【第14回】2015年3月1日 筑波大学名誉教授 今井雅晴

 今年も立春が過ぎ、まもなく春分を迎えます。春の到来はうれしく、ありがたいものです。

 『親鸞聖人伝絵(御伝鈔)』に、親鸞が関東から帰京の折りに箱根権現に歓待されたという話が載っています。関東時代の親鸞に関する話は、『親鸞伝絵』に3つ掲載されています。越後から関東に来て稲田に落ち着いた話。板敷山の山伏弁円の話。そして箱根権現に歓待された話です。関東時代約20年をこの3つの話で代表させているのですから、『親鸞伝絵』の作者にとって、箱根権現の話はとても重要だったのでしょう。なぜか。

 親鸞は、当時の普通の東海道であった足柄峠越えの山道を通らずに、箱根越えの山道を通っています。箱根峠越えは足柄峠越えよりずっと険しく、大変なのです。しかも、夜を徹して必死に歩いた気配です。なぜか。そして箱根権現の社務所(今日風にいえば)を訪れたのが、午前3時・4時という真っ暗な時間帯です。この時間帯は、普通、皆さん寝ていますよ。それなのに、親鸞は当たり前のように社務所に声をかけています。なぜか。 

 現在、『親鸞聖人と箱根権現』(「歴史を知り、親鸞を知る」シリーズ➈、自照社出版)を執筆中です。なお、このシリーズ➇『親鸞聖人の越後流罪』は未刊ですが、この3月ないし4月に刊行予定です。

 

【2015年1月2月の活動】

著書の出版:ここでは、私の本年1月・2月の出版などについて記します。

《著書》

➀『親鸞と門弟―関東の風土の中で。門弟の側から―』

 (真宗文化センター、2015年2月)

 本書は、親鸞と関東の門弟の間にはどのような交流があったか、それを主に門弟の側から見ていこうとするものです。その際本書では、親鸞に対する気持をいろいろと門弟に発言させています。むろん、それは荒唐無稽な内容ではなくて、周囲の状況から考えてそのような気持であったろうと判断される内容です。

 本書は中央仏教学院通信教育部(浄土真宗本願寺派)の月刊誌『学びの友』42巻1号(平成25年9月号)から同12号にわたって連載した拙稿「親鸞聖人と門弟―関東の風土の中で―」がもとになっています。『中央仏教学院紀要』第25号掲載の拙稿「山伏弁円と板敷山に思う」も分量を調え、本書に加えました。

《論考》

➀「『教行信証』の執筆」(連載「関東の親鸞聖人」➃)

 『築地本願寺新報』2015年1月号

 親鸞が『教行信証』を執筆するにあたり、参考文献を求めた主なところは、稲田神社であったろうことを述べました。また少なくとも江戸時代まで、鹿島神宮に参考文献を求めたとする史料はなかったということも述べました。

➁「褒め言葉としての「悪」」(連載「悪人正機の顔」第2回)

 『自照同人』第86号(2015年1・2月号)

 親鸞が生きたころ、「悪」は褒め言葉でもありました。それを悪左大臣藤原頼長・悪源太源義平・悪禅師源全成・悪七兵衛景清らで確認しました。

➂「一切経校合」(連載「関東の親鸞聖人」➄)

 『築地本願寺新報』2015年2月号

 覚如の『口伝抄』に出る、親鸞が鎌倉幕府の執権北条泰時の一切経校合に協力した話に

ついて述べました。

 

 

【連載・親鸞聖人と稲田(14)】 

―『教行信証』の出版―

➀ 『教行信証』執筆の参考文献

 親鸞が『教行信証』を書いたのは稲田草庵であったということは、まず動かないでしょう。その際、必要な仏書を鹿島神宮に求めたことは考えられない、と以前に述べました。鹿島神宮は遠いし、江戸時代の記録や二十四輩順拝記等を見ても、親鸞が鹿島神宮へ参詣したのは『教行信証』執筆の2年後としか書いてありません。親鸞はまず稲田神社に文献を求め、加えて筑波山神社や筑波山の中禅寺、常陸国分寺(石岡市)、磯部稲村神社(桜川市)など、あまり遠くない地域の大寺院・大神社を訪ねたと推定されます。

 

➁ 坂東本以外に親鸞自筆本はないのか?

