【第19回】2016年1月1日  筑波大学名誉教授 今井雅晴

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
私は茨城県水戸市から東京都杉並区に転居してから3回目のお正月です。早いものです。もっとも茨城県との縁が切れたわけではなくて、昨年は講演で3回、親鸞遺跡の団体参拝の皆様のご案内でも何回か茨城県内を回っています。本年もまた訪れる予定になっています。
 お正月といえば、お餅を食べるのが一般的な習慣です。私もお雑煮が好きなので、妻に作ってもらって楽しく食べています。時々、親鸞のころ、食生活はどうだったのだろうと思うことがあります。当時は習慣として1日は2食、朝は日の出、またはその少し前から仕事を始めて、それこそひとしごと終えてから朝食でした。役所に勤務する人たちは、朝、太陽が出るときから仕事を開始し(早くから門の前で日の出を待っているのです。)、10時・11時には終わって自宅に帰り、それから朝食でした。
 食物では、魚は鯉が好まれました。川魚で獲りやすく、また勢いのいい魚だったからでしょう。武士などには特に好まれました。鯛が賞賛されるようになったのは江戸時代からです。「おめでたい」の「たい」に引っ掛けて「鯛(たい)」が好まれるようになったといわれています。また山芋やむかご(ぬかご)も好まれました。鹿や猪などを食べることもよく行なわれました。「四つ足の動物を食べてはいけない」という思想が広まったのは、これまた江戸時代です。親鸞も動物を食することについて、限定付きながら容認しています。動物は食べないようにという思想は古代から存在しますが、これは仏教思想によるというよりも、作物が不況の時に「動物を食べたりしませんから豊作にしてください」と祈る習慣があったからだといいます。
 ともあれ本年の平安を祈りたいと思います。

 

【2015年11月・12月の活動】
著書の出版等:ここでは主に私の昨年(2015年)11月・12月の著書などについて記します。
《出版》
①「歴史を知り、親鸞を知る」⑨『親鸞聖人と箱根権現』

 自照社出版、2015年11月30日
 覚如が制作した『親鸞伝絵(御伝鈔)』には親鸞42歳から60歳くらいまでの関東時代が三つの挿話で表わされています。親鸞と稲田・親鸞と山伏弁円・親鸞と箱根権現です。稲田は親鸞がもっとも長く住んで布教活動に当たったところですし、山伏弁円は親鸞に抵抗したけれども後に帰服した者たちの代表として取り上げたのでしょう。ですからそれぞれの挿話の重要性はよくわかります。しかし三つ目の箱根権現を取り上げた理由はどのようなことだったのでしょうか。本書ではその問題を検討しました。
《論考》
①「親鸞聖人の報恩謝徳」『学びの友』44巻3号(2015年11月号)
 親鸞の報恩謝徳の意味をあらためて述べました。いわゆる報謝は現代の感謝とは、全部ではありませんが、意味が異なります。そのことを手がかりにしました。
②「宇都宮頼綱と嘉禄の法難」(連載・「悪人正機の顔」第7回)
 『自照同人』第91号(2015年11月・12月号)
 一時は北条氏のために一族全滅の危機にあった宇都宮頼綱。法然の門に入り、政治的にも復活し、嘉禄の法難では大軍を擁して法然の遺骸を守りました。その顔に注目しました。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田(19)】
  ―『親鸞伝絵(御伝鈔)』に見る稲田―

① 報恩講と覚如
 毎年11月前後から1月前後は報恩講のシーズンです。上は各派の本山から下は所属寺院、地域によっては門徒(檀家)の家でも報恩講が行なわれます。私も何ヶ所かで記念の法話をさせていただきました。
 この報恩講は、親鸞の徳を偲ぶ法要です。それをしっかりした毎年の法要として固めたのは、親鸞の曾孫の覚如と考えられます。
  親鸞
   ┠――覚信尼
  恵信尼   ┠――覚恵――覚如
      日野広綱
 覚如は親鸞に対する深い感謝の意を表わすために永仁2年(1294)、『報恩講式』を作りました。翌年、さらに詳しい親鸞の伝記絵巻である『親鸞伝絵』を制作しました。これは絵巻物ですので、慣例に従って右からまず詞書(ことばがき)、それからその詞書に見合う絵が描かれています。その繰り返しで話が進んでいきます。

