【第18回】2015年11月1日 筑波大学名誉教授 今井雅晴

 私は、一か月あまり前の9月21日から25日まで、中国の大連大学に滞在しました。副学長で大連大学日本語言文化学院の院長を兼ねる宋協毅教授のお招きでした。日本語言文化学院というのは、日本風にいえば日本言語文化学部です。宋副学長は私の古い友人です。日本語言文化学院では、9月23日に第10回日中韓飲食文化祭を開催します。その時に講演をしてほしい、という宋副学長のお招きだったのです。

 成田空港から大連空港までは空路3時間あまり、私にとっては久しぶりの大連でした。大連大学では2003年、2004年にも講演あるいは講義をしました。大連大学では第10回日中韓飲食文化祭という企画が日本語言文化学院の主催で行なわれました。私はそこで、「日本人の挨拶としぐさ―日本文化を理解するために―」「現代日本の飲食文化」および「日本の論文の書き方」という三回の講演をも見学しました。また大連市街の中心部近くには、第二次戦争前に建立された東本願寺の旧跡が残っています。時間を見つけて、普段はまったくの未公開なのですが、宋教授のお計らいで特別に見学させていただきました。

  宋協毅教授の教育方針や第10回日中韓飲食文化祭の様子、私の講演の講演録、大連本願寺旧跡見学記などは一冊にして出版する予定です。現在準備中です。

  

【2015年9月・10月の活動】

著書の出版:ここでは、私の今年(2015年)9月・10月の著書などについて記します。

《出版》

➀「関東の親鸞シリーズ」⑬『五十八歳の親鸞―相模国への布教・続―』

 真宗文化センター、2015年9月12日

 58歳になった親鸞が相模国でどのような活動をしたか。まず鎌倉の政治社会の動き、それから後に寛喜の大飢饉と呼ばれた飢饉が始まり始めた状況をおさえつつ、親鸞の活動を関係諸寺院の寺伝などから推測しました。親鸞58歳は、親鸞が聖覚の『唯信抄』を書写した年でもあります。本書、その書写について最後にまとめました。

《論考》

➀「親鸞伝の新研究」➊~❽『東国真宗』創刊号

 東国真宗研究所、2015年8月

 この「親鸞伝の新研究」は昨年11月からの「神奈川真宗講座」と題しての連続講義の講演録、8回分をまとめたものです(❸のみ通常の2倍の分量)。以後も継続中です。

➁「熊谷直実の高声念仏」(連載「悪人正機の顔」第6回)

 『自照同人』第90号(2015年9月・10月号)

 東国の荒武者として知られた熊谷直実。直実は地獄に堕ちるのを恐れ、法然に入門、最後は高声念仏で亡くなりました、その恐れの理由と、なぜ高声念仏だったのかを検討しました。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田(18)】 

    ―宇都宮辻子幕府―


➀ 幕府とは何か?

 日本の朝廷の規則では、京都における常置の武官として左大将・右大将、左中将などがありました。また軍隊が出征する時には、その事情によって、司令官には鎮守府将軍・征越後蝦夷大将軍・征夷大将軍騎兵大将軍・征新羅大将軍・左将軍・右将軍など、さまざまな名称の将軍職が与えられました。この将軍は原則として臨時の任命です。しかも彼らは戦争に行くのですから、通常、戦地では幔幕(テント)を張って休み、またその中で政府や国府の役人がするような政務をとります。それで将軍が政務を執る所を幕府と称したのです。仮りにずっと一か所に留まっていても、征夷大将軍が留まる所は幕府と称しました。


➁ 源頼朝は「征夷大将軍」の称号が欲しかった?

 「源頼朝は征夷大将軍の称号が欲しかった」と長い間いわれてきました。その理由は、第一に、頼朝は東国を軍事的に支配する大将としての称号がほしかったから、ということでした。朝廷の規定の中にはさまざまな武官があります。中でも、東国に関する称号としては征夷大将軍や鎮守府将軍などが知られていました。どちらがいいかという問題があります。

 第二に、頼朝は朝廷の権威を背負いつつも、朝廷にできるだけ束縛されたくないと考えていました。鎮守府将軍は常置の職なので、人事など重要な案件は朝廷の許可を受ける必要があったのです。ところが征夷大将軍は臨時の職でした。ということは戦地にいることを前提とした職ですから、いちいち遠い京都にまで使いを送って許可を求めるなどできません。そんなまだるっこしいことをしていたら戦いに敗れてしまいます。それで征夷大将軍には人事権が与えられていました。

 以上の二つの理由で頼朝は征夷大将軍を望んだのだと言われてきました。しかし朝廷を主導する後白河法皇は許しませんでした。すでに平家は全滅しており、頼朝がさらに強力な組織を作るのを警戒したのでしょう。常置の武官である右大将の職だけを与えるにとどめました。。