 ところで現在、親鸞自筆の『教行信証』は一部しかありません。それは、明治時代の初めまで坂東報恩寺が所蔵していた坂東本『教行信証』です。この坂東本は、現在、真宗大谷派の所蔵で京都国立博物館保管となっています。もう一部、真宗高田派が所蔵してきた『教行信証』が親鸞自筆といわれてきました。しかし研究が進み、現在ではそれは親鸞の自筆ではないと認定されています。では、親鸞は一部しか書かなかったのでしょうか。『教行信証』は大著ではありますが、親鸞の性格からしても写しを作ったであろうと推測されますけれども、坂東本以外には見当たりません。

 

➂ 坂東本の数百年ぶりの里帰り

 報恩寺は、もと、現在の茨城県常総市にありました。この寺は戦国時代の16世紀、戦乱に巻き込まれ、焼失した気配です。寺地は何か所か移り、江戸時代に現在の東京都台東区の地に落ち着きました。この間、坂東本『教行信証』や親鸞坐像、聖徳太子立像その他の宝物も一緒に持ち運んだようです。

 平成22年2月、茨城県立歴史館で特別展「親鸞―茨城滞在20年の軌跡―」が開催されました。この特別展では、真宗大谷派のご好意により、坂東本が展示されました。坂東本が利根川を越えて茨城県に戻ったのは数百年ぶり、数百年ぶりの里帰りといわれました。いくら慎重に京都から運ぶといっても、歴史館で十分に安全に配慮するといっても、何が起きるか分かりません。もし火災に遭って灰燼に帰したり、紛失して行方不明になったりしたら取り返しがつきません。真宗大谷派当局がよく歴史館での展示を許可して下さったものだと思います。

 

性信坐像(群馬県板倉町・宝福寺蔵)
性信坐像(群馬県板倉町・宝福寺蔵)

➃ 性海による『教行信証』出版計画 

 ところで、『教行信証』は鎌倉時代後期の正応4年(1291)8月、勧進沙門性海という人物の働きによって木版刷りで出版されています。それは真宗高田派本山の専修寺蔵『教行信証』および同派の中山寺蔵『教行信証』化身土巻奥書によって明らかになっています。その奥書には、次のように記されています。まず最初に『教行信証』が全6巻であるなどの概要を説明し、性海が『教行信証』を出版したいと思っていた、と書かれています。

 

  去る弘安第六暦歳癸未春二月二日、彼の親鸞自筆本一部六巻を、先師性信法師所

  より相伝せしめ畢ぬ。仏恩を報ぜんがため、開板を当時に企て、後代に伝えんと

  欲す。

   語注:「弘安第六暦歳癸未春」=西暦1282年

      「先師」=すでに亡くなった自分の師匠。常総市・報恩寺の性信荼毘搭の

                                銘文によれば、性信は建治元年(1275年)に亡くなりました。

      「法師」=僧侶に対する敬称。

      「開板」=印刷のための木版を制作すること。

現代語訳すると、つぎのようになるでしょう。

  「去る弘安六年春二月二日、あの親鸞自筆の『教行信証』一部六巻を、私の亡くな

  られた師匠である性信様の所から引き継ぎました。阿弥陀仏の御恩のお返しをした

  いので、いま出版の企画を立てました。内容を将来に伝えたいからです」。


➄ 性信と飯沼および横曾根

 性信は親鸞がもっとも信頼した門弟の一人です。現代に残る親鸞作の門弟宛てと伝えられている書状(ほんとうに親鸞のものかどうか、学問的には検討の余地があるものもありますが)40数点のうち、宛名がはっきりしている書状20数点のなかで、性信宛てが5点あります。実は性信宛てがもっとも多いのです。その他の書状で文中に性信の名が出てくるものも合わせれば、10点ほどになります。門弟の中でもっとも多い数です。のちに性信が親鸞門弟二十四輩第一とされた理由はあるといわねばなりません。