覚如。「親鸞・如信・覚如連座影像」 京都市下京区・西本願寺蔵より。
覚如。「親鸞・如信・覚如連座影像」 京都市下京区・西本願寺蔵より。

 覚如は曽祖父親鸞没後8年目の文永7年(1270)に誕生しました。ちなみに叔父の唯善が誕生したのはその4年前の文永3年(1266)のことでした。父の覚恵は嘉禎2年(1236)、その母の覚信尼13歳の時に誕生しています。母それはいかにも早すぎる、何かの間違いだろうという意見もありました。しかし当時、女性は13歳で大人という慣例でした。13歳の初めころに男性が通ってきて、その年のうちに子どもが生まれることは問題なしにあり得たのです。覚信尼は、太政大臣にも就任した久我通光家の女房として勤めながら、覚恵を育てたと考えられます。

② 『親鸞伝絵』に見る関東の親鸞
 『親鸞伝絵』は覚如の制作ですから、当然ながら覚如の考えによって全体の構成が決まっています。親鸞の一生は90年、その中から覚如が重要と判断した挿話を拾い上げ、それを繋いでいったということになります。では親鸞が42歳の時から60歳くらいまでを過ごした関東時代の約18年間の中で、覚如はどのような挿話を選んだでしょうか。それは親鸞と稲田、親鸞と山伏弁円、親鸞と箱根権現という三つでした。
 覚如は、名前が分かっているだけで300人になろうとする法然の門弟の中で、親鸞こそ正しくその念仏の思想を受け継いでいます、その特色はこれこれです、と初めて説いた人です。その特色とは阿弥陀仏本願の救いに対する信心と、その救いへの報謝の気持で念仏を称えるということです。別の言い方をすれば、念仏を信心と報謝で説いたのです。
 では覚如は親鸞聖人と稲田を人々にどのように知らしめたかったのか、以下に確認していきたいと思います。

 

③ 『親鸞伝絵』の稲田の場面
 ここで『親鸞伝絵』の稲田の場面を確認したいと思います。まず原文を見ていきましょう。


聖人越後国より常陸国にこへて、笠間郡稲田郷といふところに隠居したまふ。幽(ゆうせい)棲を占(しむ)といへども道俗あとをたづね、蓬戸 (ほうこ)をとづといへども貴賎衢(ちまた)にあふる。仏法弘通(ぐづう)の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。この時、聖 人仰られて云(のたまわく)、救世菩薩の告命(こうみょう、ごうみょう)をうけしいにしえへのゆめ、すでにいま符合せりと。(『浄土真宗聖典ー原 典版ー』による。ただしカナは片仮名を平仮名にあたらめ、漢字に読みをつけた〈カッコ内〉)。

稲田山と西念寺。笠間市稲田。
稲田山と西念寺。笠間市稲田。

親鸞聖人は越後国から常陸国へ山を越えて来られて、笠間郡稲田郷という所に隠れ住まわれました。そっと住んでいたのですが僧侶や俗人たちが家を訪ねてきました。雑草が生えているようなみすぼらしい門を閉じていたのですけれども、身分の上下の人たちがその辺の道に溢れていました。念仏の教えを広めようという本 来の目的はここで成功し、人々を救おうという念願があっという間に達成されました。この時、親鸞聖人は次のようにおっしゃいました。「あの時に夢の中でい ただいた六角堂の救世観音菩薩のお告げが、いま、ここでぴったりと符合しました」と。


 この話は『御伝鈔』下第二段に記されています。

 

④ 『御伝鈔』の六角堂救世観音菩薩のお告げの場面
 ところで『御伝鈔』上第三段に、この話に対応する挿話が載せられています。


六角堂の救世菩薩(中略)善信に告命してのたまはく、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽、(中略)これはわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して一切群生(いっさい・ぐんじょう)にきかしむべしと云云(うんぬん)。爾時(そのとき)善信夢の中にありながら御堂の正面にして東方をみれば、峨峨(がが)たる岳山(かくさん)あり。その高山に数千万億の有情(うじょう)群集(ぐんじゅう)せりとみゆ。そのとき告命のごとく此文のこころをかの山にあつまれる有情に対して説きかしめ畢(おわる)とおぼえて夢さめ畢(おはり)ぬと云云。

