【第25回】2017年1月1日      筑波大学名誉教授 今井雅晴

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
 近年はやりのクイズ形式のテレビを見ておりましたら、「新年おめでとうございます」・「明けましておめでとうございます」というのは日本語として正しい使い方で、「新年明けましておめでとうございます」というのは誤った使い方ですと言っておりました。そのとおりだろうとは思うのですが、「新年明けまして」の方があらたまった感じがして、本稿本年の最初にはそのように書かせていただきました。

アメリカ独立宣言が行なわれたインディペンデンス・ホール。フィラデルフィア
アメリカ独立宣言が行なわれたインディペンデンス・ホール。フィラデルフィア

 今から29年前、私は初めてアメリカに渡りました。アメリカ東海岸のフィラデルフィアにある、さる大学の客員研究員で、半年の予定でした。フィラデルフィアはアメリカ独立宣言の地です。その時に打ち鳴らした独立の鐘も見ました。まもなく、何十キロか北にあるプリンストン大学や、さらに北のニューヨークにあるコロンビア大学に出入りさせてもらえるようになりました。いずれも優れた日本研究で有名な大学です。そのなかで知り合った大学院生の一人に、一向一揆を研究している人がいました。彼は中世の日本語が読めて書けました。当然、現代日本語もできました。また高校の時にフランス語を学び、大学の時に2年間ドイツの大学に留学したそうです。英語を加えれば4カ国語から5カ国語ができるということになります。気がついてみれば、アメリカの優れた大学の大学院生は数カ国語ができて当たり前、つくづく日本人はかなわないと思いました。

プリンストン郊外の住宅
プリンストン郊外の住宅

 その一向一揆研究の大学院生は、もともと日本でお寺の住職になりたかったのだそうです。アメリカで準備をし、日本に来て懸命に勉強し、さる宗派の住職の資格を取りました。「さて住職に!」と張り切ったところで挫折しました。どこのお寺も受け入れてくれなかったのです。彼からその話を聞いた私の感想は「気の毒に」というのと、「お寺にすれば無理もないか」という二つでした。  
 最近、別の宗派のさる住職と話す機会がありました。その住職とは40年来の友人です。その人が言うことには、「20年もヨーロッパのある国で働いていた娘が帰国し、お寺を継いでくれることになりました。いま、住職資格を取るための準備中です。その国の人である夫も一緒に来て、やがては僧侶の修行をしたいと言っています。心配だったのは檀家さんたちだったのですが、皆さん二人にとても好意的です」ということでした。その娘婿は、長身、穏やかで映画に出てくるようないい男でした。仏教界の衰退が言われる今日、国際化の方法もいろいろと考えていくべきだろうと思った次第です。

コロンビア大学本部。ニューヨーク
コロンビア大学本部。ニューヨーク

 蛇足ながら、私は後にプリンストン大学とコロンビア大学のいずれも大学院から客員教授に招かれました。その時の大学院生たちは日米交流そして世界で活躍してくれています。うれしいものです。

 

 

 

 

【2016年11月12月の活動】
著書の出版:ここでは私の今年(2016年)11月・12月の論考について記します。
《論考》
①「夫を見守る妻」(連載「親鸞の東国の風景」第2回)『自照同人』第97号(2016年11・12月号、2016年11月10日)。
 親鸞が関東に住んだ建保2年(1214)年から貞永元年(1232)、42歳から60歳までの18年間、妻の恵信尼は親鸞に対してどのように接していたかをあらためて考えてみました。それが本稿の「夫を見守る妻」です。
②「親鸞伝の新研究」(9)〜(17)『東国真宗』第3号(2016年11月23日)
 毎月開いている東国真宗研究所の「神奈川真宗講座」での連続講座の講義録です。講座第9回のテーマ「越後流罪・越後での流人生活」から以下「関東移住の目的」「宇都宮頼綱の招き」「越後から稲田への旅⑴─千部経読誦─」「稲田から越後への旅⑵─上野国下野国をめぐる親鸞─」「稲田とはどのようなところだったのか」「二十四輩」と続き、第17回が「山伏弁円」です。
③「親鸞聖人と神奈川県」⑵『組報 かまくら』第33号(2016年12月)
覚如『口伝抄』に記されている、鎌倉幕府の執権北条泰時が一切経校合を依頼したという挿話を、主に泰時の政治的立場から検討しました。
④「親鸞聖人と相模国」『教化研究』159(真宗大谷派教学研究所、2016年12月)
教学研究所で行なった同名の講演の講義録です。

 

 

【連載 親鸞と慈円と青蓮院⑵】
① 親鸞の出家と慈円
 覚如の『親鸞伝絵』に、親鸞は9歳の時に伯父の日野範綱に付き添ってもらって慈円のもとで出家したとあります。慈円は後に天台座主の地位に4回も就任した人物です。天台座主とは比叡山延暦寺の住職で、同時に全国の天台宗のトップでもあります。また慈円は歴史書である『愚管抄』の執筆者であり、有名な歌人でもあります。そして右大臣から摂政へ、そして関白に昇った九条兼実の弟でもあります。親鸞はこのように有名な人物に戒師(出家させてくれる人)になってもらったのだ、というのが覚如の説くところです。
 親鸞が出家した時、慈円はまだ27歳の青年でした。むろん、まだ天台座主の地位についてはいません。そしてまだ青蓮院の住職にもなっていません。俗に言う「青蓮院の慈円に戒師になってもらった」とするのは誤りです。『親鸞伝絵』にもそのようには書かれていません。
 親鸞はほんとうに慈円のもとで出家したのでしょうか。この問題の最終的な決着はまだついていません。

