福寺の開基です。この寺に「筑波山餓鬼済度の御影」と称する掛軸があります。本稿ではその絵及び筑波山付近で語られている伝承を取り上げました。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田⑺】
  ―神原の井(かんばらのいど)―

 

神原の井。屋根と木の柵で覆われています。
神原の井。屋根と木の柵で覆われています。

 ➀ 神原の井
 西念寺の山門をくぐると、右に「真宗開闢之霊地」の大きな石碑があります。富山県を中心地する玉日講の方々が建立したものです。左には鼓楼(ころう)があります。昔、太鼓が納められていました。そして正面に本堂があります
 本堂に向かって進むと、左側に大銀杏が立っています。その先の左に、瓦屋根の覆いのある井戸があります。これが神原の井です。鹿島明神が寄進したとされています。鹿島明神とは茨城県東南部の鹿嶋市宮中(きゅうちゅう)にある鹿島神宮の祭神です。

➁ 鹿島地方と藤原鎌足
 鹿島神宮は、本来は海の航海安全を守る神でした。ところが七世紀半ば、鹿島地方から出た中臣鎌足は都で中大兄皇子を助けて政治改革を成し遂げました。大化改新です。おかげで鹿島地方の一地方神に過ぎなかった鹿島神宮は、以後、聖界・俗界で大きな勢力を得ました。現在では研究が進み、昔、学校の教科書に書いてあったような内容の大化改新はなかったそうです。でも中臣鎌足が、中大兄皇子が即位した天智天皇から天武天皇・持統天皇そして奈良時代の聖武天皇と続く、天皇を頂点とする政治体制のもとを作ったという事実は動きません。天智天皇は、鎌足の臨終に当たり、その功績を讃えて藤原という姓を与えました。以後、藤原氏は朝廷で強い権力を握り続けます。
 茨城県の東南の隅から、北部の那珂川付近まで70キロに及ぶ海岸に面した細長い鹿島郡は、鹿島神宮経営の費用を賄う神郡として設けられました。神郡とは大きな神社の経営のための郡です。これは歴史的にも伊勢神宮などわずかの神社にしか設けられていません。

鹿島神宮拝殿。拝殿のすぐ奥に本殿があります。
鹿島神宮拝殿。拝殿のすぐ奥に本殿があります。

➂ 鹿島神宮の祭神と神官
 鹿島神宮の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)といいます。この地方にはそれなりの神話があったはずですが、やがて大和朝廷の神話に組み入れられ、東国平定の案内をしてきたという由緒から、鹿島の神は武神とされました。また天照大神の使者が鹿の神霊であったということで、鹿島地方では鹿が尊重されました。
 伊豆の蛭が小島で平家打倒の兵を挙げた源頼朝は、先祖伝来の鎌倉に入ると、関東地方の有力神社に使者を送り、武運長久を祈りました。その時、真っ先に使者を送ったのが鹿
島神宮でした。鹿島神宮がいかに勢威を持っていたかが分かります。
 鹿島地方で勢力を持っていた豪族は、中臣氏と大中臣氏でした。中臣氏は鎌足以前から、鹿島地方に根を張っていた豪族です。大中臣氏は、都に展開した中臣氏の中で、藤原の姓をもらえなかった者の一部が故郷に帰った人たちです。彼らは大中臣を名のったのです。
 鹿島神宮の神官のトップは、大宮司と大禰宜でした。中臣氏と大中臣氏とはお互い対抗しつつ、またそれぞれの内部で切磋琢磨しつつ、鹿島神宮の経営にあたっていました。