 建久4年(1192)、その後白河法皇が66歳で亡くなった4か月の後、頼朝は待望の征夷大将軍に任命されました。それは摂政九条兼実の働きによるものでした。九条兼実は平氏政権下では不遇、頼朝と結んで摂政に就任できていたのです。当然、頼朝の希望は知っています。


➂ 頼朝が欲しかったのは「大将軍」

 しかし最近、頼朝がこだわったのは征夷大将軍ではなかったという説が出ました。頼朝が「欲しい」として執着したのは、「大将軍」だったのです。「将軍」より上であったらなんでもいいということでしょう。頼朝は東国に限るイメージの「征夷」を切望していたのではなかったのです。実際、頼朝は西国に勢力を伸ばしています。

 確かに平家政権末期、頼朝は朝廷に対して「東国は頼朝にお任せあれ。西国は平家に」という提案をしたことはあります。しかし平家が全滅してからは、そのよう提案に縛られる必要はないのです。

 ただ朝廷としては頼朝の権限を東国に限定したかったのでしょう。それで「蝦夷は東国に住む人々」というイメージから、その蝦夷が暴れるのを鎮圧する総大将として「征夷大将軍」を与えようという結果になったものでしょう。 


➃ 大蔵幕府から宇都宮辻子幕府へ

  頼朝は、鎌倉における本拠を大倉山の南の麓に置きました。現在の、頼朝の墓から清泉小学校のあたりです。清泉小学校の脇、頼朝の墓に至る手前の十字路の右角に「大倉幕府跡」の石碑が建っています。

  前年に幕府の執権職に就任した北条泰時は、嘉禄元年(1225)、大きな痛手を受けました。彼の後ろ盾であった伯母の北条政子と、同じく幕府の事務組織を取り仕切っていた大江広元が亡くなりました。泰時は、父義時が亡くなった時、本来はその跡継ぎの資格を持っていた四弟の政村と、それに次ぐ立場にいた次弟の朝時を強引に抑えて跡継ぎとなり、執権に就任していたのです。たちまち、弟たちを担ぐ勢力が立ち上がる危険があります。

  泰時は信頼する叔父の北条時房をもう一人の執権(連署)とし、有力者たちの集団である評定衆を設けて幕政に参加させ、彼らの歓心を買いました。そして幕府を大蔵から宇都宮辻子(うつのみや・ずし)に移し、幕府は泰時を軸とする新しい体制に入ったことを周囲に知らしめたのです。

  では宇都宮辻子とはどこでしょうか。それは現在の鶴岡八幡宮の南、若宮大路の中央にある段蔓(段蔓)の東、二の鳥居と三の鳥居の間にある人家の中です。「宇都宮辻子幕府跡」の石碑が建っています。

  

➄ 宇都宮辻子幕府と宇都宮家

 「宇都宮辻子」というのは地名です。すぐ考えが及ぶことは、この地域は宇都宮一族と

かかわりが深いのではないか、ということです。確かに、そのように推測されています。

 「辻」とは、縦と横、例えば南北の通りと東西の通りが交差する十字路とその付近のことです。その通りは、両方とも道幅が広い通りであることが普通です。

 「辻子」というのは、その広い通りを横切る狭い通りを呼ぶ言葉です。つまり「宇都宮辻子」というのは、鎌倉の広い通りを横切る狭い道で、「宇都宮一族の屋敷がある地域」という意味なのです。

 現代の私たちは、鎌倉の広い通りというと段蔓のある若宮大路を思い浮かべます。それは南北(正確には南南西)に海岸の由比ガ浜まで続く通りです。これが鎌倉の町の軸となる大通り、メインストリートだと考えられてきました。それを横切るといえば、東西の通りということになります。それが宇都宮辻子というわけです。

 ところが、幕府の場所を変更しようということについて、幕府で何度か話し合いがありました。当然のことです。でも、何か所か候補があったのではなくて、初めから宇都宮辻子に決まっていました。そこでしきりに議論になったのは、宇都宮辻子の「東側にするか、西側にするか」ということでした。でも、「北側か、南側か」という議論があってしかるべきだったのではないでしょうか。おかしくはありませんか。宇都宮辻子は若宮大路を東西に横切っているのですから、「幕府の移転先を宇都宮辻子の東側にするか、西側にするか」という議論は成り立ちようがありません。『吾妻鏡』が間違っているはずはない、でももしかしたら『吾妻鏡』編者の勘違いか? いやいや、そんなことは……。

  その結果、研究者たちは「おかしい」と思いながら、移転先について他の史料もないので、仕方なくうやむやにごまかしてきました。この私自身も恥ずかしながらこのごまかしの一員でした。

  

➅ 鎌倉の広い大通りは若宮大路ではなかった!