 

② 慈円と九条兼実
 このシリーズの前回にも述べましたように、兼実と慈円の父忠通は10人の息子のうち3人に摂政・関白に就任する資格を与えました。近衞基実・松殿基房・九条兼実の3人です。いずれも異母の兄弟です(ただし、基実の母と基房の母は姉妹)。
  
  藤原忠通─┬─近衞基実(母は源信子。正二位権中納言源国信の娘)
       ├─松殿基房(母は源俊子。正二位権中納言源国信の娘)
       ├─九条兼実(母は加賀局。太皇太后宮大進仲光の娘、家の女房)
       ├─道円  (母同上)
       ├─兼房  (母同上)
       └─慈円  (母堂上)

九条兼実像。京都市東山区・知恩院蔵
九条兼実像。京都市東山区・知恩院蔵

 母加賀局の父の職である「太皇太后宮」というのは、天皇の祖母あるいは先々代の天皇の皇后の庶務・家政を担当する役所です。「大進」とはそこを管理運営する役職の第三官です。官位でいえば従六位上相当の職です。位で貴族を上級貴族・中級貴族・下級貴族という三段階に分類すれば、正六位上から下級貴族となりますので、従六位上は下級貴族の上から三番目です。貴族社会では政治的・経済的にまったく問題にならない存在です。上級貴族の家に出入りさせてもらい、働き、なんらかのおこぼれに預かること期待せざるを得ない境遇です。親鸞の父日野有範も、ほぼ同じ境遇の皇太后宮大進でした。「皇太后宮」は天皇の母または先代の皇后の庶務・家政機関です。 
 兼実と慈円の母加賀局が「家の女房」であるというのは、『尊卑分脈』の記載です。「家の女房」とは貴族の家に勤める女性で、下働きではなく部屋を与えられて尊重される存在です。中級・下級貴族出身の女性が多いです。「加賀局」の「局」とは敬称です。主人の貴族と仲がよくなって子どもを生む例もよく見られます。兼実・慈円の母加賀局は、まさにそのような存在でした。

 

③ 自尊心が強かった兼実
 母が上記のような卑賤の身分(貴族としては、ということです)出身であったためか、兼実は周囲から見下されまいとする自尊心が非常に強かった人です。当時、男子は母の身分を引き継ぐのではなく父の身分を引き継ぎます。兼実は従一位太政大臣であり、摂政であり関白であった藤原忠通の息子ですから、高位高官に昇ったからといって誰憚ることは必要無い立場です。しかし兼実と同じく父から後継者の立場を与えられた二人の兄基実と基房の母が正二位権中納言の娘であることと比較すれば、自分の母が従六位上相当の皇太后宮大進であることの差は歴然たるものがあります。母の実家からの政治的・経済的援助は期待できません。
 兼実は摂関家の後継者としての自尊心に強く促されてでしょう、貴族が知っておくべき朝廷の慣例・法律・歴史を身につけることに励みました。兼実はそれらの学問的知識に非常に富んだ人として朝廷内で尊重されるようになりました。おりから勢力を伸ばしてきた平清盛とは仲がよくないのに、15年間も右大臣として存在し続けることができたのは、この学問的知識が朝廷として必要であったからにほかならないでしょう。
 ただし、自尊心が強いゆえに大きな失敗に至ったこともあります。それは源頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇の後宮に入れたいと希望した時、断固、反対したことです。いくら関東の武家政権の長とはいえ、出身の身分は低く、朝廷の官職も低い頼朝の娘が後宮を希望することなどまったくあってしかるべきことではない、という理由からです。
 兼実は頼朝の後押しによって、万年右大臣(正確には20年もの在任でした)から摂政へ、摂政から関白へ昇ることができたのです。その頼朝のたっての願いを拒否したので、頼朝との仲は悪くなりました。頼朝は、仕方がないので兼実の政敵土御門通親(源通親)と結ぶに至り、兼実は没落していったのです。 

④ 兼実と弟たち
 兼実が誕生した時、父忠通はすでに53歳でした。以後、2年ごとに男子が誕生しました。道円(どうえん)、兼房(かねふさ)、慈円です。すぐ下の弟の道円は出家しました。彼は当初、兼実がもっとも期待した弟でしたが、20歳で早死にしてしまいました。次の弟の兼房は従一位太政大臣にまで昇りました。しかし兼実は兼房をあまり評価していませんでした。兼房は正治元年(1199)に出家引退しました。兼実が土御門通親のために没落させられている最中でした。そして建保5年(1217)に亡くなっています。でも兼実は兼房の息子兼良を養子として引き立て、正二位権大納言にしています。またもう一人の息子兼円を慈円の門弟にしています。
 その慈円は兼実の6歳年下の弟でした。2人はずっと仲がよく、兼実の没後も慈円は九条家を盛り立てることに尽力しています。