➃ 鎌倉時代の鹿島神宮
 鹿島神宮の大宮司と大禰宜を決める権利は、藤原氏の本家が持っていました。本家というのは、藤原道長ら摂政や関白を出すことのできる摂関家のことです。しかし、その支配関係にくさびを打ち込むべく、鎌倉幕府は機会をとらえて追捕使という役を設け、鹿島神宮に送りこんできました。追捕使とは、鹿島神宮に武力で侵入してきた者を取り締まり、神宮を守るという役です。その役に任命されたのは常陸大掾氏の一族である鹿島氏でした。藤原摂関家の支配は揺らぎかかるのですが、しかし幕府第三代将軍源実朝の後に、第四代将軍として摂関家の藤原頼経が迎えられたことにより、鹿島神宮の支配関係は落ち着きました。それは親鸞聖人が関東にいたころでした。

 

➄ 親鸞聖人と鎌倉幕府
 親鸞聖人は誰も知り合いのいない関東に入ってきたと思われがちですが、しかし鎌倉幕府の三大役所の一つである問注所(裁判所)の執事(長官)であった三善康信は、系図の上では恵信尼の従兄です。同じく幕府で活躍した康信の弟康清の領地は、筑波山の西側にありました。そこの鹿島神宮領の預所(あずかりどころ。地頭とほぼ同等の領主)でした。親鸞聖人が連絡を取ったかどうかはともかくとして、身近な親戚もいたのです。

「親鸞上人旧跡」の案内板。ここは神宮寺の跡です。親鸞上人はこの神宮寺で書籍を閲覧したと伝えられています。
「親鸞上人旧跡」の案内板。ここは神宮寺の跡です。親鸞上人はこの神宮寺で書籍を閲覧したと伝えられています。


➅ 親鸞聖人の鹿島神宮参詣
 親鸞聖人は関東で『教行信証』を執筆されました。本文中に元仁元年(1224)という年号がありますので、その年に執筆されたのであろうといわれています。親鸞聖人52歳の時です。執筆された場所は稲田草庵、この西念寺の地であったろうとされています。
 『教行信証』は正式には『顕浄土真実教行証文類』といいます。「浄土が確かに存在するというほんとうの教えと、それに基づく行と、その行に基づく成果を明らかにした文章を集めた書物」という意味です。昔の人たちは、「私はこう思う」と主張しても誰も認めなかったのです。「経典や古典にこう書いてあるから、このようなことが言える」と主張すると耳を傾けてもらえたのです。ですから親鸞聖人は、専修念仏がいかに正しいかを主張するために、たくさんの経典やその解説書から必要な文章を集める必要がありました。そのために、親鸞聖人は鹿島神宮へ行き、その所蔵の文献を読み漁ったのだと言われてきました。
 しかし、稲田から鹿島神宮までいったいどれくらいの距離があるでしょうか。直線で、なんと60キロもあります。それに道はいつもまっすぐではないし、途中に山もあれば川もあります。人は1時間に4キロ歩くといいますが、直線で60キロでしたら、まあ2日はかかるでしょう。往復にそれぞれ2日ずつ、そして神宮に到着して経典を求め、読み、必要な部分を抜き書きするのに1日や2日で済むとはとても思えません。往復合わせて1週間以上、稲田に子どもたちを抱える恵信尼を残して、気安く鹿島神宮に通ったとは思えません。ひんぱんに鹿島神宮の本を読みたいのなら、鹿島に住めばよいのです。しかしそれを語る確実な史料もなければ、伝承の類いも何一つありません。だいたい、江戸時代の『遺徳法輪集』にも、親鸞聖人が初めて鹿島神宮に参詣したのは53歳の時とあります。『教行信証』執筆の翌年です。
 親鸞聖人と鹿島神宮との直接の関係は薄そうに見えます。にもかかわらず、親鸞聖人の草庵などの諸重要遺跡に鹿島神宮関係の伝承がぴったりと張り付いているのです。まず稲田草庵の跡を受ける西念寺の、鹿島の神原の井の伝承の内容は次のとおりです。

東本願寺第十六世一如が寄進した杉。現在ではその根に近い部分のみ、屋根と木の柵に覆われて保存されています。
東本願寺第十六世一如が寄進した杉。現在ではその根に近い部分のみ、屋根と木の柵に覆われて保存されています。