六角堂。京都市右京区。
六角堂。京都市右京区。

「六角堂の救世観音菩薩が善信(親鸞)に告げて「そなた親鸞が前世からの因縁によって結婚することになるならば、私観音がすばらしい女性となりそなたの妻に なってあげよう。そして一生の間よい生活をさせようし、来るべき臨終にあたっては手を取って極楽へ案内してあげよう」といわれ、「これは私の誓いであり願 いである。そなたはこのことの趣旨をすべての人々に明らかにし、この趣旨に基づく念仏を称えるよう説きなさい」といわれました。
 その時親鸞は夢の中でしたが、六角堂の正面である東の方向を見ますと、険しく連なる山々がありました。その高い山に数千万億もの人々が集まっているように 見えました。そこで親鸞は観音菩薩の意お告げのとおり、先ほどの趣旨を集まった人々に説き終わったと思ったところで夢が覚めました、ということでした」。

 
 覚如は、親鸞が六角堂の救世観音菩薩からお告げをいただいた時、その観音堂の東方に見えたという高い山を、稲田草庵の背後にあった稲田山に見立てています。

 

⑤ 覚如にとっての稲田草庵
 稲田草庵は、『親鸞伝絵』に書かれた絵と現地の地形などから判断して、現在の西念寺の位置にあったろうと判断できます。ここは常陸国の七つの名神大社の 一つである稲田神社の境内とも判断されます。稲田神社の建物群は、西念寺が北側に背負う稲田山の山腹に展開していました。
 稲田山はそれほど高い山ではなく、また険しい山でもありません。『親鸞伝絵』の前掲「峨峨たる岳山」「高山」という形容にはふさわしくありませんが、誇張して述べたのでしょう。

稲田神社。左・拝殿、右・本殿。笠間市稲田。
稲田神社。左・拝殿、右・本殿。笠間市稲田。

 なお、朝廷は平安時代前期の延喜年間、全国の有力神社を④段階に分けて掌握しようとしました。それらの神社をひとまず勢力の大きな順に大社・中社・小社 として格を与えました。その大社の中でも特に有力な神社を名神大社という格を与えたのです。稲田神社はその最高位の名神大社だったのです。
 親鸞が住んだ草庵とされる所は、他にも小島・大山・霞ヶ浦・三谷・佐貫・花見ヶ岡などがあります。その中でもっとも長く住み、実質的な活動を行なったの は稲田草庵として間違いないでしょう。覚如もそれはよく分かっていて、その重要性を六角堂の救世観音のお告げ(告命)に絡めて説明したものと考えられます。

本日の銀杏のライトアップは、風雨のために中止させていただきました。深くお詫び申し上げます。明日はのライトアップを実施する予定です。既に落葉しておりますので、落ち葉の絨毯をライトアップいたします(11月18日)

 

【お葉付き銀杏の色づき情報】

8割の葉が落葉いたしました。

黄色い落葉の絨毯が美しい状態です。(11月17日)

 

少し色づきが深くなってきましたが、まだ散り始めてはいません。あと数日は黄葉が楽しめそうです。(11月11日)

 

ただいま見頃を迎えていますので、ご覧になりたい方はお急ぎください。今年の黄葉は2週間ほど早まっており、荒天になりますと散り始めるものと思われます。(11月6日)

 

 
「銀杏fest」を開催します(11月18~19日)。 午後市(13:00~17:00頃)では、地元産の新鮮な野菜の販売や、ユニセフへの寄付のために手芸品などの販売を行います。また、お葉付き銀杏のライトアップを行います(17:00~19:00雨天中止)。 19日午後にはFl.&Gt.

Duo chotto(デュオ  チョット)(フルート:中田由紀乃氏/ギター:谷島崇徳氏)の ミニコンサート があります(15:30

~16:30/申込不要、無料)。なお、19日は親鸞聖人報恩講も同時に開催中で、伊藤益先生(筑波大学大学院教授)のご講演「現在における救済―親鸞聖人のお浄土―」があります(13:00~14:00/申込不要、無料)(11月3日)

 

 

「庵田米」新米の販売を開始しました。当山宿坊にてお買い求めください。庵田米については、左端をご覧ください(写真もあります)。

 

 

ご連載とスプリングセミナーをご担当くださっていました加藤智見先生は、膵臓ガンのため8月30日にご逝去なさいました。慎んでお悔やみ申し上げるとともに、長年のご執筆・ご講義を心より御礼申しあげます。また、今井雅晴先生のご連載は、ご多忙のため第28回(7月1日)をもって修了とさせていただきました。長期のご連載ありがとうございました。皆さまのご愛読に心より感謝いたしております(9月17日)。

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。