 性信は報恩寺(東京都台東区・坂東報恩寺、茨城県常総市・下総報恩寺)の開基です。そして鎌倉時代、常総市の報恩寺付近から北西の方向に向かって30キロあまり、東西の幅は1キロ前後の細長い沼が展開していました。飯沼といいます。その南半分を横曾根ともいいました。飯沼の周囲は湿地帯で、もとは耕作・生活不能な土地でした。農地として使用するのは適していないところが多かったのです。なぜなら、不必要な水を排除するのが難しかったからです。大雨が降ったら農地やその付近に建てた住居はたちまち水浸しになり、生活が困難になってしまいます。しかし平安時代末期あたりから干拓が進んだようで、鎌倉時代には農地になっていました。

中世の飯沼。赤線で囲った部分。『茨城県史 中世編』付録の地図から作成。常総市・報恩寺は飯沼の最南端 にある
中世の飯沼。赤線で囲った部分。『茨城県史 中世編』付録の地図から作成。常総市・報恩寺は飯沼の最南端 にある

 飯沼と、飯沼のすぐ東にある鬼怒川との間は、豊田荘と呼ぶ豊かな荘園でした。農地化された飯沼の周囲は、この豊田荘に加えられ、豊田荘加納と称されました。性信とその門弟たちは、この飯沼の南半分、すなわち横曾根を主な根拠地として勢力を張っていました。


➅ 性信の門弟性海

 性海が性信のことを「先師」というからには、性海は性信の門弟であり、横曾根門徒の一員と考えてよいでしょう。ところが、親鸞の門弟を一覧表にした親鸞門侶交名牒には、性信の門弟としての性海は記載されていないのです。そのあたりの事情は未詳です。また60歳ころに京都に帰った親鸞が、『教行信証』を持参したことは明らかです。親鸞75歳の時に京都で従兄弟の尊蓮に書写させたり、その後も京都の寺院で発見した中国伝来の仏書で補訂を加えたりしているからです。

 その親鸞自筆『教行信証』が性信の手に渡り、性信没後も横曾根の報恩寺に残され(「報恩寺」という寺名になったのはいつごろからか未詳です)、さらにそれが性海の手に渡った、と➄に掲載の銘文では語っています。性海は有力者であったといわねばなりません。「有力者」という意味は、横曾根地方で有力・京都で有力・鎌倉幕府との関係で有力、という三つの場合が想定されます。

 この性海が『教行信証』の出版を企てたのです。そこで先立つ物はおカネです。


➆ 鎌倉幕府の大有力者平頼綱

 ➄の銘文の次に、性海はいくつかの夢を見たことを記しています。そこには「副将軍相州太守平朝臣乳父平左金吾禅門[法名杲円]」が大般若経書写の企画に性海も加えてくれ、お礼に白馬一匹などを与えられた夢を見たとあります。ここには二人の名前が示されています。一人は「副将軍相州太守平朝臣」です。これは幕府の執権である相模守の平貞時のことです。もう一人はその貞時の「乳父平左金吾禅門[法名杲円]」です。貞時の乳人(めのと)である左衛門督の平頼綱です。すでに出家の形を取っていて、法名は杲円(こうえん)といいました。当時、身分の高い貴族や武士は、子どもが生まれると家来筋の者(夫婦)に育てさせました。それが乳人で、乳人の夫の方を乳父(めのと)と称しました。

 幕府の第三代執権北条泰時は北条氏の勢力を強めるために、また北条氏の中でも本家(「得宗(とくそう)」と称しました)の立場を強化するために、本家の家政を取り仕切る家令職を置きました。それを「内管領」(うちのかんりょう、ないかんれい)といいました。やがて執権が経時・時頼・時宗と継がれていくに従い、得宗家の力は強大になりました。得宗家の家来たちは御内人(みうちびと)と呼ばれるようになっており、彼らを取り仕切る内管領は幕府内での大有力者になりました。

 本来、鎌倉幕府は主人としての征夷大将軍がいて、その家来たちを御家人(ごけにん)と称しました。その観点からは、たとえ執権であっても北条氏も御家人ですし、他の御家人とは対等の関係でした。しかし北条時宗のころになると、得宗家は将軍をもしのぐ立場となり、御内人も御家人と対等どころか、それ以上の勢力になっていました。そしてとうとう弘安八年(1285)、安達泰盛を指導者とする御家人と、平頼綱率いる御内人との戦争が全国的レベルで始まりました。時宗が亡くなった翌年でした。