➆ 西念寺(稲田草庵の跡)の神原の井と順信房
 白髪の老翁の姿で親鸞の説教を聞いた鹿島明神は感激し、親鸞聖人の門弟にしてもらい、順信房信海という法名を与えられました。明神は喜びのあまり、鹿島にある七つの井戸(鹿島七ツ井)のうち、神原の井を親鸞聖人に寄進しようと、稲田草庵の地面を2、3度杖で叩くと、忽然と清水が湧きだしたといいます。
 ところが鹿島明神の言うことには、この井戸の水は毎年六月十四日には減ることもあるが、心配はいらないということでした。以来毎年、六月十四日(旧暦)には井戸の水の高さが低くなるそうです。その意味するところはよく分かりません。
 江戸時代に入り、徳川光圀(水戸黄門)は井戸にいわれを聞いて喜び、そのあまりに御影石の井筒を寄進してくれたそうです。
 東本願寺第十六世の一如は次のような和歌を詠み、また記念に杉の木を植えています。
   とし毎に 水のみちひや 六月(みなづき)の
   しるしなるらん 神原の井
   「神原の井戸は、毎年水が減ってまた増えます。それによって六月が来た

   なと分かります」
 一如が植えた杉の木は神原の井の後ろ(南側)にあります。今は枯れ、根元から1メートルあまりの幹が残って、覆いの屋根に守られています。

➇ 光照寺(笠間草庵の跡)神木と鹿島明神 
 光明寺の開基教名の祖父(または父)で笠間城主の庄司基員は、鹿島神宮修理事業の時、海で拾った流木が実は三国伝来の神木であると鹿島明神に告げられ、大切に保管していました。教名はそれを親鸞聖人に差し上げ、聖人はその木で阿弥陀仏を彫ったといいます。

 

➈ 阿弥陀寺(大山草庵の跡)と鹿島の赤童子
 髪の毛を逆立てた、赤い顔で恐ろしげな童子は、鹿島明神を守っているとされています。阿弥陀寺に伝えられている事情については不明です。

 

➉ 如来寺(霞ヶ浦草庵の跡)
 如来寺はもと霞ヶ浦の南岸にあった。親鸞聖人が常陸国に入ったころから、霞ヶ浦の水中に怪しく光る物体が現れた。魚はその光を恐れて逃げ散ってしまい、漁師たちは困っていた。するとある日、浮木に乗った白髪の老翁が現れ、「明日親鸞という名僧が通るので助けてもらいなさい」と伝えました。親鸞の助言によって網で光る物体を引き上げると、それは金色の阿弥陀仏であった、とされています。

姥ヶ池。近年の耕地整理により、もとの場所から移動しました。写真左に立っているのは柳の木です。 
姥ヶ池。近年の耕地整理により、もとの場所から移動しました。写真左に立っているのは柳の木です。 


⑪ 専修寺(三谷草庵に関わる)の姥が池と鹿島明神
 親鸞聖人が下野国高田で専修寺を建立した時、近くの三谷草庵で生活し、そこから建築現場へ通ったといいます。その現場での飲用水として、鹿島明神が池を寄進したそうです。それが専修寺近くに残る姥が池であるとされています。

 

⑫ 今泉(吹雪谷の草庵の跡)と鹿島神社
 戦国時代の歴史学者である顕誓の『反故裏書(ほごのうらがき)』に、親鸞聖人の常陸国での住所は板敷山の北にあった、とあります。板敷山の北方2キロほどの桜川市今泉がそこであると、現地では伝えられています。そこの民家の庭に、親鸞聖人が使用したという井戸があります。その民家のとなりに鹿島神社があります。

 

 歴史学的に調査すると親鸞聖人と鹿島神宮との直接の関係は薄そうに見えるのに、このように親鸞聖人の草庵の多くに鹿島明神・鹿島神社との深いかかわりが残されているのは興味深いことです。

現在の開門時間は、

9:00~16:00です。

 