 

慈円と兼実の父藤原忠通。『天子摂関御影』宮内庁蔵
慈円と兼実の父藤原忠通。『天子摂関御影』宮内庁蔵

⑤ 慈円の両親の没
 保元元年(1256)、慈円は2歳で母をうしないました。そして長寛2年(1164)、こんどは10歳で父をうしないました。慈円の初期の和歌に、次のような和歌があります。両親に対する思いを詠んだ和歌です。
 
  たらちねも 又たらちめも うせはてて
    たのむかげなき 歎きをぞする
お父さんもお母さんも亡くなってしまい、頼りにすべき人たちがいない悲しい気持を味わっています」。また次の和歌もあります。

  みなし子の たぐひ多かる 世なれども
    ただ我のみと 思しられて
「親をうしなった子の例は、世の中で多いですけれども、それは私の場合だけなのではないかと思うくらい悲しいです」。

 

⑥ 慈円の出家
 永万元年(1165)、11歳の慈円は覚快法親王の室に入って道快と称しました。覚快は鳥羽天皇の第七皇子で、青蓮院を開いた行玄の門弟でした。ここに慈円と青蓮院との結びつきが始まります。
 慈円は、翌々仁安2年、13歳で出家しました。戒師はその時の延暦寺座主である明雲でした。慈円は翌年から3年間、まず密教を学びました。その三部の大法と呼ばれる『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』を受け、護摩などの行法を行なっています。安元2年(1176)、22歳の時には比叡山の無動寺で千日入堂を行ないました。無動寺の本尊は不動明王です。不動明王は大日如来の化身と言われています。慈円は煩悩を征服し、乱れる心を抑え、その上で極楽往生を願いました。千日入堂の時の心境を歌った和歌があります。

  三年まで みのりの花を ささげつつ
    九品(ここのしな)をも願ひつる哉

 慈円は、治承3年(1179)の春三月二十四日、25歳の時に千日入堂を終えて京都に戻りました。以後、翌年の12月に至るまで、隠遁の道に入りたい、聖とともに生活して自分にとってのほんとうの修行をしたい悩み、兄の兼実に訴え続けました。しかし周囲の説得により、また聖はしばしば尊いように見えるが実際はそうでなかったと理解したことにより(多賀宗隼『慈円』吉川弘文館、1958年)、比叡山に戻りました。自分のためではなく、世のために生きようと決心したのです。

本日の銀杏のライトアップは、風雨のために中止させていただきました。深くお詫び申し上げます。明日はのライトアップを実施する予定です。既に落葉しておりますので、落ち葉の絨毯をライトアップいたします(11月18日)

 

【お葉付き銀杏の色づき情報】

8割の葉が落葉いたしました。

黄色い落葉の絨毯が美しい状態です。(11月17日)

 

少し色づきが深くなってきましたが、まだ散り始めてはいません。あと数日は黄葉が楽しめそうです。(11月11日)

 

ただいま見頃を迎えていますので、ご覧になりたい方はお急ぎください。今年の黄葉は2週間ほど早まっており、荒天になりますと散り始めるものと思われます。(11月6日)

 

 
「銀杏fest」を開催します(11月18~19日)。 午後市(13:00~17:00頃)では、地元産の新鮮な野菜の販売や、ユニセフへの寄付のために手芸品などの販売を行います。また、お葉付き銀杏のライトアップを行います(17:00~19:00雨天中止)。 19日午後にはFl.&Gt.

Duo chotto(デュオ  チョット)(フルート:中田由紀乃氏/ギター:谷島崇徳氏)の ミニコンサート があります(15:30

~16:30/申込不要、無料)。なお、19日は親鸞聖人報恩講も同時に開催中で、伊藤益先生(筑波大学大学院教授)のご講演「現在における救済―親鸞聖人のお浄土―」があります(13:00~14:00/申込不要、無料)(11月3日)

 

 

「庵田米」新米の販売を開始しました。当山宿坊にてお買い求めください。庵田米については、左端をご覧ください(写真もあります)。

 

 

ご連載とスプリングセミナーをご担当くださっていました加藤智見先生は、膵臓ガンのため8月30日にご逝去なさいました。慎んでお悔やみ申し上げるとともに、長年のご執筆・ご講義を心より御礼申しあげます。また、今井雅晴先生のご連載は、ご多忙のため第28回(7月1日)をもって修了とさせていただきました。長期のご連載ありがとうございました。皆さまのご愛読に心より感謝いたしております(9月17日)。

 

書籍の販売コーナー宿坊にございます。左端のおしらせ→書籍販売コーナー新設のご案内とお進みください(写真がご覧になれます)。また、当山のパンフレットオリジナル絵葉書その他の記念品があります。宿坊の売店にてお求めください。パンフレットと絵葉書は、ご本堂内にもございます。