 ところが、『吾妻鏡』の記事はやはり正しかったのです。記事のとおり、宇都宮辻子は東西の狭い通りではなく、南北の狭い通りでした。秋山哲雄氏の最近の業績(『都市鎌倉の中世史』歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2010年)によれば、鎌倉の広い大通りは若宮大路ではなかったのです。鶴岡八幡宮の三の鳥居の前あたりを東西に走る通りが、鎌倉のメインストリートだったのです。

 それなら、宇都宮辻子は南北に走る狭い通りということになります。幕府移転に当たり、関係者が、「宇都宮辻子の東側にするか、西側にするか」という議論を続けたのはもっとも、ということになります。

 こうして新しい幕府の位置は宇都宮辻子の西側に決定しました。やがて幕府の建物はさらに西に延び、おりから若宮大路も発展していったようで、その大路に接して若宮大路幕府と呼ばれるに至ります。


➆ 執権泰時に頼られた宇都宮氏

 泰時は政権の中枢部を宇都宮氏の屋敷地あるいはその隣に移しました。ということは、泰時は頼綱を実質上の惣領とする宇都宮氏を真剣に頼りにしていたということなのです。

翌年、泰時は長子時氏の長男経時3歳と頼綱の嫡男泰綱の娘3歳とを婚約させます。泰綱の母は泰時の叔母です。

 北条時政――義時――泰時――経時

      └女子       ┃

        ┣――㤗綱――女子

         宇都宮頼綱

 

 こうして、鎌倉からは120数キロ離れていますが、宇都宮領の稲田に住む人々にとって、鎌倉幕府と執権北条泰時はとても身近な存在となったのです。宇都宮辻子幕府の成立は親鸞53歳、『教行信証』を執筆した翌年のことでした。この時期には、そろそろ、親鸞には幕府のある相模国が布教の視野に入って来たのではないでしょうか。

 親鸞と相模国については、下記の拙著で私の調査研究の成果をお示ししています。

 「関東の親鸞シリーズ」➇『五十五歳の親鸞―嘉禄の法難のころ―』(真宗文化センター)

    同上➉『五十六歳の親鸞・続―北条氏の家族の悲劇―』(同上)

    同上⑪『五十六歳の親鸞・続々―一切経校合―』(同上)

    同上⑫『五十六歳の親鸞・又続―相模国への布教―』(同上)

    同上⑬『五十八歳の親鸞―相模国への布教・続―』(同上)

 「歴史を知り、親鸞を知る」❾『親鸞聖人と箱根権現』(自照社出版)、11末に刊行予定


本日の銀杏のライトアップは、風雨のために中止させていただきました。深くお詫び申し上げます。明日はのライトアップを実施する予定です。既に落葉しておりますので、落ち葉の絨毯をライトアップいたします(11月18日)

 

【お葉付き銀杏の色づき情報】

8割の葉が落葉いたしました。

黄色い落葉の絨毯が美しい状態です。(11月17日)

 

少し色づきが深くなってきましたが、まだ散り始めてはいません。あと数日は黄葉が楽しめそうです。(11月11日)

 

ただいま見頃を迎えていますので、ご覧になりたい方はお急ぎください。今年の黄葉は2週間ほど早まっており、荒天になりますと散り始めるものと思われます。(11月6日)

 

 
「銀杏fest」を開催します(11月18~19日)。 午後市(13:00~17:00頃)では、地元産の新鮮な野菜の販売や、ユニセフへの寄付のために手芸品などの販売を行います。また、お葉付き銀杏のライトアップを行います(17:00~19:00雨天中止)。 19日午後にはFl.&Gt.

Duo chotto(デュオ  チョット)(フルート:中田由紀乃氏/ギター:谷島崇徳氏)の ミニコンサート があります(15:30

~16:30/申込不要、無料)。なお、19日は親鸞聖人報恩講も同時に開催中で、伊藤益先生(筑波大学大学院教授)のご講演「現在における救済―親鸞聖人のお浄土―」があります(13:00~14:00/申込不要、無料)(11月3日)

 

 

「庵田米」新米の販売を開始しました。当山宿坊にてお買い求めください。庵田米については、左端をご覧ください(写真もあります)。

 

 

ご連載とスプリングセミナーをご担当くださっていました加藤智見先生は、膵臓ガンのため8月30日にご逝去なさいました。慎んでお悔やみ申し上げるとともに、長年のご執筆・ご講義を心より御礼申しあげます。また、今井雅晴先生のご連載は、ご多忙のため第28回(7月1日)をもって修了とさせていただきました。長期のご連載ありがとうございました。皆さまのご愛読に心より感謝いたしております(9月17日)。

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。