親鸞聖人御誕生850年および立教開宗800年を記念した前進座特別公演「花こぶし」の水戸公演が2月に行われます。

詳細は左端の「お知らせ」タブより「行事日程と工事予定」をご覧ください。

(2024.1.11)

⇒ご鑑賞、御礼申し上げます。

 

「除夜の鐘」をつきます。23:50~01:00頃。ご参拝ください。   (2023.12.31)

⇒ご参加・ご参拝ありがとうご

 ざいました。(2023.01.1)

 

2023年度の新米が入荷しました。今年の新米も昨年同様ローズドール賞(最優秀賞)を受賞した新品種「ゆうだい21」です。詳細は左端のタブ「庵田米の販売について」をご覧ください。    (2023.10.20)

 

筑波大学名誉教授(日本思想)伊藤益先生のご講義【第5回】     

「慈悲の思想」をUPしました。左端のタブ「internet市民大学」よりお入りください。      

         (2023.7.15)

 

「市民大学講座」7月16日開催します。ご講師は伊藤益先生です。詳細は左端のタブ「公開講座・Seminar のご案内」をご覧ください。4年ぶりの開催ですので、ご参加をお待ちしています。(2023.5.29)

⇒約70名の受講者の方のご参加を得て、質疑応答で40分の延長の後、無事に終了しました。35度にもなる酷暑の中、駅から往復3km を歩いて参加され方々もありました。皆様、ご参加ありがとうございました。そし て、お疲れさまでした。 

       (2023.7.18)        

 机に向かい静かに目を閉じると、想いは6年前に訪れたキエフ〔キーウ〕に飛ぶ。ホーチミン経由のベトナム航空でモスクワに着いた私は、その足で駅に向かい、翌日の夜行列車を予約したのだった。

 

 首都キエフは、ロシア正教会(今はウクライナ正教会)の建物が夕日に輝く美しい都市だった。十字架を抱えたキエフ大公ウラディミル1世がドニエプル川を見下ろし、独立広場にはウクライナ国旗とEU旗が記念塔を取り囲んでいた(大学の授業で配信した動画の一部をUPします)。

 

  モスクワからキエフまでは夜行で一晩、1時間ごとに寝台列車が出ている。乗車当日その場でキップも買える。「母がウクライナの出身なんだ」と話していた初老のロシア人男性。両国に親戚がいる人々も多い。その国に攻め込むとは…刻々と届く映像を見ていて涙が止まらない。


 事態を予想しなかったと話す識者も多い。フィンランド侵攻(1939)・ハンガリー事件(56)・チェコスロヴァキア事件(68)と繰り返された暴力。必ずキエフまで侵攻すると私は確信していた。なぜ事前に米軍やNATO軍を緊急展開させなかったのか。抑止力となったはずだ。腰の引けた指導者たちの宥和政策が、ヒトラーの勢力拡大を可能にしたことを思い出す。


 キエフではミンスク(ベラルーシの首都)行きの寝台列車の切符が買える。チェルノブイリの側を抜けた列車は、翌朝にはミンスクに着いた。そのベラルーシでは、一昨年にはルカシェンコ政権に対する激しい民主化要求デモが続いた。ロシアでも反戦デモが続いているようだ。ナショナリズムに染まらないロシア人の知性に、僅かな光明を見る思いがする。

      (2022.2.26)

《追伸》
  十数年前のロシア航空、隣に座ったチェコ人青年の言葉が思い出される。チェコ解体(1939)と「プラハの春」弾圧(68)を経験した彼らの言葉は重い。 
  Russia is more dangerous

  than Germany.


 自国の権益と安全保障を要求して一方的に他国に攻め込む姿勢は、満蒙特殊権益を死守しようとした80年前の日本と重なる。欧米諸国による圧迫やウクライナの性急な親欧姿勢が攻撃を誘発したとする言説も聞かれるが、それは米国による包囲網が日本を追い込み開戦に至らしめたとして、日本の侵略行為を矮小化しようとするのと同じである。        (2022.5.5)

 

 

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。