この戦いで御家人方は敗れ、多くの御家人が滅びました。勝った御内人の指導者である平頼綱は絶大な権力を手にしました。執権北条貞時はまだ15歳の少年、乳人である頼綱に頼らなければ生きていけない立場です。

 性海は、その平頼綱に厚遇されている夢を見たというのです。性海が突然このような夢を見たはずはない、と私は考えています。両者はこれ以前から何らかの関係があったであろうと思うのです。


➇ 平頼綱の援助で出版

 続いて➄の銘文には、貞時の息子と性海とが親しい様子を示す、性海が別に見たという夢が記され、さらに続いて、性海は性信から平頼綱に出版援助を頼むよう指示されたという夢を見た、とあります。


  先師性信法師化現して云う、教行証開板の時は、子細を平左金吾禅門に触れ奉りて

  刻彫すべきなり、というのみ。

   語注:「『教行証』」=『教行信証』のことです。

これも現代語訳すれば、「亡くなられた師匠の性信様が出現され、『教行信証』を出版するためには、平頼綱にお願いするしかないよ、といわれました」ということになります。

 そして事がうまくいく奇瑞の夢を見て心強く思い、性海は頼綱にお願いをしました。


  仍て子細を金吾禅門に触れ奉る。即ち既に聴許されて開板せしむる所なり。

「すぐさま援助して下さることとなり、木版の彫刻もすでに終りました」と銘文に記されています。

 この銘文は「この彫刻の作業は正応四年五月に始まり、同じく八月上旬に終りました」と書かれて終わっています。


➈ 平頼綱は飯沼の領主  

 平頼綱は性海の『教行信証』出版にとても好意的でした。なぜでしょうか。その大きな理由に、頼綱は飯沼の領主であったことがあるでしょう。そして二男の資宗に飯沼という名字を名のらせていました。長男より二男を信頼していた様子です。事実、長男は後に父と弟から離反してしまいます。

  平頼綱┬―宗綱

     └―資宗(飯沼)

 

証智尼坐像。常総市・報恩寺蔵
証智尼坐像。常総市・報恩寺蔵

➉ 今後の課題

 ではなぜ性海は頼綱に出版を依頼でき、頼綱はこれに応じたのでしょうか。性海は鎌倉か゚その付近に住んでいたのではないでしょうか。横曾根では性信の跡を、その娘の証智尼が継いでいました。性海が横曾根に住んでいたのなら、この出版の話に証智尼のことが出てこないはずはないのではないでしょうか。

 このあたりの検討は今後の課題です。

 

 

 

                     

 

 


報恩講&銀杏festは無事に終了いたしました。多くの皆さまのご来山、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。(11月20日)

 

【お葉付き銀杏の色づき情報】

黄色い落ち葉の絨毯状態です。

今年は10月の急激な冷え込みのため、例年より2週間ほど早く黄葉のピークおよび落葉を迎えました。来年を楽しみにお待ちください。(11月20日)

 

昨日の風雨でほとんど落葉いたしました。(11月19日)

 

8割の葉が落葉いたしました。

黄色い落葉の絨毯が美しい状態です。(11月17日)

 

少し色づきが深くなってきましたが、まだ散り始めてはいません。あと数日は黄葉が楽しめそうです。(11月11日)

 

ただいま見頃を迎えていますので、ご覧になりたい方はお急ぎください。今年の黄葉は2週間ほど早まっており、荒天になりますと散り始めるものと思われます。(11月6日)

 

 

「庵田米」新米の販売を開始しました。当山宿坊にてお買い求めください。庵田米については、左端をご覧ください(写真もあります)。

 

 

ご連載とスプリングセミナーをご担当くださっていました加藤智見先生は、膵臓ガンのため8月30日にご逝去なさいました。慎んでお悔やみ申し上げるとともに、長年のご執筆・ご講義を心より御礼申しあげます。また、今井雅晴先生のご連載は、ご多忙のため第28回(7月1日)をもって修了とさせていただきました。長期のご連載ありがとうございました。皆さまのご愛読に心より感謝いたしております(9月17日)。

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。